私情をはさむ余地
師匠はしばらくの間、黙っていた。
外が白み始めるのか、うすら寒い光が馬車の中にもさし始める。真っ暗闇の中で聞いていた師匠の声が、仄明るさの中に次第に実体を帯びた。
「手放すのが賢い選択だろう。」
と、彼はやがて言った。
「手放すってのは、カラスに連れて行かせるってことですよね。」
とダリウスは念をおす。
「そう。こちらが抵抗しなければカラスはわたしたちにはなんの危害も加えない。わたしたちの作業場も荒らされない。」
「どこで手放すんです?」
「ゾアだ。あそこの旅館の亭主を一人、知っている。彼に預けてー」
「おれたちは、ずらかる。」
やがてカラスがきて、彼女を引き立てていく。誰も傷つかず、誰も苦しまない。
ザンダ以外は。
ダリウスは師匠がすでにそこまで計画していることに、かすかな落胆を覚えた。ダリウスが、師匠のザンダへの敬愛とみていたものはやはり間違いだったのか。この人に限って、女を命がけで救うなどやはり、ありえないのかもしれない。
不意に師匠が低く笑った。
「トリスタンが聞いたら、怒るだろうね。ザンダを見捨てたと罵られ、わたしは一生、卑怯者扱いだ。」
ダリウスは薄く輪郭を持ち始める師匠の影を見やった。師匠でも自分の行動の公正さに気を配ることがあるのかー。
「気になりますか。」
「何が?」
「卑怯者扱いされることです。」
「これが宮廷の連中相手ならわたしの知ったことじゃないが、トリスタンは一応、わたしの友人だ。友人に卑怯者扱いされるのはー、こたえるね。」
なるほど、この人も仁義というものを考えることがあるらしい。十三歳で弟子入りして初めて見る師匠の一面だ。
不意に師匠が身を少し起こして座り直した。
「だが、ダリウス。卑怯者と言われようと、わたしたちはいずれどこかでザンダを見捨てることになる。
考えてもみたまえ、わたしたちのような筋なしがカラスに抵抗してザンダを守ろうとしたところで、結局、わたしたちはやられ、ザンダは奴らに持っていかれる。」
そう。カラスは筋持ちなのだ。しかも「特別」な。そこが厄介なところだ。
「まあ、そうですね。」
と、ダリウスは同意した。
彼らにが歯向かうということは武器を持った人間に丸腰で挑むようなものだ。ダリウスたちに勝ち目などない。
それに、と師匠は言った。
「卑怯者と言われることにはもう慣れている。」
師匠の声音はどこか諦観しきれていないような、皮肉な調子を帯びた。
「ー」
「なんだ、わたしがそんなことを言うのは意外か。」
ザンダに出会ってから、師匠は次々と、ダリウスが何年も知らないでいた心の襞を見せ始めている。
意外です、と答えるかわりにダリウスは尋ねた。
「じゃ、ゾアでおれたちはー」
「ザンダを他人に預ける。かわいそうだが、あとはわたしたちの知ったことではない。」
おれが師匠ならどうするだろうか、とダリウスは考える。きっと結論は同じだ。
だが、ダリウスと師匠との大きな違いはすぐに明らかになった。
「ちょっとは気に入っていたんじゃないですか、ザンダを。」
ダリウスはそう師匠に挑みかけた。
すると師匠はダリウスの方におもむろに顔を向けた。馬車の内部が白み始める中、数々の貴婦人たちをベットの上でとろかしてきた唇が浮き立ってみえた。それは華麗に歪んでいた。
「そうだよ、ダリウス。だからなんだ。」
「ー」
「我々の仕事を優先するとき、わたしの私情など二の次だ。違うか。」
ダリウスは応えられなかった。師匠のように、バッサリとザンダへの想いを切り捨てられない。彼のように、自分のすべきこととやりたいことを冷静に天秤にかけて、すべきことをとることができなかった。
とかく、私情に流されやすい。だからおれはまだまだ半人前なのだ。
その時だった。背後の壁をコツコツと御者が叩いた。
道案内を要求しているのだ。
「ゾアですね。」
と、ダリウスは師匠に念をおす。外套の襟を留め金できっちりと止め、傍観する。
馬車が止まり、ダリウスは外へ出た。白々とした「雲の蓋」の下に草原が広がっている。その中を縫うように伸びる道の分岐点はすぐそこだ。
御者台によじ登ると、仕事を終えた灯しびとが錫杖型のトーチを抱きしめて寝入っている。
毛布のように外套にくるまった初老の男が四頭の馬に鞭を当てた。再び、馬車は動き始めた。
ダリウスはゾアまでの道を御者に説明し始めた。