記憶
いやだ。あの人の弟子になんか、絶対になりたくない。
初めて師匠に出会ったときの、あの不可解な拒否反応の中身が何だったのか、わたしはようやくわかった気がする。
ヘラルメの師弟関係は、弟子が師を指名することにより開始する。
広間の中央に集められた十人の師匠に背を向け、花を後ろ向きに放るのである。そして、これが着地した場所にいる師匠がその弟子の師となる。
そんなにうまく都合のよい場所に?
と思いたくもけれど、もう長い間続いてきたこの儀式で、花が十人の師匠のうち誰かの足もとに落ちなかったことはないときく。
花を放りながら、最前列の右から二番目の師匠に当たれば良いと願った。白い口髭を蓄えた、見るからに面倒見の良さそうな初老の師匠だ。
だが、わたしの花が着地した場所は二番目の列の一番左だった。
振り向いて、その位置にいる人を確認したとき、わたしは自分の気力というか、勇気が一気に引いていくのを覚えた。
いやだ。あの人だけは、どうしてもいやだ。
どう見てもヘラルメでは一番若年の師匠だった。次に年の近い先輩師匠よりも、わたしとの方が、年が近そうだ。
少し長い黒い髪を後ろで束ね、賢そうな額を前面に出して、眼光鋭く、厳しい顔つきをしていた。
同時に、おそろしく美丈夫だった。
部屋の南側に並ぶ大きな窓からは白々した天光が差し込み、広間の床一面に嵌められた寄せ木細工の上には、窓の装飾格子がうっすらと影を落としていた。
ピンと張り詰めた空気の中、わたしはその人の前まで進んだ。
わたしはすっかりその人の前まで進んだ。けれど、すっかり動揺していて、彼の前に恭しくひざまづいたきり、体が固まってしまった。
「立ちなさい。」
と、進行役の助手が言った。
けれど、わたしは立たなかった。極度の緊張のために耳が遠くなっていた。
にわかに大きな両手がわたしの二の腕を外側からわし掴みにして、わたしを立たせた。
「おれの声が聞こえるか。」
と、師匠となる人が静かな低い声で尋ねた。
絹のように滑らかなバス。こんな魅力的な声で毎日のように指導されたら、わたしは気絶するかもしれないと思った。
「それでは、今から誓いの言葉をー」
助手の声が異様にくぐもってわたしの耳に届く。めまいがした。だめだ。これ以上、続けられない。
「フィルミン、もういい。あとはおれがやる。」
師匠となる人の声が高らかに響き渡る。あたりからざわめきが起こった。明らかに異例の事態だ。
彼はわたしのあごに手を当ててちょっと上向かせた。
「おれを見ろ。」
わたしは知らず知らずのうちに抵抗している。俯いたまま、必死に相手をみまいとする。見たらその濃く黒く澄んだ瞳に魂を吸われそうな気がした。
「おれの目を見ろといっている。」
師となる人が催促した。わたしはやっと視線を相手に向けた。
「いいか、おれが今から言うことを復唱しろ、わかったか。」
師匠が低い声で命じる。わたしは黙ってうなずいた。
「我、ザンダ・モランはトリスタン・アラリを生涯、師と仰ぐことを誓う。」
さあ言え、と師匠が促した。ぐらりとわたしの身が傾ぐのを師匠の手が両側から支えた。
わたしは意識の向こう側で自分の口が師の名を紡ぐのを聞いていた。
トリスタン!なんと甘く繊細な響きを持つ名だろう。
この名をわたしが口にできるのはこの時かぎりだ。いったん師弟関係を結べば、わたしは彼をお師匠様、と呼ばなければならない。
それから、師匠が誓いの言葉を述べるのを聞いた。
「我、トリスタン・アラリは生涯、ザンダ・モランに持てる限りの知恵と技を伝授することを誓う。」
目をつぶれ。師に命じられるがままに、わたしは瞼をおろす。
すると、ささやかな衣擦れの音があって、気配が動き、あたたかい唇がわたしの右瞼にそっとふれた。
粗雑な物言いとは裏腹に、壊れ物を扱うような優しい口づけだ。わたしは途端に臓腑が奮い立つような興奮を覚えた。と同時に恐怖も。
師弟間の恋愛はヘラルメではかたく禁止されている。
それなのに、確かな予感があるのだ。
わたしは絶対にこの人を好きになる。破滅的に好きになる。
トリスタン・アラリを師匠と仰ぐのがあんなに嫌だった理由。それはわたしがそもそも、師弟関係でない他の関係をこの人と望んでいたからだ。
わたしはトリスタンの恋人になりたかった。
わたしは彼に面と向かってこう、要求したかった。
口づけを、瞼でなく、唇に欲しいと。その絹のような声で愛していると甘く囁いてほしいと。
だが、あの日、宙に放られた赤いヤマボタンの大輪が描く軌跡は、恋を告白することすら、師弟関係の戒律の中に封じてこめてしまった。