第九十六話 どうぞ好きに使い捨ててください
午後の授業中。
一華はノートの端に『光井さん。継承戦の時に会っていますよね?』と書いて、姫子に見せる。机をくっつけているので、周りの生徒にも気付かれていない。
すぐ隣でノートを取っていた姫子はぴたり、と手を止めて一華からのメッセージを凝視する。
彼女が見たのを確認してから、その下に新たな一文を加えた。
『君、ナージさんじゃないか?』
継承戦の際に一華、白羽と交戦した『ナージ』というコードネームで呼ばれていた暗殺者。姿は違うとはいえ、先程感じた気配は『ナージ』のものと酷似していた。
確信、とまではいかないが、一華の問いに動揺している様子。やや間をあけて、姫子は一華が書いた文の下に答えを書く。
『さすが、一華様です』
その短い文が、光井姫子が『霞』の幹部『ナージ』である事を物語っていた。姫子、もとい『ナージ』は観念したのか、続けてノートに経緯を書き記す。
『たしかに、私はナージです。このたびは、任務としてこの学校に潜入しております。一華様にはもちろん、一般の方々にもご迷惑はかけません』
『何かあったのか?』
「…………」
一華が問うと、『ナージ』は答えるか否か迷っているように手を止めてしまった。任務、と言っていたし、内容を他言してはならないと指示されているはずなのだが、一華にはそれを聞く権利がある。「答えろ」と言わんばかりに視線を送っていると、『ナージ』は
『のちほど、お話します』
と、書いた。
※※※※
深夜零時。
音城学院の敷地に侵入した一華は、校舎内で待っていた『ナージ』と合流した。
生徒は当然、教職員達も残っていないのは『ナージ』が確認済みだ。廊下には一華と『ナージ』だけの姿があり、会話も包み隠さず行える。
『ナージ』はこれから任務をこなすらしく、その場に一華も同席する事を許してくれた。『ナージ』の上司である『レージ』にも確認をとったらしく、「当主様がいた方が心強いでしょう」と許可も出たらしい。
待ち合わせしていた校門前から、高等科校舎、中等科校舎と隣接している体育館へと向かう途中で、『ナージ』が口火を切った。
「一華様が当主になられた後、この学校に妙な気配があると報告があったのです」
「妙な気配?」
「はい。ここは本条家が所有し、一華様達が通う学校。襲撃される事は、あってはなりません。ここはただの学校としてあるべく、基本的に監視されています」
「その時点でただの学校ではないよな」
「……そこは置いておいてください。妙な気配というのは、結界の事です。何者かがこの学校内に術式を巡らせ、よからぬ事を企んでいると見ています」
「結界か……私は魔力を持っていないし、あまり詳しくは分からないんだが……」
最近、そういった事件が多い気がする。魔物と戦った時もそうだが、魔力を持ち合わせていない一華には耐性がない。幸い、魔物と戦った時は気配を探る事で事なきを得たが、結界ともなれば話も変わってくる。
そもそも結界とは。魔力を込めた魔法術道具や、魔法石を媒体として特別な領域を作り出す事である。
結界の中にいれば、結界の外からはその姿が見えなくなったり。結界の中に敵を閉じ込めて時間を稼ぐ事にも使われたりする、魔法術を扱う者によって効果が変貌する厄介な術だ。
「体育館が落ち着かなかったな。言葉にするには難しいが、背筋がぞわぞわした」
魔力を持ち合わせていないと、そういった痕跡は目に見える事もない。ゆえに、魔力を持ち合わせない大半の人間には気付かれず、後々になって大事に発展するのだが、一華には圧倒的な本能――――危機回避能力が備わっている。気配に敏感な一華は、そんな曖昧なものですら察知していた。
十中八九、結界の影響だったのだろう。本日の体育の授業で感じ取った事を正直に『ナージ』に告げると、彼女は同意するように首を縦に振った。
「その反応は正しいものですね。体育館に、術式が張られています。魔力に敏感な人達が体調不良を訴えるケースもあるようなので、早急に対処すべく私が派遣されました。今夜、術式を解除するとともに、犯人を捕らえる予定です」
「成程。他に問題点はないか」
「特には。そこが妙なところなのですが……」
体育館に術式が張られているのなら、それを解除すれば結界は解ける。犯人の目星がついているのか定かではないが、確かに上手くいきすぎているような気がする。
『霞』の情報網が優れているからにしても、油断は禁物。それは『ナージ』も心得ているからこそ、どこか煮え切らない態度なのだろう。行き当たりばったりになりそうだが、これ以上被害者が出る前に解決しておきたいのは一華も同じだ。
「ともかく、まずは出来る事から取りかかろう。手伝うよ、継承戦の時は世話になったからな」
敵対して戦っていたとはいえ、『ナージ』を含めた『霞』の者達は本条家の権威回復に協力してくれた。御礼の品を送っておいたとはいえ、当然それだけで返せるとは思っていない。
何より、ここは本条家が所有し、一華達が通う学校だ。大切な学び舎でよからぬ事を企んでいる輩がいるというのであれば、一華自ら制裁を加える事も吝ではない。
しかし一華からの提案に、『ナージ』は手を振って遠慮の意を示した。手を貸してもらうつもりはなかったらしく、その表情も微かに困惑しているようだった。
「いえ、当主様のお手を煩わせるわけにはいきません! ボスや先輩に怒られてしまいます」
「ここは学校だ。クラスメイトに協力し、助けるのは当然の事じゃないか。そうだろう、姫子ちゃん?」
彼女が『ナージ』であろうと光井姫子であろうと、知り合いである彼女が困っているのなら手助けしたい。一華の余計なお節介かもしれないが、少なからず自分も関わってしまったのだから、途中で引き下がる事はしたくない。
「し、しかし……」
「ほら、行こう」
半ば強引に話題を切って、一華は歩き始める。『ナージ』は唖然とその背を見つめていたが、慌てて追いかけて言った。
「あの、お付きの方に連絡を入れた方がよろしいのではないでしょうか」
「私が貴方と一緒にいる事は、もう知っているよ。二条さんには、外で待機してもらっているんだ。外から見て異常があれば、連絡が来るはずだよ」
「そうですか……。やや不安は残りますが、一華様がそう仰るのならば、それに従います」
まだ納得がいっていない様子だったが、これ以上食い下がっても一華は退かないと察したのだろう。『ナージ』は肩を竦めながら息をついていた。
体育館に到着するまで、まだ距離がある。一華は横目で『ナージ』に視線を送って、問いかけた。
「そういえば……貴方達は、どうして本条家に従うんだ?」
「それは、従家じゃないのに、という事ですか?」
「そんな感じかな」
それは、ずっと疑問に思っていた事だった。『霞』は金で動く掃除屋。裏の世界では非公式組織だが、その名高さと実力はトップクラスともいえる。
それほどまでに有名なのに、彼等の実態は何一つとして掴めないとされているのだから、どこまでも謎の多い組織だ。
しかし裏では本条家から多額の出資を受け取っており、代わりにどんな命令にも従うという。『霞』のボスである『レージ』はそう説明していたが、目の前にいる『ナージ』はどう思っているのだろうか。
「従家のほとんどは、何かしらの契約がなされていると聞いた事がある。昔昔の話だが、本条家の初代当主も魔法術による契約を果たし、従家を作り上げたらしい」
本条家に代々伝わる昔話は、幼い頃に誰かから聞かされた。話を聞かされた事自体は薄ぼんやりとした曖昧な記憶だが、何故か鮮明にその光景は浮かび上がってくる。
本条家初代当主と、それに仕えた従者達。彼女は従者達に「絶対に主を裏切らない」と契約を持ち掛けた。それを受諾した従者等が契約を交わし、従家として子孫を残していったという。
本条家に限らず、どこの名家も始まりはそのようなものだろう。敵だらけの裏の世界で、心から信頼出来る人間は数えるほどしかいない。だからこそ知識のあった者達は、契約という手段をとった。
「契約は血と共に受け継がれ、根強い忠誠心を生み出している。まぁ、その契約ももう薄まってきているだろうが……」
しかしそれは本条家と各条家の話で、『霞』という組織とは何ら関係のない事。契約もなしに本条家当主に忠誠を誓う理由とは何か、一華は気になった。
「だが、貴方達は違う。裏の世界の要人達から依頼を請け負い、地位を築いてきた。正直、本条家の力がなくともやっていけると思うのだが……」
一華の疑問に、『ナージ』が答えてくれるとは思わなかった。けれども『ナージ』は、少し考える素振りをとって悩んでいる様子。少しは期待してもいいかもしれない。
「私は『霞』に所属してまだ数年の新人なのであまり詳しくはないのですが……」
そう前置きして、『ナージ』は語る。
「ボス曰く、本条家にとって必要な組織だからだそうです。ご存知の通り、私達は表の世界で生きられなくなった者の集まり。私を拾ってくださった先輩やボスには、返しても返しきれない恩があります。『霞』のボスが忠誠を誓うのは本条家当主。なので、私も貴方に従います」
「……それはつまり、ボスが私を裏切った場合、貴方も私を裏切ると」
「そういう事になりますね。気分を害してしまったのなら謝ります」
「いや、気にしていないよ」
『霞』という組織は上下関係が厳しいのだろうか。それとも『ナージ』が、目上の人を心から尊敬しているから、その決断に至るのだろうか。
どちらにせよ、そこに『ナージ』自身の意思はない。
「ですが、裏の世界の均衡を保つため。そして……貴方が人として在れるように、私達の存在が必要不可欠だと教わりました」
ふと、一華はその場で立ち止まってしまった。
『ナージ』は「貴方が人として在れるように」と口にしたが、それではまるで『霞』の者達はそうでなくていい、と言っているようではないか。
一華の疑問は当たっていたようで、一華に合わせて立ち止まった『ナージ』の口から告げられる。
「私達は道具です。ですから、どうぞ好きに使い捨ててください」
『霞』とは、そういう組織だと分かっていたはずだ。名前も、性別も、年齢も分からない。あるのは個体を示すコードネームと、その身だけ。
感情を殺し、機械の如く仕事を行う。
それが暗殺や暗躍にしろ、情報収集や売名にしろ、相当な負荷がかかっている事は容易に想像がつく。それなのに『ナージ』は、「自分達を道具だ」と言い切るのだ。
『ナージ』達もまた、それぞれ意志を持った個人なのに。
その道を歩むと決めて、進んでいる『ナージ』に説教をするのはお門違いだろうか。きっと、『ナージ』は主張を変えない。
そう悟った一華は、短く溜息をついて。
「わっ……!?」
『ナージ』の額を、指先で軽く小突いた。力は込めていない、本当に軽く押しただけだ。けれども『ナージ』は突然の事に驚いたのか、額を抑えながら数歩後退る。
一華の力は強くなかったはずだ。痛がっている様子はないので大丈夫なはずだ。と、心のどこかで言い訳していたが、あくまでそれは表情に出さないようにして、一華は言う。
「私は、貴方達を道具だと思った事はないよ。もちろん、白羽さん達の事も」
「…………」
一華に小突かれた額を摩っていた『ナージ』は、目を丸くして瞬きを繰り返す。基本的に無表情だが、驚いた表情は年頃の少女のようだった。
「だから、そんな事を言わないでくれないか」
「……分かりました。ですが、これだけは言わせてください。私達は人を傷付ける事も、殺す事にも抵抗がありません。だからこそ、この仕事をしています。あまり、私達を信用し過ぎない方がいいと思います」
『ナージ』の言葉は、どこか一華を突き放そうとしているふうだった。
「……それは、もう慣れてしまったという事か?」
「私の場合は……そう言えるかもしれません。この仕事で今日まで生きているので、どう答えるのが正しいか分かりません」
少し似ている、と思った。
一華自身も、何度も殺されそうになったし、襲いかかってきた敵を斬り殺した事も数え切れないほどある。
その数え切れない一つ一つが、一華と同じ今日まで生きてきた人間である事。その人達には、それぞれ違う人生や思考がある事も承知している。
その事は忘れてはいけないし、これからも留意していかなくてはならない。
その上で、一華は刃を振るう決意をしたのだ。己の役目を果たすために、他者を切り捨ててでも前に進むと。実際は、一華一人の力で出来る事など何もなくて、白羽や二宮達に頼ってしまうのだが。
とはいえ、『ナージ』にはそれが感じられない、というのが率直な感想だった。『霞』でそういう教育を受けたからかは不明だが、『ナージ』の言う「殺す事に抵抗がない」というのは、本当に機械的な作業でこなしている、というイメージがあるのだ。
一華の思い違いだといいのだが、生憎とそう言った勘は鋭く働いてくれる。
「楽しいとは思いませんし、仕方のない事だとも思いません。ただ、私に出来る事がこの仕事だったんだと……そう考える事しか出来ません」
『ナージ』が紡ぐ言葉を静聴していると、バツが悪そうに視線を逸らした。
「軽蔑しますよね……」
「まさか」
心のどこかでは、罪悪感も抱いているのだろうか。『ナージ』の言葉からでしか探れないが、それが嘘にしろ本音にしろ、話が聞けただけでもためになったはずだ。そう自分の中で区切りをつけて、止めていた足を動かした。
「不躾な事を聞いたな。答えてくれてありがとう」
「いえ。お気になさらず」
『ナージ』もそれに続いて、再び歩き始めた。




