第九十三話 九条氷利
純潔を失ったのはいつだったか、覚えていない。氷利の初めての相手は血の繋がらない父親だった。
中学生になるまでは、その行為の意味すら知らなかった氷利だが、保健体育の時間に習って始めて、それが子どもを作るための行為だと知った。
途端に、気持ち悪くなってその場で吐いてしまったのをよく覚えている。
学校から帰って、父に問い詰めた。「最低」と言ったあたりで、思い切り殴られた。父は笑っていて、むしろどうしてそんな事を聞くんだと言わんばかりに曇りなき眼で口にしたのだ。
「お前が可愛いのが悪いのだろう」と。
異常だと、その時初めて気がついた。けれども誰かに相談出来る内容ではなく、ずるずると父親の言いなりになりながら高校を卒業してしまった。そして二十歳の時に、九条家当主の座を継いだ。
母の仕事と、営んでいた武器屋を継いだ時に、母はそっと耳打ちした。
「今までよく我慢したわね。守ってあげられなくてごめんなさい。これからは、自分のために生きて」と。
母は、氷利と自身の夫がしている事を知っていた。知っていて、止めてはくれなかったのだ。
母が、何でこんな事を言ったのかも分からない。
自分のしたい事なんて、何もない。『普通』を見てしまった。異常だと迫害されるのが怖い。父親と性交したなんて知られたら、何て言われるか分からない。
ただひたすらに怖かった。幼馴染の市子にバレたらどうしよう。彼女の隣にいて思う事は、いつもそればかりだ。
九条家当主になって一人暮らしを初めても、氷利が変わる事はなかった。自身の汚いところを知られたくなくて、気付かれたくなくて、正反対の自分を演じてしまう。
悩みなんてない。人生行き当たりばったり。お気楽で、愉快で、どんな些細な事にも幸せを感じる事が出来る、脳天気な人間。
そうして偽物の九条氷利を作り上げた。誰も心の内を詮索しようとしない。市子も、心配はしてくれるが詳しい事は聞いてこない。だから、氷利も市子の事情は詳しく聞かないようにしている。
一人暮らしを初めて変わった事は、もう一つあった。父親と行為をするのが、月に一度くらいのペースになった事。
月一で来るのだから、月一で憂鬱になる日が来る。向こうの機嫌が悪い日には、月に何度も来る時があるけど、逆らえば殴られるから何も言えない。逆らわなくても殴られるが。
けれども、少しは自由になれた。それが一番、氷利の中で良かった事だ。
二十二歳の時。初めて、市子の兄・泉に会った。七歳離れた、お兄さんのような存在だった。本条家当主の秘書を務めていて、市子に似ているが、男顔の市子よりも男らしい顔立ちだ。
――――なんか、かっこいいな、って思った。
おそらく氷利の中の、本当の意味での初恋なのかもしれない。
知り合いの言葉を借りるなら、調子に乗っていたのかもしれない。酒の勢いで、泉に「あたし、実は男性との経験とかないわけよ〜。泉さんは、女性の扱い慣れてそうよねぇ」なんて言ってしまったのだ。
経験がないなんて嘘、見栄を張っただけ。そんなギャップがあった方が、可愛く見えるんじゃないかなぁ、という理由で口にしてしまった。
すると「じゃあ、本当に慣れているか試してみますか?」と言われた。
二つ返事で「うん」と頷いてしまったし、それを後悔したのは泉と朝を迎えてしまった時だった。
最中の事も、鮮明に覚えている。なので、今だに泉の顔はまともに見れなかったりするのだ。
氷利の中で一番後悔したのが、“男性と経験がない”と嘘をついていた事だ。泉にはすぐバレてしまったのだから、意味のない嘘だった。
お酒が入っていたからか。はたまた、父としている時とは違って、感じた事のない快楽に溺れていたからか分からない。氷利は泣きながら謝って、泉に本当の事を言ってしまった。
「男性と経験がないなんて嘘なの……本当は……ずっと……お父さんとしていたの……」と。
泉は、驚いたように目を見開いたが、すぐに何も言わずに抱き締めてくれた。そんなふうに優しくされた記憶もなくて、かなり浮かれてしまっていた。
泉とは、いわゆるお遊びの一夜限りの関係。氷利もそこは理解していたし、向こうは最初からお遊びのつもりだったのだろう。何事もなかったかのように、それからも会っていた。
――――けれども、一方的に想う事は許されるかな、なんて思っていたり。
泉と一夜を過ごしてから少しして、父が家に来た。そういえばその日は、珍しく三ヶ月ぶりくらいだった気がする。
いつも父にされるがままの氷利は、ぼんやりと虚空を見つめて事が終わるのを待つだけ。たまに“反応しろ”と殴られるが、泉として一つ分かった事があった。
(お父さんって、下手くそなんだなぁ……)
氷利は少し笑いそうになってしまった。
けれども、父が口にした一言で、全身が凍り付いたかのような感覚に襲われる。
「女の顔だなぁ。最近やけに色気付いてるみたいだが彼氏でも出来たのか? いやいや可愛いし、いいんだけどな。お父さんとやっても許してくれる子じゃないと、後々しんどくなるぞ」
頭を、鈍器で殴られたような感覚がした。じーん、と痺れるような感覚。頭が、拒否している感覚。父の言ってる言葉の意味が分からなくて、呆然とするしかなかった。
──――つまりお父さんは、あたしに彼氏がいてもいいけれど、この関係は続ける、という事らしい。
その言葉を言われたその日。無性に死にたくなったのを覚えている。いっそ、“調子に乗りやがって”と殴られた方がマシだったと思う。
父は事が終わると、すぐに帰っていく。氷利は玄関の扉が閉まってから、シャワーを浴びて、妊娠しないように薬を飲んで、全てを忘れるかのように眠る。それが、いつもの流れだった。
しかしその日は、とにかくベッドから動きたくなかった。乱雑に脱がされた服のまま、不快なものがこべりついたまま、天井を見上げていた。
すると、泉の姿が目に映った。
氷利の顔を覗き込むように見ていたのだ。最初、あまりのショックで幻覚でも見ているのかと思ったくらい、突然だった。
「あー……市子ちゃんのお兄さんだぁ……」
だが、泉がここにいるはずはないし、幻覚に違いない。幻覚ならいいか、と思って手を伸ばすと、触れてしまった。触る事が出来る幻覚なんて、とても都合がいいなぁ、と思いながら、身体を起こす。
父とした後は、身体が痛む。殴られたところや、腰の辺り。そして、腹部も痛かった。
けれども、こんな素敵な幻覚を見ているからか、そんな痛みすぐに飛んでいってしまった。
「ねぇ聞いてよ市子ちゃんのお兄さん……お父さんがね、最近色気付いたとか、彼氏が出来たのか、とか言ってきたのよ。怒るでもなくさぁ、それでもお父さんとするんだぞ〜みたいな事言われてさ……わけ分かんないよねぇ……」
幻覚だし当たり前かもしれないが、泉は何も言わなかった。だから氷利は、本音を簡単にこぼしてしまう。
「やだなぁ……死にてぇなぁ……。市子ちゃんのお兄さん、あたしこの勢いのまま死ぬから、最後にチューしてよ。未練なく死ねるようにさぁ……」
幻覚相手でも気恥しさは残る。だからいつものように冗談めかして唇を尖らせると、泉の頬に触れていた手がそっと包み込まれた。
泉の手だった。暖かくて、氷利の手よりも大きくて骨張っている。父みたいに乱暴に握ったりしない、ただただ優しく包まれた。
「……キスは、妻になる女性以外にはしない事にしています」
喋った。
まぁ、あたしの脳が作り出した幻覚だけれども。たしかに、泉さんなら言いそうかもしれない。氷利は内心で、そう解釈していた。
氷利とした時もキスはしなかった。
そういう意味だったのか、なるほど、そういう芯があるのもいいなぁ。でも、残念。少しくらい夢見させてよ。
と、氷利は少し悔しさを覚えたが、同時に嬉しくもあった。それこそが、氷利の好きになった泉だと思ったからだ。
「そっかぁ……じゃあ仕方な──――」
けれど、続きを口にする事は出来なかった。
唇が、塞がれる。
泉の唇が、氷利の唇と重なっていた。
あれ、キスはしない主義じゃないの?
何で今、あたしとキスしてんの?
何で、息、したら、返ってくるの?
何で、泉さんの匂いがするの?
幻覚なら、ここにいないなら、こんな熱も、匂いも、感じる事なんてないのに。
そういえば包み込まれている手も暖かい、どうして気付かなかったんだろう、とぼんやりしていた氷利の意識がだんだん鮮明になっていく。
え、じゃあ、これは幻覚じゃないの?
お父さんが帰ったあとで、入ってきたの?
あたしの本音、聞いてたの?
いや、あたしが勝手に言っただけだけど、聞かれちゃったんだ。
どうしよう、泉さんに秘密がバレるの、二回目だ。
ぐるぐると頭が回る感覚がするが、不思議と焦りは浮かんでこなかった。
触れ合っているところが熱くて、燃えているみたいだった。大好きな、泉の匂いを間近で感じて、氷利は堪能するように瞼を伏せる。すると、頭が冴え渡るようなスッキリとした匂いが強くなった。
幻覚じゃない。間違いなく本物だ。ようやく状況を飲み込んだ頃、泉はそっと唇を離した。
「ファーストキスを貴方にあげます。だから、生きてください」
そして、言った。
泉の妻になる女性 (いないらしいけど)のファーストキスを奪った事への罪悪感が募る一方、氷利は今までに感じた事のない多幸感に包まれていた。
キスをされて嬉しかったのは事実だ。
けれど、やっぱり生きるのはもう嫌だった。
この先、お父さんのいない人生なんてない。
これからも、たとえ彼氏が出来て結婚して子どもが生まれようと。
ずっと、お父さんがいる。お父さんの言いなりになって、されるがまま身体を貪られる。
そんな人生が見えてしまった今、希望も何も見い出せなかった。
「……生きるの、もうしんどい……前の……本当の家に帰りたいよ……」
「私もしんどいですよ。でも、だからと終われるものではありません」
頑張って絞り出した言葉に、泉は困ったように同調してから、言い放った。そうなんだけども、もっと明るい言葉を言ってくれてもいいじゃん、なんて勝手な事を心の中で言っておく。
けれども、ぎゅっと手を強く包み込まれたら、そんな不満もなくなってしまった。勝手で、単純だ。
「それに、貴方が死んだら市子が悲しみます」
「……泉さんは、悲しんでくれないの……?」
「悲しいですよ。だから、死んでほしくない」
「…………やだよぉ……どこに行っても、お父さんがついてくるの……無理なの、気持ち悪いの……」
縋るように泉の手を握って、額に押し当てる。駄目だ、涙が出てきそうだ。
好きなひとに、もう泣いているところは見られなくないのに。泉から顔を背けるように俯いて、感情のままに泣き叫ぶ。
「あたしだって死にたくないよぉ! でも、死なないとお父さんから逃げられないの……だから、死んでもいいって言ってよ……! お願いだから……あたしを……」
「駄目ですよ。たとえ貴方が死んでも、お父さんはついてきます」
泉は、残酷な事ばかり言う。
それなのに、優しい言葉遣いで殴ってくる父よりも優しい。
「だから、せめて生きていましょう。どう考えても、年齢的にあっちの方が先に死にます」
「……そういう事じゃないしぃ……」
ちょっと天然なのかしら。それとも、面白くない冗談なのかしら。
後者だったら意外だなぁ、と氷利は口の端を持ち上げた。
「いいよもう……分かった、死ぬとか、死にたいとか言わないから帰って。泣いてるところ、もう見られたくないの……」
氷利がそう言うと、泉は「分かりました。また、会いましょう」と言って、手を離してしまった。本当は離したくなかったが、“帰って”って言った手前、今更縋る事は憚られた。
名残惜しく手を離すと、泉はその手で氷利の頭を優しく撫でてから、部屋を後にした。
部屋の中に、氷利の匂いと、父の匂いと、泉の匂いが残っている。
やはり、ベッドから動くのは面倒だ。シャワーは後にしよう。あ、薬は飲まないと……でもどうせ立ち上がるならついでにシャワーも浴びるべきかな、と氷利はぼんやりと天井を見つめながら考える。
結局、面倒だったから薬だけ飲んで寝る事にした。起きてから、シャワーを浴びよう。そう、次に起きた時の自分に託した。
目を閉じる前、泉に包まれた左手を唇に当てた。
泉と、キスをした。それは何より、嬉しい事だった。
※※※※
今日は最悪な一日だった。
月に一度、不定期でやってくる父と会う日は、だいたい最悪な一日なのだが。せっかく泉が誘ってくれた飲み会にも参加出来なかったし、泉に父親にキスされるところを見られてしまった。
あの時、そっと目を逸らしてくれて正直助かった。けれどもその後目を合わせる事が恥ずかしくて、泣きそうになっていたのを知られたくなくて、嫌な態度を取ってしまったのではないかと、不安が込み上げてくる。
何より……、
「……まだここにいて、って言えば良かった」
帰ると言った泉を、引き止めてしまいたかった。励ましの言葉も何もいらないから、ただ隣にいてほしかった。そんな我儘を必死に堪えて、氷利は彼を見送ったのだ。
恋人同士でもないし、氷利が一方的に想いを寄せているだけ。冗談めかしてでもそんな我儘を言ったら、泉を困らせてしまうに決まっている。我慢して正解だ、と氷利は自分に言い聞かせながら、泉がお土産に買ってきてくれたという箱を開けた。
「……柿の葉寿司だ」
氷利の大好物である。もしかして、覚えていてくれたのかな。それとも偶然かな。どちらにしても、氷利のために買ってきてくれたのだから嬉しいものだった。
少しはいい事もあったなぁ、と、柿の葉寿司を一つ口の中に放り込んだ。




