第九十二話 お遊びもほどほどに
九条氷利の家は、彼女が営んでいる店から少し離れたアパートの一室。インターホンを鳴らすも、人が出てくる気配はない。二度、三度鳴らしても返事もない。試しにドアノブを回すと、不用心にも鍵は開けっ放しにされていた。
泉は「入りますよ」と一言断ってから、部屋に上がり込む。泉が氷利の部屋にあがる時、真っ先に感じるのは男の匂いだ。次いで、食べ物の腐った臭い。そして目に映るのは、乱雑に脱ぎ捨てられた衣類に、テーブルの上にはインスタント食品か、コンビニ弁当のゴミが散らばっている部屋。
ベッドの上にも、服と下着が散乱していた。シーツも布団もぐちゃぐちゃになっていて、掃除されている形跡がない。部屋にいないとすれば、風呂にでも入っているのか、と泉は躊躇う事なく浴室のある方へと向かった。
扉を開けるとシャワーが出されているのか、水の音が聞こえてきた。
「九条、お土産を買ってきましたよ。貴方の好きな柿の葉寿司です。聞こえていますか?」
いつもなら、すぐに反応がある軽快な声が聞こえてこない。まさか、と思いその場に土産を置いて扉を押し開けると、氷利はそこにいた。湯の張られた浴槽に入っていて、ぐったりとした様子でシャワーの水にうたれている。
「九条! おい、九条!」
慌てて駆け寄ると、泉の腕にシャワーの水がかかった。水じゃない、とてつもなく熱い湯だった。皮膚が痛くなるくらいに熱い湯に驚き身を引いたが、すぐさまシャワーを止めてぐったりしている氷利を担ぎ上げて脱衣所まで運ぶ。
全身真っ赤だった。細くて、少し骨が浮き上がっている肢体には、血が滲んでいるところすらある。見たところ火傷ではなく、身体を洗う際に酷く擦って出来たものらしいが。
腕や腹部には、紫色に変色した痣が出来ていて。彼女の身に何が起こって、彼女が何をしていたのか、泉はすぐに察しがついた。
「九条、大丈夫ですか!?」
肩を揺すって、目を閉じたままの彼女に大声で呼び掛ける。少しするとぴくりと眉が動いた。そして、ゆっくりと瞼を開いて、泉を見上げた。
「んぁ……? あ、市子ちゃんのお兄さんだ~」
意識ははっきりしているようだ、と泉は安堵しほっと息をついた。氷利はぺたぺたと、真っ赤になった手で泉の頬に触れ、
「また幻覚……? あ、いや違うかぁ……前も、違ったし……」
と呟いていた。
……意識ははっきりしているのか、怪しいところだったようだ。けれども触れられる事に気付いたからか、当の本人はへにゃっ、と顔を綻ばせている。
「風呂で寝ると危ないですよ。しかもあんなに熱いのに入って……火傷しますよ」
「だいじょぉ~ぶ! ぶいっ!」
ピースサインを作って、泉に見せつける。本当に大丈夫なのか……おそらく大丈夫ではない。真新しいタオルで氷利の身体を隠してから、泉は立ち上がる。散らかっているのに、自炊された形跡がまったくないキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
冷えた経口補水液を手に、もう一度氷利の元へ戻ると、彼女は虚空を見つめて「はぁ~……」と溜息をついていた。自分で身体を拭く気はないらしい。はぁ、と泉も溜息をついて、彼女に掛けていたタオルで水滴を拭ってやる。
ある程度拭き終えて、傍にあったワンピースを着せてから、氷利の冷蔵庫にあった経口補水液を手渡した。
「ほら、飲めますか?」
「ん~……いらなぁい」
しかし彼女は、ふいっ、とそっぽを向いてしまった。
「他の飲み物がいいですか? 貴方の家の冷蔵庫はこれしか入っていませんでしたが」
「喉乾いてないしぃ……いいかなぁって」
「駄目です、飲みなさい」
下手をすれば、脱水症状を起こしているかもしれない。身体を冷やす意味でも、何か水分を口にして欲しかったのだが、氷利はふるふると首を横に振るばかりだ。
「口移しが良いんですか?」
「…………」
冗談めかして言うと、氷利は唇を引き結んで俯いてしまう。これは肯定なのか否定なのか、そして自分はどうすればいいのか、泉も分からなくて口を閉ざしてしまった。
けれども口移しは嫌だったのか、頑なに飲もうとしなかった氷利は泉の手から経口補水液を取って、ゆっくりと飲み始めた。最終的には飲んでくれたので良かったが、代わりに少し気まずい空気にもなった気がする。
いらない、と言っていた氷利は、一度飲み始めると今度は止まらなかった。ごくごくごく、と喉を鳴らして、半分以上を一気に飲んでしまう。
「喉は乾いてなかったんじゃないですか?」
「何か美味しくってさぁ……生き返る、って感じ」
やっぱり脱水症状を起こしていたようだ。もう少し様子を見てから帰った方が良さそうだ、と泉は氷利をもう一度担ぎ上げて、ベッドまで運んでやる。ついでに、部屋の空気を入れ替えよう、と窓を開けた。
今は十一月。寒い。
氷利を浴室から助け出した際に、泉の服もぐっしょりと濡れてしまっているので、本音を言うとかなり寒い。けれども氷利は「あぁ~いい風だぁ。涼しぃ~!」と言っている。少しの間我慢すればいいか、と自分の中で片付けて濡れたジャケットを脱ぐ。
ついでに、部屋の掃除でもしておくか、とゴミ袋を取り出したところで、玄関の扉が開く音がした。泉も氷利も、インターホンが鳴らされなかった事を不審に思い、ぱっと顔を上げた。
「氷利~! お父さんがまた来たぞっ」
よっ、と快活に片手を上げながら、ぐったりした様子の父・蝶花を担ぎながら部屋に上がり込んだ香月は、泉の姿を見て笑みを深める。
「お、蝶花殿の息子殿じゃないか。逢瀬の最中だったか?」
「いえ、風呂で溺れかけていたので介抱していただけです。九条さんこそ、どうかなさったのですか?」
「いやぁ、蝶花殿がお嬢殿にぶん殴られてしまってなぁ。俺も足を折られたんで、一番近かったここに来たわけだ」
「はぁ……そうでしたか」
お嬢殿、というのは、おそらく一華の事だろう。一華は市子が屋敷まで見送っているはずだが、まさか屋敷の方に直接赴いたというのだろうか。余程の用事がない限り、蝶花も香月も本条家の屋敷には寄り付こうとしないのに。しかも、二人共一華の怒りを買うような事をしでかしたらしい。
一体何をやらかしたんだこの父親共は、と呆れて溜息すら出てこない。すると、香月に抱えられていた蝶花が顔を上げた。父の左頬には、殴られたような痕が出来ている。しかも、頭を打ったのか額から血も流れていた。
「心配の一言もないとは、薄情な息子だな。泉、ここで何をしている」
「先程申し上げた通り――――」
「何しにここへ来た?」
低く、圧のある声だ。泉は、父親である蝶花の事が好きではない。たびたび一華の事を聞かれたりするが、正直に答えた事は一度もない。それは、プライベートの事も同様だった。
父親に行動を掌握される事は、泉が最も恐れている事でもあった。もしも、一華と会っていた事がバレてしまえば、何を詮索されるか分かったものではない。市子も、父に一華と一緒にいるところは見られないように気を遣っている節があるので、きっと避けて一華を送り届けたはずだ。
妹への確かな信頼があるからこそ、泉は堂々と嘘をつける。
「市子と外食に行っていました。その土産を、彼女に渡しに来ただけです」
「……そうか。それで、一華お嬢様に何を吹き込んだ?」
やはり、父は何か勘付いているようだ。しかし泉は知らぬ存ぜぬを突き通せばいいだけの話。微表情一つ動かさず、「何を言っているのか分からない」と首を傾げる。
「何の話ですか? 今日、一華様とはお会いしておりませんが」
「……あくまでシラを切るか。市子なら慌てふためいているところだっただろうに」
「やれやれ、殴られた衝撃でボケが回ってきたようですね。手当てが済んだら、家に戻ってお休みください」
一華と会った事については、父にも知られているらしい。しかし泉の口から語る事は何もない、と話を切り上げた。
蝶花も、泉の口から聞き出す事は難しいと判断したのか、はたまた会話そのものをしたくないのか。泉の言葉を最後に、蝶花は視線を外した。
「というか、汚い部屋ですねぇ~」
「明日片付ける予定だったんですぅ~。すみませぇ~ん」
話を逸らすように蝶花が述べると、彼の口調を真似て氷利が反論する。
「お茶くらい出してほしいものですねぇ~。女なんだから、それくらいの気遣い出来て当然ですよぉ~?」
「すみませぇ~ん。あたしお茶飲まないから、茶葉がないんですよねぇ~。外の自販機で買ってきてどうぞぉ~」
しっしっ、と追い払う仕草を取りながら、氷利は言い切った。彼女は蝶花の事はさほど恐れていない様子で、別段調子が変わる事もない。氷利には、蝶花よりも恐れている人物がいるのだから、それまでと言ってしまえばそれまでの話なのだが。
とはいえ、このまま口論に発展しても面倒だ。こほん、と咳払いをして、泉は父等に問いかける。
「で、父さん達は何故一華様に殴られたのですか?」
「おちょくってきた。やはり、零様の呪いは健在ですね」
淡々と、蝶花は語る。
呪いというのは、蝶花と香月が本条零に掛けられたというものだ。
「本条一華を殺せない呪いが未だに我等にかかっている。それは、契約を交わした対象が生きているという事を指している」
零は、裏の世界の序列を大きく変え、暗黙のルールであった表の世界の人間と結婚するという禁を破った。彼が疎まれている理由は上げればキリがないが、泉は知っていた。
それこそが、零の望む世界への躍進であった、と。
しかし零が望む世界に至る事はなく、どころか忠誠を誓ったはずの従家に邪魔される始末。泉は、彼に仕えていた人間として、それを阻止する義務があった。けれども、父を出し抜く事は、今の今まで出来ていない。
現に、知られてはいけない秘密を知られてしまったのだ。
本条零が、今なお生きている、と。
「やはり、本条零は生きていた……その確認が取れただけでも僥倖。一華お嬢様を抹殺し、再び零様を玉座に就かせる。そして今度こそ、相応しい女と子を作ってもらいます」
蝶花等、一華の味方にならない各条家の者達の目的は、自身等が相応しいと思う本条家当主の器を作り直す、というものだった。裏の世界の、由緒正しき血を持つ零に、蝶花等が納得出来る女性をあてがい、真の意味で正統な後継者を育て上げる。そしてその子を、新たな本条家当主として立たせたいようだ。
零が死んだ時点で、その計画は頓挫していたが、このままでは一華達の身が危ない。何とか対策を練らなくてはと考える一方、それを父に悟られないようにと無表情を貫き通す。
「それにしても、零様は何処におられるのだ? 死んだ事になっている人間を連れ戻すのも容易な話ではなかろう」
と、ここで香月が疑問を口にした。
彼の言う通り、零はすでに死んだ事になっている。そんな彼を再び当主の座に就かせる事は、不可能に近いのではないか。各条家がどれほど尽力しようと、各国の名家や国主が黙っていない。そもそも、本条零という人間にうんざりしている者がほとんどなのだから。
そして、たとえ新たに後継者を育てる事になったとしても、それは十年以上も先の話になってしまうだろうに。打開策があるというのだろうか。泉が静かに耳を傾けるも、蝶花は何も語らなかった。
「策はある。まぁそれは後で伝えるとして……まず必要なのは、零様の血を引く子ども。もちろん、あの女とは違う高貴な血を持った女との間に産まれた子ども。……あぁそうだ、氷利さんはどうですかぁ~? 九条家の養子とはいえ、出身は西大路家でしょう。相応しいと思いますよぉ~?」
まさか自身の名が出るとは思わなかったのだろう。氷利はびくりと身体を震わせた。その様子を見て、蝶花はくすくすと笑う。
「零様、そもそも女性に興味がないのか、結局子どもも一人だけだったわけですし……。どうです、いい案だと思いませんかぁ~?」
チラッ、と蝶花の視線が泉に向けられた。こちらを見た意図が分からず、泉が目を瞬いていると、香月が一笑する。
「蝶花殿も人が悪い。氷利は蝶花殿の息子殿と恋仲ではないか」
「ち、違う!」
からかうように言った香月の言葉を、氷利は即座に否定した。
少しだけ、胸がちくりと痛んだ気がする。
「泉さんは友達のお兄さんってだけで……お父さんが思ってる関係じゃないし! デタラメ言わないでよ。あと、あたしは結婚なんてしない――――」
前のめりになって弁明していた氷利の言葉を遮って、香月は拳を振り下ろした。がっ、と氷利の頬を殴りつけた時も、彼女がベッドの上に倒れ込んでからも、香月は終始笑顔だった。殺気すら放たれなかったため、とっさに間に入る事も出来ず、泉は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「恥ずかしがらなくてもいいんだぞ。お前が泉殿を見る目は、女のそれじゃないか。お父さんは嬉しいんだぞ。恋をすると女は可愛くなるからな。可愛い娘がさらに可愛くなるんだ、嬉しい事づくしじゃないか」
そう言いながら、香月は氷利に歩み寄る。ずっと、屈託のない笑みを浮かべている事は、どこか狂気的でもあった。父親から殴られ、それを間近で見ている氷利は、もっと恐怖しているに違いない。けれども、泉は彼女を庇うべく行動する事が出来なかった。
泉の横で、蝶花は心底楽しそうに事の成り行きを傍観していた。泉は父に悟られないように、拳を握り締めて怒りを誤魔化す。
「それに、お父さんは知っているんだぞ。氷利、お前一度泉殿と寝たんだろう?」
香月の問いに氷利のみならず、泉も反応してしまった。今しがた香月が口にした事は事実だが、何故それを彼が知っているのだろうか。少しだけ、動揺してしまった。
そしてそれは、氷利も同じだった。彼女は秘密がバレてしまったかのように、それを知られる事を恐れていたかのように、目を見開いて口を震わせる。
「ち……ちが……」
「ほう……それは初耳だな。泉、本当なのか?」
泉はゆっくりと、問いかけてくる父に視線を向けた。蝶花の表情は、とても読み取れるものではなかった。怒っているわけでもなければ、嘲っているわけでもなく、からかってやろうという様子もない。
うっすらと、気味悪さすら感じる能面のような笑みを張り付けたまま、蝶花は再度問う。
「彼女を、愛しているのか?」
「…………」
返答を間違えれば、殺されてしまうのではないだろうか。そんな考えが頭を過ぎるほどに、蝶花から放たれる圧は凄まじいものだった。
加えて、香月から向けられる純粋な笑みと、氷利から向けられる期待の眼差し。どれに沿えばいいのか、どの言葉を口にすればこの場を乗り切れるのか。どうすれば、氷利を守れるのか。
泉は少しの沈黙の後、ふっと肩の力を抜いて、背筋を伸ばし答えた。
「いいえ、ただのお遊びです」
と。
瞬間、氷利の顔がかっと赤くなった。怒っているというよりも、羞恥心を抱いているようだった。そのまま俯いてしまったので、彼女の表情を読み取る事はもう出来ない。
香月の表情は変わらない。「ま、それも経験の内だな」と氷利の頭をわしゃわしゃと撫でている。
「おやおや、失恋しちゃいましたねぇ~。おかわいそうにぃ~」
そして蝶花は、肩を揺らして笑っていた。返答としては、これが正解だったようだ。
とはいえ、正解だったとしても、泉の心は納得していなかった。愉快そうに笑う父に向けて、静かに言い放った。
「ですが……父さんから言わせれば、氷利さんは零様の妻にはふさわしくないのではないですか? お遊びが過ぎる事もあるかもしれませんし。父さんのように」
「…………」
ガンッ! と、泉の視界が揺れた。頬に衝撃が走り、勢いに負けて床に伏してしまう。まさか殴られるとは思っていなかったので受け身も取れず、口の中を噛んでしまったのか、鉄の味が広がった。
殴った張本人である蝶花は、無意識のうちに手を出していたらしい。握り締めていた拳をじっと見つめていた。蝶花はしばらく呆然と自身の拳に視線を向けていたが、やがてふっとその力を抜いて溜息をつく。
「…………まぁ、その話は事が進んでからにしましょう。候補など、いくらでもいる。まずは、徹底的にお嬢様を追い詰めます」
「作戦の具体的な実行時期は?」
「実は、先日学校の方に珍しい御方がいらっしゃっていたので、何かあるにはあるみたいですねぇ。それが、いつ頃になるかは判断しかねますが……本格的に動き出すのは、その後です」
「では、まだまだ期間はありそうだな。よかったよかった」
期間がある、というのは泉にとっても有難い話だった。少しでも長い時間が出来れば、父等の行動を邪魔する機会も、情報を探る時間も増える。今はまだ、一華の味方が少ない状況なのだ、早急に対策を練らなくては。
とはいえ、まずは学校に現れたという人物の正体を探るのが先決だろう。一般人も多く通う学校で、何かが行われようとしている。教師として勤めている蝶花は、あまつさえそれを見逃しているのだから、事が起こる前に解決しなくてはならない。
「そういう事だ。泉、氷利さん、くれぐれも余計な事はしないでくださいね」
しかし蝶花は、泉の思考を読み取ったかのように念を押した。その言葉に氷利はぐっと唇を結んだが、泉は眉一つ動かさなかった。
「……では。お遊びもほどほどに」
用件は済んだのか、蝶花はそれだけ言い残すとくるりと背を向けて部屋を後にしてしまう。ようやく、緊迫した時間から解放される、と泉は微かに安心感を覚えていた。
「氷利も、また来月あたりに来るからな。年末は泊っていくから、楽しみにしておくんだぞ」
「…………」
香月がそう言いながら氷利の頭を撫でているが、氷利はうんともすんとも言わない。それに関してはいつも通りの事だったのだが、今日はいつもと違った。
俯いていた氷利の顔をぐいっ、と持ち上げ、香月は氷利と唇同士を重ねる。まるで泉に見せつけるかのように、香月はにやりと目を細めた。
氷利はというと、香月にされるがままで抵抗する素振りすらない。だが泉は知っていた。抵抗する気がないのではなく、抵抗したくても出来ないのだと。だからこそ、泉は何も反応を示さずに視線を逸らした。
「泉殿は、優しい男だな」
穏やかな声色で、香月が言う。
「よかったなぁ、守ってもらえたなぁ、お父さんも嬉しいぞ」
香月が、どんな感情を抱いてその言葉を口にしているのか、泉にも氷利にも理解出来ない。香月は「じゃあな、氷利」とだけ言い残すと、あとは泉を見向きもせずに蝶花の後を追った。
バタン、と扉が閉められると、ようやく肩の力が抜けた。泉も氷利も、互いに口を開く事はしない。けれども、ふと氷利がわざとらしく溜息をこぼす。
「……は、はぁー……最悪……いや、マジ最悪だわ」
うがい薬どこかしら、と口にしながら、氷利は泉の横をそそくさと通り過ぎていく。間違いなく、避けられているようだった。
血は繋がっていないとはいえ、父親と恋人同士であるかのようにキスをするところを見られたのだ。そこに氷利自身の意思はなかったとはいえ、少なからずショックを抱いているに違いない。
洗面所の方へと向かって行った氷利の背を追いかけ、泉は彼女に謝罪の言葉を口にする。
「九条、さっきはすみませんでした。わざと傷付けるような事を言って」
泉の父、蝶花は何故か、泉が女性と交際する事をよく思っていないらしい。遊びならばまだ問題ないというのだから、ますます理解に苦しむ。
しかし泉のあの回答は、氷利にとっては納得のいかないものだったかもしれない。確かに「一度だけ」という条件で一夜を共にしたし、それも数年前の話であった。
「あぁぁ、分かってる分かってる。あれでしょ、あぁ言わないとお父さんも蝶花さんも話終わらせてくれなかっただろうし……。ちゃんと分かってるから、大丈夫」
そう口にする氷利は、一向に泉の方を見ようとしない。
「泉さんは大丈夫なの? あたしは慣れてるから大丈夫だけど、殴られたら痛いっしょ」
「私も慣れているので大丈夫です」
「……そっか……お互い、嫌な親だね」
「…………」
今度は、泉の方が黙り込んでしまった。
と、氷利がくるりと振り返って見つめてきた。その表情は、いつも通り明るいもので。
「あ、お土産買ってきてくれたんでしょ? 食べてもいい? 何かお腹空いちゃった」
「あぁ……冷蔵庫の上に置いておきました。どうぞ、食べちゃってください。では、私も帰りますね」
体調はもう大丈夫そうだが、精神面では心配が残っている。しかし泉が傍にいては、かえって彼女が落ち着けないのではないだろうか、と考えた末に出した結論だった。
「うん、来てくれてありがとね。えっとぉ……またね」
「えぇ、また。今度は、市子も一緒に飲みに行きましょうね」
「……うん」
ひらひらと手を振ってくれた氷利に笑みを返して、泉も帰路についた。




