第八十七話 人のする事じゃないです
《十二年前》
ガシャンッ! と何かが割れる音がした。客間の襖は隙間が見えないほどぴったりと閉められていて、中の様子を見ることは叶わない。
けれども、ただ事ではない、という事は幼い一華にも理解出来た。
「出ていってください!! 私と零さんの事も、一華の事も何も知らないくせに!!」
母が声を張り上げる。優しくて、少し身体が弱い母の怒鳴り声を聞いたのは、きっとそれが初めてだった。
それに対しては戸惑いも、恐怖も感じなかった。それはきっと、今母と対面している人物に対する嫌悪感の方が上回っていて、母が怒るのも当然だと理解していたからかもしれない。
今日は、母と出掛ける予定だった。父のお墓に供える花を買って、近況報告をしにいくと言っていた。けれども、突然客人が来たからと、母は一華に「決して部屋を覗いては駄目よ」と言い残して行ってしまった。
母からの言いつけを破る事は悪い事だと分かってはいるが、一華は胸騒ぎを覚えていた。母の傍にいないといけないような気がしたのだ。
きっと中に入ると怒られるから、こうして襖をじっと見つめながら、中から聞こえてくる会話に聞き耳を立てる。
怒声を発した母に言葉を返したのは、久々に聞く声だった。
「こわぁ〜い。代理の当主様はヒステリー気質なんですねぇ〜。誰に向かって偉そうな口をきいてるんですかぁ〜?」
何だか腹の立つ喋り方だ。ムッと一華が頬を膨らませていると、母の叫び声が響いた。
「離してください! 触らないで!」
「私に指図しないでください」
「きゃっ!?」
語尾を伸ばして喋る男性から聞こえてきたのは、どこまでも冷たい声だった。次いで聞こえてきた母の悲鳴に、一華は襖の隙間から中の様子が見えないかと覗き込む。けれどもやはり、中がどうなっているのか、何も見えなかった。
すると、今度は聞いた事のない男性の声が聞こえてくる。腹の立つ喋り方をする男性とは違って、低い声だ。
「あっははは。蝶花殿、ほどほどになされ。表の世界の人間は軟弱なんだ。簡単に壊れてしまうぞ。蝶花殿は加減が下手なんだからな」
「なら、加減の上手いお前さんが暴力なり寝取るなりしてくださいよ。その方が手っ取り早い」
「勘弁してくれよ。俺、人妻には興味がなくてなぁ」
「では、お前さんはどうです」
「……自分は、妻子がいるので」
また、新しい声がした。否、少しだけ覚えがある。たしか、父の傍にいた護衛の一条早道だったはずだ。彼もここにいたのか、と驚きつつも、一華は隙間から覗き込むのをやめて、耳をぴったりと襖にくっ付けた。
「最低ッ! 恥を知りなさい!」
「はぁ〜? お前にどうこう言われる筋合いはないんですがぁ〜? 覚えておきなさい、綾谷数予。お前は所詮、ただの代理だ。正統な後継者……って、お前から産まれたガキが、正統な後継者というのも忌々しいが……。あまり調子に乗らないでくださぁ~い」
結論から言えば、一華は母達の会話の半分以上の内容を理解していなかった。けれども、直感的に察した。
彼等は、母をいじめる悪い人達だ、と。
いてもたってもいられなくて、一華は思いっきり襖を開けた。
「待って!!」
「おやおやぁ〜? 正統な後継者様(笑)じゃないですか。何か御用ですかぁ〜?」
一華の目に飛び込んできたのは、三人の男性と倒れ込んでいる母の姿だった。母は一華がこの場にいた事に驚きを隠せなかった様子だが、男性達は最初から一華がいる事に気が付いていたらしい。さほど驚いた様子を見せなかった。
一華よりもずっと大きい、大人の男達に少しだけ怯みそうになる。けれども、母を助けなければ。そんな使命感から、一華は部屋の中に駆け込んで、母を庇うようにして両手を広げた。
「母さんをいじめるな!!」
「一華お嬢様、いじめているわけではありません。蝶花様と、少し口論になってしまっただけで……」
一華がそう叫ぶと、諭すように早道が口にする。けれども、口論と言うにはあまりにも一方的だった。幼い一華にも雰囲気で伝わってきていたので、負けじと声を張る。
「じゃあなぜ、母さんは泣いているんだ! 寄ってたかって母さんをいじめたんだろ! 全部聞いていたんだからな!」
一華がそう言えば、悪かった、と謝ってくれるのではないだろうか、と思ってしまった。向こうが謝って、母が納得すれば、それが最善の解決方法だと信じて疑わなかった。
けれども、一華の前に立つ男性は、くすくすと可笑しそうに笑うばかり。青い髪に青緑の瞳をした、着物を着た男性は一華と視線を合わせるようにしゃがみ込み、問いかける。
「へぇ〜? 私達の話を聞いてて、今の今まで助けに来なかったんですかぁ〜?」
「それは……」
男性の指摘に、一華は思わずたじろいでしまう。たしかに、一華はすぐに部屋に入る事はしなかった。
それは、母に約束を破った事を知られたくなかったからだ。きっと、怒られてしまう。何度も部屋に入ろうとは思ったが、そう思うと立ち止まってしまっていて。
一華が言い訳を探している間にも、男性はにやにやと笑みを深めて追い打ちをかける。
「怖かったんですかぁ〜? 部屋の外で、ずぅっと震えてたんですよねぇ〜?」
「ち、ちがうもん! 私が母さんを守るって、父さんと約束したんだ! お前達を、この家から追い出してやる!」
「……やってみろよ、どうやって追い出すのか見ものですねぇ〜」
自分が、母を守らなければ。
改めて自身を奮い立たせて、キッと男性を睨みつける。すると、こつん、と額を押されてしまった。
「わっ!?」
ぐらっ、と頭が揺れたような感覚がした後、一華はその場に尻もちをついてしまった。
「一華!!」
慌てて、母が倒れた一華を抱き起こしてくれる。この時は、母の匂いがすぐ近くに感じられて、いつも以上に安心感を覚えた。
「やめて! 一華には手を出さないで!」
「蝶花様、幼子に手を上げるのは流石に引きます。人のする事じゃないです」
「それ、そこの九条さんに言っておやりなさい」
母、そして早道の意見も、男性は聞き入れる気もないらしい。九条というのは、一華が部屋に入ってきてからは沈黙を貫いている、声の低い男性の事だろうか。
灰色の髪と氷のような冷たさが感じられる水色の瞳が印象的な彼は、ただただその出来事を静観していた。しかし一華と目が合うと、にっ、と笑みを向けられたので、思わず視線を逸らしてしまう。
ふいっ、と顔も背けると、母に優しく、けれども強く抱き締められた。ばくばく、と母の心臓が強く、早く脈打っている。
「お嬢様、お母さんに言ってあげてください。“邪魔なんだよバーカ”ってね」
腹が立った。一華は背けていた顔を男性に向けて、もう一度睨みつけてやる。
「邪魔なのはお前らだ! ばーか!!」
「一華!」
言い返してやると、今度は母が一華の額を小突いた。けれどもそれは、指先でつつく程度のもので、先程男性にされた時のような衝撃はない。
「人を傷つけるような事は言わないって、母さんと約束したでしょう! 母さんは大丈夫だから、もう行きましょう」
そう注意して、母は一華を抱き上げて部屋を後にしようと歩き始める。
「逃げるんですかぁ〜?」
「逃げる事は恥ずかしい事ではないもの。それに……貴方を見ていると可哀想に思えてくるの」
母がそう言うと、男性はぴくりと顔を引き攣らせた。けれどもそれは一瞬見せたものだったので、母達も気付いているかは分からなかった。
「今後は、人様のお家に我が物顔で入らないでください。不愉快です」
それだけ言い残すと、母は早足で客間を後にした。途中ですれ違った使用人に「二条さん達を外までお送りしてください。今日はもう出ないので、門も閉じておいてください」と言って、すたすたと部屋まで戻る。
連れてこられたのは、母の部屋だった。ちょこん、と座布団の上に座らされた一華は、ほっ、と息をついている母を見上げる。
一華の視線に気が付いた母は、こほんと咳払いをしてから一華と向かい合って座り、再び注意する。
「一華、例えどれだけムカつこうと、自分が言われて嫌な事は人に言っちゃ駄目なのよ」
「でもアイツは、母さんの悪口をたくさん言った! 言い返してもいいと思う!」
「駄目よ。あの人と同じ事をしたら、同じ人間になってしまうもの」
たしかに、そうかもしれない。一華もかっとなって、酷い事を言ってしまったものだ。あとで謝らないと、と思いつつも、何故か素直に謝りたいとは思えなかった。
けれどもここで「謝らなくてもいいと思う」と言えば、きっと母は悲しむだろう。だから、何も言わない事にした。
「母さんは、まだ我慢出来るわ。だから大丈夫。一華は、あの人達を見たらすぐに隠れるのよ。話しかけられても、耳を塞いで逃げなさい」
「でも……」
酷い事を言われ続けるのは、とてもつらいはずだ。母が傷付くのを、一華は見たくない。
けれども母は、にこりと儚げに微笑むばかりだった。
「大丈夫よ。きっともう、来なくなるから」
「…………」
ぽつりと呟かれた言葉には、少しの恐怖感を抱いた。実際に、二条という男性と九条という男性は、それを機にあまり姿を見かけなくなった。
母が再婚したからか、理由は分からないが、それでも一華達と会えば何かと嫌味を言ってくるので、やはり苦手だ。
けれども、我慢して、我慢しているのだ。




