第八十四話 格好付けさせてください
それは、十月下旬頃の事。
継承戦、即位式と大きなイベントが終わり、日本に滞在していた国主達が自国へと戻り始めた頃の事。
一条家長女・亜閖は婚約者であるエドヴァルドと共に、半年ぶりの会食をする予定だった。会食といえば堅苦しいが、くだけていえばお互いを知るためのデートというもの。
普段よりもラフな格好であるとはいえ、エドヴァルドは普段通り顔全体を覆い隠すガスマスクを着用しているので、公共交通機関を使ったり、人の多い道を歩くと注目される。実はちょっと恥ずかしい。
今日、亜閖とエドヴァルドが訪れたのは、繁華街の向こう、歓楽街の入口にある寿司屋だった。昼時、完全予約制のため、限られた人数しかいないのは、彼にとっても都合が良かったのだろう。この店を選んだのは亜閖だったが、きっと喜んでくれているはずだ。
とはいえ、エドヴァルドが顔を隠しているのは、他でもない亜閖に素顔を見せたくないかららしい。
いわく、エドヴァルドはかなりの美形で、甘やかされる事も多々あったという。ゆえに、「亜閖の夫として相応しい振る舞いを身につけるまで、顔は晒さない」とガスマスクを身につけていると言っていた。
もっと他になかったのだろうか、と当時は苦笑いを浮かべたものだが、彼が決めた事に口出ししたりはしない。
エドヴァルドの素顔は気になるが、それならば彼に倣って亜閖も顔を隠してしまおう、と黒いマスクを着用していたりする。気恥しいので、これは誰にも言っていないが。
とはいえ、食事をするとなればそれぞれマスクを外す必要があるのだが、心配はいらない。
カウンター席に並んで腰掛けると、亜閖とエドヴァルドを遮るようにアクリルカラーボードが立て掛けられる。事前に店側に頼んでいたので、ここまでの流れは思ったよりスムーズだった。
「楽しみっすね」
「そうですね。寿司を食べるのは久し振りなので、はりきって朝食を抜いてきてしまいました」
マスクを外してから、ボード越しにエドヴァルドに話し掛ける。姿は見えなくなってしまったが、そもそも普段から表情が見えないのだから慣れたものだ。
「改めまして、本当にお疲れ様でした」
「エドの方こそ、お疲れ様っす。こんなに長く日本にいたのは初めてじゃないっすか?」
「そうですね……。仕事でなければ、もっと観光にも行きたかったんですが……」
エドヴァルドは当主になるまで、ずっと屋敷の敷地内でひっそりと暮らしていたという。身体が弱かったのか、他の理由があったのかは教えてくれなかったが、だからこそ国内外の観光地に赴くのが趣味だとも言っていた。
かくいう亜閖も、海外には行った事がない。兄の白羽は、父親に連れられてよく飛び回っていたが。
「そういえば、梓豪さんは御家族で関西の方に行くと仰っていましたね。羨ましい限りです。亜閖様は、関西方面に行った事はありますか?」
「ないっすねぇ……それこそ仕事以外であんまり地元から出ないんで、私も国内観光とかしてみたいっす」
亜閖は幼い頃から名家に嫁ぐ身として、勉学や家事等を教わっていた。エドヴァルドと結婚したあかつきには、それまで一緒に過ごしてきた家族と別れてスウェーデンへ行くのだ。
エドヴァルドとの婚約が決まってからも、なお一層勉学に励んでいる。アルバート家当主であるエドヴァルドに見合う淑女になるのが、亜閖の目標だ。
けれども、亜閖だってまだまだ遊びたい年頃である。旅行以外で、県外へ赴いてみたいという思いは常々抱いている。
亜閖とエドヴァルドの思いは合致した。という事は――――
「では、次のデート先は決まりですかね」
そういう事になる。
仕事でエドヴァルドが日本に来る時を除いて、直接会うのは一年に一回か二回くらい。大体は今日のように、エドヴァルドが宿泊するホテル本条から近いところで食事をするのがルーティンなので、遠くへ観光に行くというのは少しどきりとした。
だが、エドヴァルドと過ごせるのだから、楽しみには変わりない。緊張している事を悟られないように、おしぼりで手を拭き、誤魔化しながら答える。お互いの顔が見えないのは助かったが、声で悟られてしまっては元も子もない。あくまでいつも通りに、亜閖は心がけた。
「ですかね。ゆっくりしたいので、両親に宿泊許可とっておきますっす」
「それは……色々と責任重大ですね」
「両親とも、エドの事信頼していますから大丈夫っすよ。もちろん、お兄さんも。私も信頼してます」
「そんなふうに思って頂けて光栄です」
エドヴァルドは紳士的なひとだ。白羽が見習わねば、と意識しているくらいには。
普段つけているガスマスクこそ、威圧感があって近寄りがたい印象を持たせるが、だからこそ彼の喋り方や所作、纏う雰囲気をよく見る事が出来る。
表情で読めないので、声のトーンや身体の動き、僅かな変化を逃さない。ボード越しともなると、顔だけでなく身体のほとんどが見えなくなっているのでいつもより大変だが、いい練習だ。
そう思いながら、早速出されたアジを口に運ぶ。エドヴァルドと同じコース料理を注文しているので、彼も同じものを食べているはずだ。
「美味しいっすね」
「はい。朝食を抜いて正解です。支払いは私が持ちますから、好きなだけ追加で食べてくださいね」
二人で食事をする際、必ずと言っていいほどエドヴァルドが支払ってくれる。かなりの金額になっているはずだが、エドヴァルドは顔色を変える気配も見せない。
「いつも奢ってもらっているので、ここは私が払いますっす」
「いえ、ここは紳士の嗜みとして。格好付けさせてください」
「……分かりました」
こんな風に、押し切られてしまうのだ。今日こそは、と父からかなり多めにお小遣いを貰っていたのだが、いらなくなってしまった。家に帰ったら返さねば。
コース料理を楽しみ(追加注文はしなかった)、エドヴァルドが外していたガスマスクを着用し直している間に、亜閖も外していた黒いマスクを着用する。
「ごちそうさまでした」
と手を合わせてから、バッグを片手に席を立つ。それに続くように、エドヴァルドも席を立った。
会計時に先に外で待っていてほしい、と言われたので、彼の言う通りに店を先に出て、入口の横で待つ事にする。
ふと、道路を挟んで向かいのカフェテラスに、エドヴァルドの従者であるアクセルの姿が見えた。
エドヴァルドの従者とはいえ、婚約者とのデートの際にはいつも少し離れたところから周囲に気を配ってくれている。相手も亜閖に気付いたようなので、「お疲れ様です」と念を送りながら手を振った。
アクセルも小さく手を振り返してくれたところで、会計を済ませたエドヴァルドが店から出てきた。
「この後はどこへ参りますか?」
「少し歩きながら、二人で考えましょうっす」
「はい、そのように」
昼食を食べていた寿司屋は、歓楽街の入口にあった。ショッピングをするなら、軒並み人の多い繁華街の方へ行くべきなのだろうが、エドヴァルドが着用しているガスマスクが異彩な圧を放っているので、亜閖としては避けたかった。
何よりショッピングとなれば、先程のようにエドヴァルドが支払う、と言って聞かなくなるだろう。
よって、食後の運動がてらに人目を避けつつ、場所を移動しようと提案したのだ。詳しいプランを立てていない今回のデートでは、その場の流れで過ごす事も出来る。
いつもはイベント事に一緒に行くため、予約時間等が決められている事が多かった。しかし今日は違う。指定したのは昼食の場所だけなので、あとはどう動こうと二人の自由なのだ。
エドヴァルドはこの後、夕方の便でスウェーデンへ帰国する。空港に戻る時間さえ守れば、どうして過ごそうと自由だ。
今は繁華街と歓楽街、どちらにも通じる道を歩いているのだが、亜閖は少し油断していたかもしれない。
表の通りに比べれば人通りが少ないのだが、それでも通行人はいる。すれ違う人達が揃ってエドヴァルドを二度見して、そそくさと早歩きで去っていく。
毎度の事とはいえ、やはり恥ずかしい。
「……やっぱり、目立つっすねぇ」
「どこに行っても大体こんな感じなのでもう慣れちゃいました」
「どうしてガスマスクなんすか? 私みたいなマスクじゃダメだったんすか」
「…………」
亜閖の純粋な疑問に、エドヴァルドは少しの間黙り込んでしまった。もしかして、答えにくい理由でもあるのだろうか、と聞いてから後悔したが、彼は答えてくれる。
「かっこいいじゃないですか。こう……男心をくすぐられるというか」
……もしかして、逆に深い意味はなかったのかもしれない。
「白羽君のサングラスも、そういった理由だと思っていたのですが……」
「まぁ、お兄さんは基本的に強そうなのが好きなので……。……ちょっと、心配ですけども」
趣味なだけなら心配はしないが、亜閖の杞憂は他にある。
兄はもともと、掟に縛られたくないと足掻いていた。亜閖以上に、そういう家に生まれた事を恨んでいるようだった。
そんな兄が、ある日突然変わった。
会った事もない人の従者になりたくない、と駄々を捏ねていた兄の方が、よほど人間味があって好きだったが、亜閖以外の身内は誰も同意してくれない。
兄は理想に近づきつつあるが、亜閖の知る兄ではない。人は皆、白羽は強いと褒め讃えるが、はたしてそれは本当に兄に向けられた賛辞なのだろうか。
「理想的すぎます。お兄さんの重荷になっていないといいんすけど……」
「……白羽さんには、一華さんがいらっしゃるじゃないですか」
エドヴァルドの言う通り。白羽には一華がいる。
敬愛する主である。恋心を抱いている少女である。
嬉しい事に、一華も白羽を好いている。想っている人が自分の事を想ってくれているというのは、何よりの幸福だろう。
だからこそ、不安でもあるのだが。
「……それでいうと、エドには私がいるから安心っすね」
「…………」
亜閖が兄へ向ける不安は、エドヴァルドにも言える事だった。
エドヴァルドは当主になる際、かなり大変な状況にあったらしい。しかしそれは「亜閖様の耳には入れたくありません」と強く言われてしまったので、きっとこの先も追及する事は出来ない。
けれども、それ程大きな何かを背負っているのなら、辛いのが当たり前だ。
白羽には一華がいて。
エドヴァルドには亜閖がいる。
――――エドヴァルドに感じる不安も受け止める覚悟だ。
そんな想いを込めながら言った亜閖を呆然と見つめていたエドヴァルドは、
「心強いです」
と、どこか安心したような声色で言った。




