第八十話 俺と夢のひとときを過ごして下さいませんか
ホール内に到着したステファーノは、人の波から少し離れた入口付近でホール内を見渡した。ある程度の挨拶は済ませたが、まだ一華の姿を見ていない。一華は大人びた印象のある、力強くも美しい顔立ちをしている。童顔なステファーノの憧れでもあるし、何よりそんな彼女を引き立てる特注のドレスにも興味があるのだ。
想像はつかないが、きっとひと目で分かるような美しいものだろう、とステファーノは一人胸を高鳴らせる。
招待していた人は、一人を除いて全員到着したようだ。まだ来ていない一人は、毎年誕生日パーティーの招待状を送っている王子様。きっと今年も来ないのだろう、ともはや諦めの境地に達している。
会えないもどかしさはあるが、それでも目の前の光景はステファーノが待ち望んでいたものだ。マイナスの感情は閉じ込めて、パーティーを楽しもう、と心を切り替える。
〈何度見ても、この高揚感だけは治まらないわ。ねぇ、ジュリオ〉
〈そうですね。仮面舞踏会ですが、特有の緊張感でさえも心地よいものと思えます〉
パーティー会場であるホールについた時からステファーノをエスコートしてくれているのは、従者のジュリオだ。普段よりも踵の高い靴を履いているのか、身長が高くなっているような気がする。けれども見慣れた深緑の長い髪と、マスク越しでも分かる菜の花色の瞳はいつも通りだ。
特に違和感を抱く事もなく、そして疑う事もなく、ステファーノはワインを手に取って、ジュリオにも勧める。
〈あら、いつもなら断るのに〉
何の躊躇いもなくワイングラスに手を伸ばした事には、少し疑問を抱いた。いわく、ジュリオは酒に弱く、社交の席であっても基本的には飲まないようにしている、と聞いた事がある。てっきり断られる、と身構えていただけに、少し驚いてしまった。しかしジュリオは、
〈今日はパーティーですからね。付き合い程度であれば〉
と、にこやかに口にする。
〈そう。貴方も楽しんでくれているようで嬉しいわ〉
まぁ、飲めないわけではないようなので、本人の自由にさせておこう、とステファーノも笑んだ。
〈来年はもっと凄い事しちゃおうかしら……って、計画を立てるのが早すぎるわね〉
先の事を考えるのも悪くないが、今この時を楽しまなくては。ステファーノはワインを口に運び、再びホール内を概観した。招待状と共にマスクを同封したのはステファーノ本人なので、誰がどのマスクを着用しているかは記憶している。
パーティーの機会でもなければ、知り合いがドレスを着ている姿を見る事もないのがほとんどだ。最近は男性も女性もスーツを着る事の方が多いし、本格的なドレスを身に纏っているのもステファーノくらいで寂しい気もする。
けれども、ステファーノ主催のイベントとなれば話は別だ。誕生日という特別な日に、好きな催しで盛り上がれるのだから。この瞬間の幸せを噛み締めるように、もう一口ワインを運んでいると、人の波をぬって一人の女性がステファーノの元へやって来た。
彼女の名前はフィオレ・フランチェスキーニ。ダークピンクの髪を三つ編みに纏めた、青緑色の猫目が印象的だ。ジュリオやチェルソの昔馴染みの一人で、普段はステファーノの邸宅で家事を手伝ってくれている。フィオレはどこか慌てた様子で用件を述べる。
〈ステファーノ様、お客様がいらっしゃっております〉
〈あら、どなたかしら〉
〈仮面をつけていらしたので、パーティーに招待した方かと……。ただ、こちらに来る時間はなく、挨拶だけしたい、と〉
招待した人達は、全員到着を確認している。しかしそれはある一人を除いてで、〈きっと今年も来ないだろう〉と諦めていたからだ。
もしかして、来てくれたのだろうか。そう思うと、途端に心臓が跳ねるように脈打ち始める。もし本当にあの人が来てくれたのなら、一秒でも早く会いたい。
〈分かったわ。時間ギリギリだけれど、もしも私が帰ってこなかったら、軽い挨拶と、ダンスを始めちゃって。途中参加するわ〉
そう早口で言い残して、ステファーノはその場から駆け出すようにホールを後にした。
〈……これで良かったのですか、チェルソ〉
〈あぁ、助かったよ〉
ステファーノの姿が完全に見えなくなってから、フィオレはジュリオを見上げる。正確には、ジュリオの変装をしたチェルソを、だが。
パーティーが始まる十五時間程前。チェルソの元にジュリオから連絡があった。〈パーティーで自分のフリをしてほしい〉と。
チェルソもフィオレも、ジュリオが二十年前にステファーノを火事から助け出した事は知っている。チェルソは当時、同年代の子ども達を纏めるリーダー的存在で「兄貴」と呼ばれ慕われていたし、フィオレもパーティーの食事を別けてもらった時に〈お礼がしたいね〉と一声上げた。
どういう縁か、三人だけでなく当時徒党を組んでいたグループの者達が、ステファーノの従者に選ばれ、育てられた。彼女には感謝してもしきれない恩があるし、彼女が恋焦がれている王子様の正体を知っている手前、ずっと会わせてあげたいと持っていたのだ。
ジュリオ本人に〈あの事は話すな〉と強く念を押されていたので、チェルソ達には何も出来る事がなかったが、今回になって急に頼まれた。
突然の心境の変化には驚かされたものだが、ジュリオからの頼みとあれば断る理由もない。ジュリオに変装したチェルソのサポートをしつつ、フィオレが王子様が来た事を伝えると、案の定ステファーノは走るように正門へと向かっていった。
会う事は決めたようだが、正体を告げるのか、隠したままにするのかはチェルソ達にも分からない。けれども、頑なに自身の気持ちを隠し続けてきたジュリオが行動に移した事は大きい進歩だと思っている。
〈……どうなるのでしょう〉
〈さぁな。……だが、当人達がそうしたいなら、そうすればいい。俺達は、与えられた仕事をこなすだけだ〉
そう呟くチェルソの瞳には、どこか哀愁の色が映っていた。
※※※※
(あの人かしら……まさか来てくれるなんて……!)
ステファーノはパーティー会場であるホールを飛び出して、無人の廊下を走り抜けていた。逸る気持ちが抑えきれず、正門に近付くにつれ心臓が強く脈打つ。
正門に続く扉を開ける前に、走った時に乱れた髪を軽く整えて、数回深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着ける。
ゆっくりと扉を押し開け、正門に続く石畳の上を歩いていくと、その姿がステファーノの目に映った。
黒みがかった緑の髪を纏めた、高身長の男性。彼がつけているマスカレードマスクは間違いなく、彼の招待状に同封したものだった。
そして何よりも彼が記憶にある王子様であると確信した理由は、彼がつけているイヤリングだった。色の変化は見られないが、特徴的な三角形のイヤリングが、月明かりに照らされてきらきらと光を放っている。
――――本当に、あの人なんだわ。
いざ目の前にしてみると、彼の纏っている雰囲気に同調されてか、ステファーノの逸っていた気持ちも落ち着いていくようだった。それでも、心臓はドキドキと早く、強く脈打っていたが。
あくまで表情はいつも通りのまま、ステファーノはすっと背筋を伸ばして、男性に話しかける。
〈こんばんは、来てくれてありがとう。主催のステファーノ・アッバーテよ〉
〈……ご招待、ありがとうございます〉
声変わりしたのだろうか、記憶にある声よりも少し低い印象だ。目元を覆い隠すマスカレードマスクもそうだが、特徴が捉えにくい顔立ちであるせいか、近付いて見ても記憶に残りにくい気がする。
――――けれども、とてつもなくかっこいい。
ステファーノはそんなシンプルな感想を抱いた。
顔が見えなくとも、手を伸ばせば触れてしまえる距離にいる事。招待に応じてくれた事が嬉しくてたまらない。
もしも会えたら、何を話そうかと何度も考えてきた。相手の事もたくさん知りたいし、自分の話もしたい。けれども、何よりも伝えたかった事がある。
〈その、覚えていらっしゃるか分からないのだけれど……二十年前に、ローマで大火事があったの。その時、私……貴方に助けられたのよ。ずっとお礼が言いたかったの。助けてくれてありがとう。本当に、私の中で貴方はずっと……英雄のような存在だったのよ〉
直接、お礼が言いたかった。
〈……しかと、覚えていますよ。本当に、無事で良かった〉
覚えていてくれた。ずっと招待に応じてくれなかったので、てっきり忘れてしまったのかと思っていた。相手も覚えていてくれて、妙に気持ちがふわふわと浮ついた気がする。
〈こうして来てくれて、本当に嬉しいわ。ずっとずっとお礼を言いたかったの。少しだけでも、お料理食べに来ない?〉
〈……申し訳ありません。俺は、貴方の元へは行けないのです〉
ステファーノの誘いに彼は少しためらうように、けれども決意を曲げまい、といったふうに断りの文言を述べる。
〈俺は……素顔を曝け出して向き合える立場ではないのです。だから、貴方の中でだけでも、俺はずっと美しい存在でありたい。どうか夢のまま……綺麗な思い出のままであってほしい。貴方にとっても、俺にとっても〉
それが長い間、招待に応じなかった理由だろうか。
それでも今日、ステファーノの前に訪れてくれたのは、仮面舞踏会で、顔を見せなくて済むからだったのだろうか。
ステファーノは彼が普段、どこで、どんな暮らしをしているのかは知らないし、踏み込み過ぎないように我慢しているところもある。ステファーノが一方的に抱いている好意を、彼に押し付ける事はしたくない。
私生活では、もう彼は家庭を持っているかもしれない。そんな、かもしれない可能性を考えたくなかったから、という自衛の意もあったが。
彼の言う通り、夢のままが一番幸せなのかもしれない。
ステファーノは裏の世界の人間で、将来の事も家にとって有益か、そうでないかで決められる身だ。ステファーノが誰かに恋心を抱いていても、叶いもしない夢となってしまう。
それならば、初めから理想の事として、夢の中の出来事にしてしまった方がいいに決まっている。お互いの事を考えれば、それが最良の選択肢なのだろう。
これが現実なのだと優しく諭すかのような、突き放すかのような声に、ステファーノは返す言葉が見つからなかった。悲しい、というわけではないが、二人の間に見えない壁があるかのような気分だ。
触れられる程近くにいるのに、手を伸ばす事が躊躇われて、届かない距離にいるようで。マスクを付けていて助かった、とステファーノは一人安堵していた。
けれども――――
〈だからどうか、最後に……俺と夢のひとときを過ごして下さいませんか?〉
タイミングを見計らったかのように、建物の中から曲が流れてくる。もうダンスの時間がやって来てしまったのか、と顔を上げると、彼の手がステファーノの目に留まった。
手を差し出されている。夢のままでいた方が幸せだから、最後に、区切りをつけるために夢を見たい。そう言われているかのようだった。
〈……はい、喜んで〉
ステファーノ自身、ここで区切りをつけてしまおう。そう心を決めて、差し出された手の平に、そっと自身の手を重ねた。
※※※※
優しく包み込まれるような優麗な音楽が始まった。もう何度も聞いた曲目だ。
重ねた手を優しく握られたかと思うと、そのまま引き寄せられる。そっと背に手が回されたので、応えるように手を彼の腕に添える。これだけ距離が近ければ、マスク越しでも顔立ちが分かるかもしれない、とステファーノは顔を上げた。そこでようやく、彼の瞳がはっきりと見えた。
黄色だ。陰になっていてはっきりとは見えなかったが、穏やかで美しい色をしている。けれどもやはり、これといった特徴は掴めなかった。
視線がぱちりと合うと、彼は微笑みかけてくれる。そしてそれを合図にするかのように、同時に足を一歩踏み出した。
ステファーノはダンスが得意だ。緩やかな曲調のものはもちろん、激しい曲調のものもお手のものだ。ある程度ならば相手の歩調に合わせる事も出来るが、その必要はなさそうだった。
きっと彼は、踊り慣れている人だ。まるでステファーノのペースを把握しているかのように、歩幅を合わせてくれる。緊張している様子もないし、純粋に楽しんでいるように感じられた。
ステファーノは、普段よりも緊張しているというのに。けれども彼から感じられる余裕が、何故か心地良いと思ってしまう。包容力というものだろうか、身を委ねたくなるような温かさがあった。
視線が合うと、彼はにこりと微笑んでくれる。その優しい笑みに、ステファーノの胸がとくんっ、と脈打った。
建物の中から微かに聞こえてくる音を頼りにダンスを踊っていたが、気が付けば優美な音楽も聞こえなくなっていた。え、早すぎない? と言ってしまいそうになったくらいだ。
一曲、終わってしまったのだ。広々とした庭園に二人きりで踊るダンスは初めての経験で、それもずっと恋焦がれてきた人との夢の時間だった。数歩後ろに下がって一礼すると、その実感が強く湧き上がってくる。
――――そう、夢の時間だ。
ここで区切りをつけて、終わらせなければならない。彼からその現実を突き付けられた時は少しショックを受けたものだが、今となってはそれも一つの良い未来なのかもしれないと思える。
最後に、本当に幸せな時を過ごせたのだから。
笑顔で、もう一度彼に〈ありがとう〉と伝えよう、と顔を上げたステファーノに、再度彼の手が差し出された。そこには、彼が今の今まで身につけていたイヤリングの片割れがあって。
〈よろしければどうぞ〉
〈これも、ずっと記憶に残っていたの。本当に貰ってしまってもいいのかしら……〉
〈はい。どうか、お受け取り下さい〉
〈……じゃあ、ありがたく受け取るわね〉
彼の手からイヤリングの片割れを受け取って、しばらくそれを見つめる。そういえば角度によって色が変化すると記憶していたのだが、傾けて見ても色は変化しない。思い違いだったのだろうか、と目を瞬かせていると、ふと上部の色が変化していた。
輝かしい黄色から、温かみのあるオレンジへ。もしかして、角度によって色が変わっていたのではなく、温度によって色が変わっていたのだろうか。
何にしても、ずっと印象に残っていたものが手元にある事は嬉しかった。抱き締めるように優しく手の平に包み込んで、ステファーノは噛み締めるように息をつく。
〈最高の誕生日プレゼントだわ〉
これまで生きてきた中で、これ程までに幸福感を抱いた事はないだろう。
そう感じる程に、ステファーノの心は満たされていた。
無邪気な子どものような笑みを浮かべるステファーノにつられたかのように、彼もマスクの向こうで目を細めるのが見えた。そして、
〈どのような事が起きようとも、どうかお元気で……幸せにお過ごし下さい〉
と、口にする。
今日まで生きてこられたのも。今ステファーノがここに立っている事も、彼があの火事の日に命懸けで助けに来てくれたからこそだ。返しても返しきれない恩と、これからを生きる希望を与えてくれた。
〈貴方も、どうか幸せに〉
もう少しだけ、彼といたいというのが本音だ。けれども、これ以上縋ってしまえばいつまで経っても前に進めない。特別な人に、特別な日に会えたのだ。これ以上の喜びは他にないだろう。
〈私を助けてくれて。そして素敵な一日を、ありがとう〉
――――本当に、最高の誕生日だ。
建物の中からは、二曲目が始まっている。まだまだ、ダンスパーティーは始まったばかりだ。
彼を見送ってから、ステファーノはもう一度手にしていたイヤリングに視線を落とした。ステファーノの手の体温で少し温もりを帯びたそれは、鮮やかな赤色に変化している。
〈……綺麗〉
耳にしていた両耳のイヤリングを外し、今貰ったばかりのイヤリングに付け替える。
〈おそろいね……ふふっ〉
鏡がないのが残念だ。
ともあれ、早く会場に戻らなくてはならない。ジュリオやフィオレに任せてきたとはいえ、あくまで主催はステファーノだ。本来ならばダンスが始まる前に行われる挨拶も出来なかったし、いつまでも不在のままではいられない。
まだ余韻に浸っていたかったが、もう充分だ。そう思う事にして、ステファーノはくるりと背を向ける。けれども、気を抜けば口角が上がってしまいそうになるのだった。




