第七十九話 久し振り、一華
そこはまるで、異世界にでも来たかのような空間だった。
衣装を詰め込んだキャリーケースとともに護送車に乗り込み、移りゆくイタリアの街並みを眺めていた時もそうだったが、これが同じ世界にあるのかと感嘆の溜息を洩らしたものだ。
今回、ステファーノの誕生日パーティーが執り行われる別荘は、やはり盛大で豪勢な建物で。そこまでは予測出来てはいたのだが、実際に目にするとその威圧感に押されそうになってしまう。
けれども庭園を通り抜け、一華の身長の倍程もある扉の向こうは、さらに凄まじいものだった。
塵一つ落ちていない真紅のカーペットが敷かれた廊下。用意されていた更衣室(ここもとてつもなく広かった)で持参したドレスと、装飾の一部として着けるように渡されたマスカレードマスクを装着し、会場へと案内される。
広い、広いダンスホール。一華が全力でジャンプしても届かないであろう高い天井に、そこから吊るされた巨大なシャンデリア。 アンティーク調の趣ある造りもそうだが、どこに目を向けても眩い光がある。けれども不快な眩しさはなく、どこまでも心躍る輝きだけがそこにあった。
メインであるダンスが行われるのは、ホールの中心なのだろう。ホールの隅にそって、休憩用のソファーやテーブル、そして食事が用意されていた。
ホールの内装を眺めるか、用意されている食事を見に行くか、はたまた招待された女性等の美しいドレスを細見するか、はたまたバルコニーから見える景色を眺望するか。
ホール内に足を踏み入れて一分も経っていないのに、一華はすでにその場の空気に飲まれていた。
「凄い……とても綺麗だ……」
ステファーノが楽しみにしていた理由もよく理解出来た気がする。
彼女のパーティーはセンスがある、と、招待された事のある人は口を揃えて言うが、この事を言っていたのだろうか。納得である。
「凄い、凄いな!」
「はい……想像の十倍は凄いです……」
ここまでエスコートしてくれた白羽のスーツの袖をぐいぐいと引っ張って、言葉に表せない感動を伝える。会場の空気に飲まれているのは白羽も同様らしく、マスカレードマスクの向こうに見える表情は強ばっていた。
「ここで……踊るんですか……? ……えっ……?」
空気に飲まれているのもそうだが、何よりその事実が信じられないのだろう。一華も同様だ。すでに視線が集まっている気がして、思わず背筋を伸ばした。
「たくさん練習したから大丈夫だよ。それに、きっと上手くいく」
「そうですね……。では、参りましょうか」
「あぁ」
一華と白羽は頷きあって、同時に一歩踏み出した。ステファーノの誕生日パーティー、メインであるダンスが始まるまであの二時間――――。
※※※※
白羽はスーツが良く似合う。会議の際にも正装として着ているが、今日は一層華やかに見える。
青みがかったタキシードは、今日のパーティーのために新たに作られたものらしい。一華のドレスと同じ柄が、ジャケットの裏側にあしらわれているようで、白羽の動きに合わせてちらっと見えた。
彼の装いの対になるかのように作られたのが、一華のドレスとも言えるのだろうか。ドレスを制作してくれた六条家の者いわく「一華は赤が似合う」との事。
出発一日前に完成したばかりのドレスを家族や白羽以外に見せるのは、当然今日が初めてである。着物の帯のようなリボンに、頭にさされた簪はどこからどう見ても和風なのに、歩くたびにふわりと揺れ動くAラインの裾には刺繍が施されている。
本日の主役はあくまでステファーノなので、あまり派手なデザインではない。しかし、彼女の期待に添えるよう、かつ一華によく似合うものを仕立ててくれたのだ。六条家の者達には頭が上がらない。
白羽にエスコートされながら、ホール内をゆっくりと練り歩く。ステファーノも各方面に挨拶に回っているので、二十時までは基本的に自由時間でもある。食事をとる者もいれば、一瞬だけマスクを取って正体を告げて歓談している者もいる。
一華の知っている人も何人か招待されているらしいが、それらしき姿は見受けられない。皆、顔の半分を隠すようなマスクを付けているのだから、当然であるといえば当然なのだが。
いっそ先に食事でもするか、と白羽に告げようとした瞬間。後ろから誰かに抱き着かれた。
「わっ」
「久し振り、一華」
聞き覚えのある声に、一華は慌てて振り返る。橙色の髪をツインお団子ヘアーにまとめているが、特徴的なドレスで抱き着いてきた人物が誰か、一瞬で理解が及んだ。
「神美さん! 久し振りだな」
中国国主、李梓豪の愛娘、神美である。普段から丈の短いチャイナドレスを身に纏っていた彼女だが、彼女もまた今日のために用意したのだろう。 ふわりと裾が広がった、ワンピースのようなドレス仕立てとなっていた。裾のフリルもそうだが、いつもとは違った愛らしさが見受けられる。髪型のせいもあるのだろうが、いつもよりも幼く見える気がした。
「お、もしかして一華の嬢ちゃんと白羽の坊主か?」
神美の後ろから聞こえてきた声にも、覚えがある。覚えはあったが、外見がいつもと違ったので、一華は一瞬声を出すのを躊躇ってしまった。
「えっと……梓豪さん、だよな……?」
「そうだ。分からねぇか?」
「声は分かるよ。ただ……スーツ姿を見るのが初めてで、かなり印象が違うな、と」
普段はチャイナ服を身に纏っている梓豪に関しては、一瞬別人かと見誤った。白髪混じりの黒髪は、ワックスがつけられているのか普段よりも毛先が跳ねていない。
特徴的な目弾きも見えないせいか、余計に普段の姿とかけ離れている印象だ。一華が正直に告げると、梓豪は軽く笑って言う。
「さっきファリドにも言われたぜ。スーツは滅多に着ないが、たまにはこういうのも悪くねぇな」
「そうだったのか。よく似合っています」
「嬢ちゃんは流石というか、目立っているな」
「綺麗なドレスを作ってもらったからな。とてもテンションが上がっている」
「楽しそうで何より、だな」
そんな会話を交わしつつ、一華はふと気付いた。ちらっと視線だけを動かして辺りを見渡してから、梓豪に問い掛ける。
「そういえば、美朱さんは一緒じゃないのか?」
梓豪の妻で、神美の母にあたる女性、林美朱。ステファーノは李家の皆が仲睦まじいのを知っているので、招待状も三人宛に出されている事だろう。
従者である藩依然は表に姿を表さないのでさておき、彼等の傍に美朱がいないのは気がかりだった。しかし一緒に来ていないわけでも、傍にいない深刻な理由があるわけでもないらしい。その質問が来るとどこか分かっていたように、梓豪はバルコニーの方に顔を向けた。
「美朱さんはあっちの方で休憩してる。風に当たりたい、と」
「もしかして、あそこにいる方か? 赤いドレスの」
一華達がいる位置から一番近くに見えるバルコニーには、美朱と思しき女性の後ろ姿があった。深みのある上品な赤いドレスは、裾があまり広がっていないが、美朱の落ち着いた雰囲気によく似合っている。一華達の視線に気付いたのかもしれない。
ゆっくりと振り返った美朱と目が合うと、彼女は口元に柔らかい笑みを浮かべて手を振った。それが梓豪と神美に向けられたものなのか、一華だと気付いての事なのかは分からないが、一応手を振り返しておく。
「美朱さんも久々のパーティーで緊張してたみたいだし、我達もゆっくり回ろうかと思っていてな」
神美はわくわくとした様子でホール内を見渡しているが、何度か足を運んでいる梓豪と美朱は慣れている様子だ。流石、一華も見習いたいものである。
しかし梓豪は途端に顔を曇らせて、溜息混じりにこぼした。
「まぁ、一番緊張しているのは我なんだが……」
「そ、そうでしたか……」
落ち着いているように見えても、緊張はしていたようだ。むしろ経験のある彼等でも緊張はするのだな、と少し安心感を抱いたので、
「私達も、かなり緊張している。これから軽く食事をとりに行こうと思ってな」
と口にする。白羽にはまだ誘いの言葉を述べていなかったのだが、一華の話に合わせるかのように首を一度縦に振ってくれた。
「おう、ステファーノの嬢ちゃんのパーティーは賑やかで華やかで楽しいが、何より料理が美味いからな。たくさん食べてきていいと思うぞ」
「そうしようかな」
梓豪のお墨付きとは、ますます楽しみだ。白羽の腕にそっと自身の手を添えて、ドレスの裾を持ち上げる。
「それじゃあ、また」
「またね、一華、白羽」
梓豪や神美との会話を終わらせて、白羽と共に食事が並べられているテーブルの方へと向かった一華。
そういえば、七緒は真っ先に料理を食べに行くと早々に一人で行動していたが、まだいるだろうか。七緒の着ているスーツとマスクは記憶に残っているが、ぱっと探して見た感じではもうこの場を離れているようだった。入れ違いになってしまったかな、と少し残念なような気もしたが、一華達も食事を楽しもうとテーブルの上に視線を移す。
魚料理に肉料理、基本的に立食出来るようなメニューだが、如何せん種類が豊富だった。どれから食べようか、と悩むも網羅する事は難しそうだ。
好物の肉料理は外せないとしても、人気の高そうな魚のソテーやリゾット、デザートの類も食べてみたい。
とはいえ、ドレスを着るにあたって、かなりウエストを絞られた。正直、普段の食事の量と同じ分を食べる事は厳しい気がする。白羽が羨ましいと、一瞬じろりと視線を向けておいたが、妬んでいても仕方がない。
まずはやはり肉、とローストビーフを取り分ける。
屋敷に出される食事は基本的に和食がメインで、イベントがあったり、兄妹が集まった時には食事が豪勢になる。しかしそれもほぼ和食。天ぷらのついでにポテトや揚げ菓子の類が増えるくらい。
海外の食事は、ほほ初体験とも言える。ドキドキと胸を高鳴らせながら、一華はローストビーフを一切れ、口に運んだ。瞬間、一華は悟った。絶対美味しい、と。
何度か咀嚼して、口の中に広がるスパイスのパンチと、肉に絡まるあっさりとしたソース。噛めば噛むほど美味しい、とはこの事かもしれない。飲み込んだ頃には、一華の口角は上がりきっていた。
「美味しい!!」
「そんな気がします!」
そんな一華の様子を見ていた白羽も、嬉々としている。この味は、ぜひ白羽達にも堪能してほしいものだ。
「白羽さんもいろいろ見てきていいぞ。私はこの辺にいるから」
「では、お言葉に甘えて。料理を取り分けたら、こっちに戻ってきますね」
「分かったよ」
その間一華も、この辺りにある料理を食べようか、と視線をテーブルの上に並べられた料理に向ける。次はサラダにしようか、それとも飲み物を見に行こうか、と悩みながらテーブル沿いに足を進めた。
※※※※
「一華ちゃん、元気にしていたか」
「その声は……ファリドさんか?」
用意されていた料理を堪能していると、ふと話しかけられる。相手も仮面を付けているので一瞬誰かと緊張したのだが、聞こえてきた声は聞きなれたものだった。ロシア国主、ファリドは「やはり分かりにくいか」と苦笑を漏らす。梓豪から彼もパーティーに来ていると聞いていたが、大勢の中から見つかるとは思っていなかっただけに驚きだ。
「誕生日パーティーに仮面舞踏会とは……ステファーノちゃんも面白い事を考えるな」
「ですね。私宛に招待されたのは初めてだったから、少し緊張していたが……とても楽しいものだな」
彼女の人柄ゆえか、和やかでありながらも華やかな雰囲気がある。想像していたよりも緊張していないのも、一華の中では大きかった。
この後メインのダンスが待ち構えているのが、唯一の不安要素である。練習の時よりも踵が高い靴を履いている事、動きにくいドレスを着ている事は、人並みにダンスを踊れる一華にプレッシャーを与えるかのような重みであるかのようだ。
場数を踏んでいるだけあってか、ファリドはいつもと変わらない様子だった。
「そうか。そういえば、さっき五輝君と六月ちゃんが挨拶に来てくれた。一緒に来れたんだな」
「はい。ステファーノさんが、私の我儘を聞いてくれたんだ」
「良かったな」
「……はい」
ファリドは、幼い頃から一華をよく知ってくれている。剣の師匠でもあり、一華にとっては憧れの存在でもある。
兄妹を大切に想っていて、それが受け入れられた事が何より嬉しい。堪えきれずに口角を上げて頷くと、ファリドも優しく微笑んでくれた。
「白羽君はいないのか?」
「今、料理を取りに行っています。ファリドさんも一人なのか?」
いつもなら、ファリドの傍には彼の妻であるライーサがいる。もしくは、彼の従者であるエカテリーナがいるはずなのに、見たところファリドは一人でホール内にいるようだった。
梓豪の時のように、少し離れたところにいるわけでもなさそうなのが気がかりだ。
「今はそうだな。今日は上の娘と来ていたんだが……」
「娘さんと? 珍しいな。いつもライーサさんと一緒なのに」
「ライーサは公演の時期と被ってしまってな。カチューシャも家族旅行に行っている」
「そうでしたか」
ライーサは表の世界でも有名なヴァイオリニストで、コンサートや公演、テレビにもよく映る有名人だ。
とはいえ出身は裏の世界。有名な名家、というわけではないらしいが、ファリドが一目惚れしてそのまま結婚した話は聞いた事がある。そんなファリドとライーサの間には、五人の子どもがいるそうだ。長男、長女、次男、次女、三男と多い方である。兄妹が八人いる一華が言えた事ではないが。
「それで、その娘さんは……」
近くにいるのかと思いきや、そうではないらしい。一華が辺りを見渡すと、ファリドは溜息混じりに言った。
「……御手洗いに行くと言ってから帰ってこない」
「そ、そうか……」
ともかく、はぐれたわけではないようだ。良かった、と言っていいのかが分からず、一華は曖昧な返事をする事しか出来なかった。
「緊張で胃がひっくり返りそうとは言っていたが……いや、多分もうすぐ帰ってくるはずだ」
一華はファリドの子ども達に会った事がない。一緒に来ているという長女も、その姿を見た事すらない。話に聞く限りでは、一緒に来ているという長女は花のような、宝石のような、とにかく美しい女性らしい。マスク越しとはいえ見られるかもしれない、と期待していただけに、少し残念な気もする。
そしてファリドは、帰ってこない娘に怒りを通り越して呆れている様子だ。
「今回は顔を出さなくていいから、と無理矢理引っ張り出してきたんだが……駄目だったか……」
「たしか、人見知りが激しいんだったか」
美しいと有名な長女だが、直接見た人物は少ない。というのも、人見知りが激しく、所作は美しいものの対話が全く出来ないという。話にならない、とファリドも悩んでおり、会議等に同席させる事を諦めたと聞いた。礼儀礼節を重んじ、自身にも他者にも厳しい彼が呆れたり、諦めたりするのだから、相当深刻なのだろう。
「年々人見知りに拍車がかかっているのが問題だな。とはいえ、場慣れするには経験するしかない」
とはいえ、甘えさせる気はないらしい。マスク越しに見える灰銀色の瞳には、闘志ともとれる光が宿っていた。
「帰ってきたら、改めて挨拶させてほしい」
「了解だ。私も、娘さんに会ってみたいからな。それでは、失礼します」
待ってて、とは言われたが、少し動いてみようと、一華はファリドと別れて歩き始める。料理が並べられたテーブルもたくさんあるので、それに沿って歩いていけばいいだろう。
裾を引き摺らないようにドレスを持ち上げて、白羽の姿を探しながら歩いていると、前方から一人の女性が歩いてくるのが見えた。そんな彼女のまとっている雰囲気に魅了されて、一華は思わず立ち止ってしまう。
(綺麗な人だ……)
胸元やドレスの裾にビーズ刺繍があしらわれた、淡い水色の美しいドレスを着た女性は、一華と同じように誰かを探している様子だった。白銀の長い髪が、歩くたびにサラサラと揺れる。女性が一華の隣を通り過ぎた時には、香水か、彼女の雰囲気によく似合うエレガントな香りが鼻腔を掠めた。
マスクの向こうに見える灰紫の瞳は、伏せ目がちだが暗い印象はない。儚げ、という言葉の方がピッタリだ。
一華は思わず通り過ぎて行った彼女の後ろ姿を見つめ、もう一度心の中で「本当に綺麗な人だな」と呟く。ずっと見つめているのも不躾だ、ともう少し目に焼き付けておきたい気持ちを押し殺して、再び白羽を探し始める。少し歩くと、それらしき姿が目に映った。
「白羽さん」
「あれ、一華さん。待ちきれませんでしたか?」
「そんなところかな」
白羽は一華に気が付くと、からかうかのように笑みを浮かべる。待ちきれなかったのも事実だし、大勢の中から白羽を探すのも少し楽しかった気がした。しかし後者の方は、気恥しいので口にはしない。
「こっちも美味しそうだな」
「食べ過ぎには気を付けて」
「分かっているよ」
白羽に笑みを返して、一華も料理を選び始めた。




