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本条家当主継承戦  作者: 京町ミヤ
第三章 仮面舞踏会
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第七十五話 Giulio Iurato Baccelli

 ――二十年前。


 深緑の髪をした少年は、人の波を縫って歩いていた。数分間、ローマの大通りを歩いていた少年は、ふと路地裏へと進路を変える。

 人で賑わっている首都の街並だからか、スリ等の被害は多く報告されているという。しかし少年にとっては、あまり関係のない話だ。


〈うーん……どれもあんまり入ってねぇな〉


 少年は、スル側の人間だから。


 先程盗む事が出来た財布の数は三つ。しかし、どれも大金が入っているとは言い難い結果だった。紙幣だけを抜き取り、後はその場に捨て置いてその場を去る。


〈ひとまず、今日の飯にはありつけるか。兄貴達の方は上手くいったかな……〉


 一人呟きながら路地を抜けて、先程とは反対側の道へと出たところで、少年は思わず足を止めた。


 少年の目に映ったのは、一軒の邸宅だった。家というにはあまりにも大きく、城というにはやや小さい印象を受ける。少年の身長の倍ほどもある鉄柵に囲われているが、警備らしき人影は見えない。それは、屋敷の中も同じだった。


(何か……盗れるかも)


 少年が得られたのは、今日を生き延びる分の金額で、明日以降はどうなるか分からない。少年と同じ境遇の子ども達とつるんで悪事を働いているので、仲間の分もと考えると少ない額だ。


 それに、金はあって困らない。せめて経路だけでも把握出来ればいいか、と少年は鉄柵に手をかけた。しかしふと、誰かの声が耳に届いた。

 近くに誰かがいる、そう悟った少年は慌てて手を放して辺りを見渡す。


 聞こえてきた声は、屋敷の表の方からだった。よくよく耳を澄ましてみると、かなりの人数がいるようだ。自分の軽率な行動を反省しながら、少年は屋敷の表側に回った。


 大きな屋敷に似合う、広い庭。そこにはたくさんの人がいた。驚いたのは、そこにいる女性達が皆、華やかなドレスを身に纏っていた事だ。男性等が着用しているスーツも、皺一つ見受けられないので、きっと価値のある代物だろう。


 しかしそれよりも少年が目を奪われたのは、大きなテーブルの上に並べられた料理の数々だった。パンも、サラダも肉も魚も、少年が見た事ない料理もたくさん並んでいる。味なんて気にした事などなかったが、きっと今まで食べた何よりも美味しいに決まっている。

 

 色んな街を渡って、盗みを繰り返して生きてきた少年には眩しすぎる景色だった。


 ……何故こうも、住む世界が違うのだろうか。

 少年は、物心ついた頃から一人だった。親の顔も、自分の名前も知らない。何かをしたいという夢もなく、ただ生きたいから生きている。


 生きる価値もない、邪魔な存在だと、街行く人に何度も言われた事があるが、それでもただ〈生きたい〉という一つの理由に縋って盗みを繰り返し。今日という日まで生きてきた事が、少年にとっての何よりの証明でもある。


 鉄柵の向こう、分隔てられた向こうの世界の人達は、少年のような生き方などした事もないのだろう。もう妬む事も疲れてしまったので、少年は何も感じなくなっていたが、どこか気に食わない。


 ――――もういい。見なかった事にして、仲間の元へ戻ろう。


 そう自分の中で区切りをつけて、少年は歩き始めた。


〈待って!〉


 けれどもすぐに、誰かに呼び止められた気がした。少年はすぐに逃げ出す事はせず、ゆっくりと声の主の方へ振り返る。


 そこに立っていたのは、自分よりも幼い女の子だった。赤茶色の髪を三つ編みにした、桃色の瞳の可愛らしい印象の子だ。少年が先程まで見つめていた屋敷から出て来たらしい、その子の手にはバスケットがあって、ほのかにトマトソースのいい匂いがしていた。


 それにしても、目の前に立っている女の子の着ているドレスもやけに煌びやかだ。イヤリングやネックレスも、キラキラとした輝きを放っている。


〈さっき、こっちを見ていたわよね?〉


〈あー……おう。珍しい光景だったしな。パーティーか何か?〉


〈えぇ、今日は私の誕生日なの〉


 成程、誕生日パーティーというやつか、と少年は一人納得する。少年は自分の誕生日も知らないし、年齢もあやふやだが、一年に一度の特別な日だというのは理解出来る。この女の子にとっては、今日がその特別な日なのだろう。少年にとっては、いつもと変わらない一日だったが。


〈……おめでとう、って言ってくれないの?〉


〈え? あぁ……おめでとう〉


〈ふふっ、ありがとう〉


 誰かに〈おめでとう〉と言った事も、〈ありがとう〉と言われた事も、今まで生きてきた中で数えるくらいしかない。ましてや、住む世界が違う女の子に〈ありがとう〉なんて感謝の言葉を言われたのは初めてだった。


 何だかむず痒い感覚がするが、不快ではない。早くこの場から去ろう、と一歩後退るも、女の子の方も一歩歩み寄って来たので、距離が遠くなる事はなかった。


〈ずっとこっちを見ていたわよね? 本当は入れてあげたかったのだけど、お母様に駄目だって言われたから……だから、これを渡したくて〉


 そしてずいっ、と手に持っていたバスケットを差し出してきた。その際に中に入っているらしい食べ物と、女の子がつけているらしい香水の香りが鼻孔を掠める。どちらもいい匂いだ。


〈とても美味しいから、ぜひ食べてほしいの〉


〈……何で俺に? 俺、金もねぇし何も出来ねぇよ〉


 この時、素直に受け取って早急に去ればよかったのかもしれない。けれども、少年はそうする事が出来なかった。きっと、この女の子は少年のようなスラムでの暮らしを一生知る事も、経験する事もないお金持ちだ。


 いっそ、少年の事を嘲笑ってくれた方がよかった。何故少年が見ていたからと、パーティーで出されていた料理を分けに来たのか、皆目見当もつかない。


〈《おめでとう》ってお祝いしてくれたじゃない。もう貰ったわ〉


〈…………〉


 そんな事で?

 思わず、声を出しそうになってしまった。


 理由になってないじゃないか。そんな事で食べ物にありつけるなら、十年以上も苦労して生きてきたのは何だったんだ。常に危険と隣り合わせで、この年まで生きてきた事は奇跡に等しいはずなのに。こんな小さな女の子の余計なおせっかいで、簡単に一日を乗り越えられるというのか。


 悔しいはずなのに、何故かとても嬉しかった。


 はい、ともう一歩踏み込んで差し出されるバスケットをおそるおそる受け取ると、女の子は笑顔になった。可愛らしい、花のような笑みだ。


 ――――あぁそうだ、俺の事を見下していないんだ。この女の子はただ純粋な好意しか持っておらず、幸せのお裾分けがしたいだけなんだ、と。


 頭のどこかで納得した瞬間、思わず少年も笑ってしまった。世間知らず、甘やかされて育ったのが伝わってくる。そんな彼女に救われたというのも癪な気がするが、もういいのだ。


 今後関わる事はないだろうし、くれるというのであれば受け取っておけばいい。けれどもきっと、彼女の笑顔は忘れる事は出来ないのだろうな、と少年は思った。


〈呼び止めてごめんなさい。それじゃあ〉


 そう言い残して、女の子は屋敷へと戻って行ってしまう。

 少年があの女の子のように、お金持ちの元に生まれていたのなら、あの子の誕生日パーティーに招待されたりしたのだろうか。それでなくとも、真正面から、複雑な感情も抱かずに接する事が出来たのだろうか。


 全て妄想、夢の話だ。


 少年はこれまでも、きっとこれからも貧しいまま。盗みと自身の力だけで生きていく事しか知らない。そうして近い内に、誰にも悲しまれずに死んでいくのだ。

 そう思うと少し悲しいものだが、そういう世界で生きてきたのだから珍しい話ではない。これまでも、自分よりも幼い子どもが何人も死んでいくのを見てきた。


 次は自分の番かもしれない。そんな恐怖と隣り合わせだが、ひとまず今日は大丈夫そうだ。少年にとってはいつもと変わらない日だが、少しは特別な日なのかもしれない。そう思う事にして、少年はバスケットを手に仲間の元へと急いだ。






〈遅かったな。収穫はあったか?〉


 現在少年と似たような境遇の子ども達がたむろしている路地裏通り。この辺り一帯の子ども達を纏めるボス的存在でもある濃紺の髪をした目付きの悪い少年は、少年を見付けるなりそう問いかけてきた。


 彼の名前は知らないが、少年は彼の事を“兄貴”と呼んでいる。


〈まぁな。いいもの貰ったぜ〉


〈お前、どうしたんだよこれ……〉


 バスケットの中身を開けて見せると、兄貴は驚いたように目を見開いた。数分前に少年も似たような反応をしたが、それをわざわざ言う事はしない。


〈近くの屋敷でパーティーやっててさ、分けてもらったんだ。色々と運が良かったぜ〉


 あまり詳しく言うと、皆で乗り込もうなんて話になるかもしれない。それは何故か嫌だと感じたので、少年は経緯を端折って説明する。兄貴からすればどうしてそうなったのかも分からないままだっただろうが、詳しく詮索してこようとはしなかった。


〈そうか。俺等もパーティー出来るじゃないか〉


〈だな〉


 バスケットの中に入っていたのは、サンドイッチ五つとフルーツが沢山入ったケーキが三つ。周辺にいる子ども達に分け与えても、充分贅沢と言える量だった。ナイフで小さく切り分けながら、ふと兄貴は疑問を抱いたようだ。


〈……毒とか入ってねぇよな……〉


〈…………〉


 人から恨まれる事をしている自覚はあるので、正直兄貴の不安もありえない話ではない。あの女の子からは好意しか感じなかったが、周りの大人はきっと少年がスラムの子どもだと気付いているはずだ。


〈ま、その時はその時だ〉


〈お、おい!〉


 万が一毒が入っていたとしても、食べられるものを食べないのは勿体ない。少年は切り分けられたばかりのサンドイッチを、躊躇う事なく口に運んだ。兄貴はどこか緊張した面持ちで様子を窺っているが、少年はお構いなしに咀嚼して飲み込む。


〈くっ……〉


〈く……?〉


〈くっっっそうめぇ……!!〉


 今まで、こんなに美味しいものを食べた事はない。口の中にずっと残っているパンの仄かな甘みと、野菜とハムと何かのソースがたまらない。甘さすら感じる塩気があって、かと思えば心地良い酸味が広がって。とても少年の言葉では言い表せない美味しさだった。


 脚をじたばたと動かして経験した事のない味に悶絶していると、兄貴の方も一口食べるのが見えた。


〈マジで美味いな!? 何だこれ!?〉


〈ハンパねぇよなマジで!〉


〈お前やってくれたな! 最高だよ!〉


 やはり反応は似たり寄ったりだ。毒が入っているかも、なんて想像していたことが馬鹿らしく感じるほど、そのサンドイッチは美味しかった。ひとしきり二人で騒いだ後で、他の子ども達にも分けに行こう、と歩き始める。


 思った通り、今日は皆で騒ぐ事となった。こんなにも多幸感に満たされたのは初めてだ。きっと、皆そうだった。


 普段ならば絶対にありえない、〈何かお礼がしたいね〉と意見が出るくらいに。それを口にしたのは、何度か少年とも会話した事がある少女だったが、その意見に賛同する者が大勢いた事は珍しい。


 今日会った女の子ほどではないが、彼女もまた酷いお人好しの部類だ。少年を含めて、そんな少女を心のどこかで憐れんでいたものだが、今日に限ってはそうではなかったらしい。


 少年も、隣にいた兄貴ですらも至極驚いたものだ。とはいえ、その日暮らしが出来るかどうかの少年達に出来る事なんて何もないので、皆で頭を悩ませてもいい案なんて浮かんでこなかったが。


 なので、せめて受け取ったバスケットを返そう、という話になった。ただ返すというのもいただけなかったので、道端に咲いていた花を摘んで、感謝の気持ちが伝わればと願った。


 問題は、どうやって返すか。

 薄汚れた格好の少年が行ったとしても、門前払いされるのは目に見えている。門の前に置いておくにしても、気付いてくれるかは分からない。下手をすると女の子に知られないまま処分されるかもしれない。


 必死に考えてもやはりいい案は浮かんでこない。悪知恵はいくらでも働くが、感謝の気持ちを伝える方法なんて真面目に考えた事もないのだ。我ながら情けない話ではあるが、それが少年達の中の普通である。


 結局、顔を知られている少年が直接返しに行く事となった。門前払いされないように、と少しはマシな服に着替えて(仲間から借りた)。そして少しでも着飾る事が出来ればと、その日仲間の一人が盗んできたイヤリングをつけて。聞くところによれば、温度の変化によって色が変わる代物らしい。あまり興味はないが、きらきらと輝いていて高く売れそうだった。


 バスケットを返したら売りに行こう、なんて話をしてから、少年は一人昼間の屋敷へと向かった。あの女の子にもう一度会えるのかと思うと、少し緊張したが楽しみでならない。

 

 軽い足取りで屋敷の方へ向かうと、昼間よりも沢山の人の姿が見えた。夜なのにとても明るくて、後夜祭でもしているのかと錯覚してしまうほどに。


 近付くたびに、鼻に焦げ付いたような異臭がするので、いよいよ少年は〈何かが可笑しい〉と嫌な予感を抱いた。


 駆け足気味に屋敷へ近付きその光景を目にした瞬間、少年は手にしていたバスケットを落としてしまった。その際に中に入れていた花も散らばってしまうが、少年自身も、周辺にいた野次馬達も気に留める事はない。


 屋敷が、燃えていた。


 赤い、赤い炎が、屋敷を包み込んでいた。少し離れたところにいる少年の方にも、炎の熱が伝わってくる。真っ黒な煙が上がっていて、何かが焼け焦げる嫌な臭いが充満していた。


 昼間見たあの煌びやかな景色は何処へ行ったのやら、最悪の光景が広がっているばかりで、少年は思わず後退ってしまう。


〈そうだ、あの子は!?〉


 炎は屋敷全体を包み込んでいて、出火からかなり時間が経っているように思える。もう避難しただろうか、と辺りを見渡すも、女の子の姿は見当たらなかった。嫌な予感が、一層強くなった気がした。


 たまらず、少年は近くにいた女性に問いかける。


〈おい、屋敷にいた人達は!?〉


〈さ、さぁ……誰も出てきていないそうよ。ここは危ないから離れなさい〉


 誰も出てきていない。


 その言葉を聞いた瞬間、少年の中で何かがはち切れたような気がした。身を案じてくれた女性の制止を振り切って、少年は鉄柵を乗り越えて火の勢いが弱い正門から屋敷の中へと入る。ほぼ衝動的だったが、少年の中にはあの女の子を助けなければ、という意識しか頭になかった。


 屋敷の中は、外観よりもさらに酷い有様だ。正門に入ってすぐに見えるホールには、真っ黒に焦げた何かがたくさん転がっている。否、それが何なのか、少年はすぐに分かってしまった。


 人間だ。逃げ切れず、炎に焼かれた人間だ。


 微かに息があるようだが、少年は思わず目を逸らしてしまう。一人では、燃えている人間をどうする事も出来ない。煙を吸わないように袖口で鼻と口を覆いながら、屋敷の中を走り抜ける。


〈誰か! 誰かいないのか!?〉


 人の気配が感じられない。想像以上に火の回りも早く、少年が通ってきた廊下は崩れかかっている。早くしないと、自分の身も危ない。煙も吸い込んでしまっているし、身体中が熱くて、目で見なくても火傷していると悟った。けれども、少年はどうしてもあの女の子の事が気がかりだった。


 お願いだから無事であってほしい。昼間のお礼を伝えなくてはならないのだ。自分などに優しくしてくれて、笑いかけてくれた彼女を死なせたくない。その一心で、何処にいるかも分からない小さな子どもを探し続ける。


〈…………に、……るわ……〉


 微かにだが、声が聞こえる。

 聞き間違いかもしれない、と錯覚してしまうほどにか細い声だが、少年は声がした方へと躊躇う事なく進んでいた。


 燃え盛る炎の隙間から、その姿をはっきりと目視出来た。赤茶色の髪をした、女の子がいた。生きている、まだ燃えていない。酷く安心感を抱きながら、少年は駆け寄った。


〈大丈夫か!?〉


 問いかけると、こくりと頷きが返ってくる。そして女の子は、真っ直ぐにドアを指さした。


〈中に……ママと、お母様が……〉


 親を助けようとしていたのか、と、少年はドアを勢いよく蹴破った。けたたましい音と同時にドアが開き、瞬間目に映る二つの黒焦げの物体。それがドアの前に塞がっていたらしい、とても小さな女の子の力では動かせないはずだ。


 ここが彼女の両親の部屋だとすると、それらはきっと――


〈お前の親は逃げたみたいだ。早くここから出るぞ〉


 とても、〈お前の親はもう助からない〉とは言えず、誤魔化すようにそう述べるしかなかった。少年の言葉を聞いて酷く安心したのか、女の子は眠るように気絶してしまう。


〈お、おい!〉


 肩を揺さぶって呼びかけるも、反応はない。薄く目は開いているようだが、一刻も早くこの場から脱出しないと、この子が死んでしまう。女の子を抱き上げて、両親の部屋に入り込む。


〈絶対に助けるから、死ぬんじゃねぇぞ!〉


 窓から飛び降りて屋敷から脱出すると、すぐさま地面が近付いてきた。女の子を抱えての着地のせいか、とてつもなく足が痺れているが、我慢して屋敷から距離を取るために駆け出す。


 ざわざわと、女の子を助け出した少年に視線が集まるが、それどころではない。先程少年を制止した女性が慌てて駆け寄ってきて、声を張り上げた。


〈坊や、何て危ない事を! 酷い火傷じゃない!〉


〈それより、この子を助けてやって! お願い、俺の……恩人なんだ〉


 女の子の安否も気になるが、遠くからパトカーか消防車のサイレンの音がしている。警察に顔を知られるのは不都合なので、早くここを離れたい一心もあった。ひやりとした風に吹かれながらも、女性に女の子を預けてその場を離れる。


 今度こそ、あの女の子と会う事はない。けれども、あの女の子を救えたという事実が、何よりのお礼になったのではないかと、少年は勝手に満足していた。




※※※※




〈─――─オ、ジュリオ。大丈夫?〉


 パッ、とジュリオの意識が引き戻される。視線を声の主へと動かすと、心配そうに眉尻を下げながらこちらを見つめているステファーノの顔が映った。


 そうだ、今は仕事中だった。ふと懐かしい事を思い出していてぼんやりしていたようで、手元には中身がこぼれかかったコーヒーのカップがある。慌ててカップをテーブルの上に置いて、何事もなかったかのようにいつも通りの笑みを張り付ける。


〈ぼーっとしてどうしたの? 珍しいわね〉


〈いえ、失礼しました。大丈夫ですよ〉


〈そう、ならいいけれど……パーティーは三日後だから、調子が悪いなら休んでもいいのよ〉


〈お気遣い痛み入ります。しかし、ご心配には及びません。大変失礼しました〉


 ステファーノに心配をかけてしまうとは、柄にもない失態だ。誕生日パーティーも三日後に迫っているし、準備や仕事も山積みなのだから気を引き締めないと。


 ……あれから二十年も経ったのか、とジュリオは一人短く溜息をついた。


 けれども、その一回の溜息で気持ちを切り替える事が出来そうだ。よし、と背筋を伸ばして、手を止めていた仕事を再開したのだった。


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