第七十二話 今度は二人で来ないか
「八緒ちゃんと話をしていたらいつの間にか真上まで来ていて……急降下して……うん、凄かった……」
降りてきた今も心臓がバクバクと音を立てている。動いていた事には気が付いていたが、まさか頂上まで着いているとは思っていなかった。
「思っていたより速度が出るんですね……」
と、一華の隣で胸を抑えている白羽も感想を述べる。サングラスの向こうに見える目は、どこか輝いているように見えた。
「楽しかったっす〜! もう一回乗りたいっすね、お兄さん!」
「お、じゃあもっかい行く?」
「七緒君、当たり前のように僕を道連れにしないで……」
亜閖、七緒、四音はもう一度乗りに行くらしい。亜閖に誘われている白羽も、乗りに行くのだろう。うんうん、と前のめり気味に頷いていた。
しかし一華が何より気になっているのが……、
「五輝大丈夫……?」
「もう嫌……帰る……」
両手で顔を覆いながら、プルプルと身体を震わせている五輝だった。無理矢理乗せた六月も罪悪感を抱いているらしく、五輝の身体を支えながら様子を伺っている。
「五輝君は絶叫系苦手だったんだね」
「やっぱり……あの必死さはそうだと思いましたわ」
そんな彼を嘲笑うかのように、荷物番をしていた二宮と三央が述べる。図星を突かれて頭にきたらしい、五輝はパッと顔を上げて七緒を呼びつけた。
「おい七緒、二回目行くならこの二人も連れて行け。地獄を見せてやる」
「オッケー!! 行こうぜ、お兄様お姉様!」
五輝の私怨には興味ないが、せっかくなので連れていこう、といった気概が伝わってくる。今度は二宮と三央の腕を掴んだ七緒は、「行ってくるー!」と列に並び始めた。
「嘘でしょ一華ちゃん助けて」
「ちょっと! 服が伸びるじゃない!」
助けを求めてきた二宮には「行ってらっしゃい」手を振っておく。七緒が並び始めるのを見た八緒は、
「私も二回目行ってくるねー! 九実君も行く?」
「行きたいです!」
と、九実と一緒に走っていく。九実も楽しそうにしているので一安心だ。彼等の背を見送りつつ、一華はぐったりした様子の五輝の肩に手を置いた。
「じゃあ、私は五輝君と荷物番しているよ」
「えぇ~……一華は行かないの?」
「急降下が駄目だったみたいでな。少し落ち着きたい」
「分かった。五輝の事よろしくね」
最後に六月を見送って、一華は五輝を連れて近くのベンチへ向かう。五輝を座らせて、持参していた水を鞄から取り出して渡してやる。
「はい、五輝君」
「どーも」
水を半分程、一気に飲み干した五輝は、少し落ち着いたのか長めの息を吐き出していた。
「急に誘ってすまなかったな。昼寝する予定だったんだよな」
「別に。六月が『一華がどうしても遊園地に行きたいって言ってた』って触れ回ってたぞ」
(魔法の言葉ってそれだったのか……)
全員参加してくれたのは嬉しいものだが、とんでもない勘違いをされているのではないだろうか。
「ま、嘘だろうけど。九実のためだろ? 楽しそうだし、たまにはいいんじゃねぇの」
「……そうだな。私も、楽しいよ」
提案してくれた六月や、今日予定を聞いてくれた九実に感謝しなくてはならないな、と一華は頬を緩めた。
順番が回ってきたらしい。九実達を乗せたコースターが動き始めているのが、一華と五輝のいるベンチからも見えた。ぼんやりとその様子を見つめていると、五輝が仕切り直すように口火を切る。
「……昨日の夜、二宮に髪切るなって言われてたよな」
「君も起きていたのか。あぁ、言われたよ」
「……俺は、短い方が好きだったぞ」
…………まさか、五輝からそのような事を言われるとは思ってもみなかった。二宮は、自身に好意を寄せていたと知っているので、恥ずかしさはあるものの驚きはしない。
しかし五輝は、そういった事を面と向かっていう人ではなかったと思っていたから。礼を言うのに、少し時間がかかってしまった。
「……そう、だったのか。ありがとう」
その後訪れる沈黙が、かなり気まずい。五輝もそういった意味で言ったわけではないだろうし、ただ短髪の方が似合っていた、という意図である事は明白だ。
早く何か話さねば、と一華は下ろしていた髪を触りながら言った。
「でも……中学の時みたいに短くしたりはしないかな。せっかくの、母さん譲りの綺麗なストレートだから」
「……ま、こっちもいいけど」
やはり、妙に気恥ずかしい。いつもなら賛辞として、照れくさくとも笑って礼を言えるのに、今日は何故か五輝の方を見る事も出来なかった。そして、五輝もこっちを見ようとしない。それがより、雰囲気を作り上げているのかもしれないが。
ふと、五輝は顔を覆って俯いた。
「…………ヤベ、気持ち悪くなってきた」
「だ、大丈夫か?」
「マジで気持ち悪い……」
「そんなにか? どうしよう……確かトイレが近くにあったはずだ。立てるか」
「いい。すぐ治まる」
とてもそんなふうには見えないし、無理矢理にでも連れていくべきか、と五輝の手を取るも、すぐに振り払われてしまう。
「……大丈夫。」
その声色は、どこか苦しそうだったが、何故かそれ以上何も言えなくなってしまった。
「……辛くなったら、いつでも言うんだぞ」
「あぁ」
もうすぐ九実達も戻ってくる。それまでに治まるといいが……、と一華はベンチに座り直した。
九実達が戻ってくる頃には、五輝も回復したように振舞っていた。顔色はいつも通りだし、本当に問題はないらしい。
五輝の時同様、ふらふらになって戻ってきた二宮と三央を落ち着かせてから、次のアトラクションに向かった。
空中ブランコで九実と一緒に景色を楽しんだり、メリーゴーラウンドではSNSにあげるからと六月の写真を撮ったり、コーヒーカップでは七緒にこれでもかという程回されたりと、後半になるにつれハードになっていったが、休憩を挟みながらなのでさほど疲れは感じていない。
昼休憩を挟んでから、再び園内を歩き始める事数分。ふと六月が足を止めた。
「あ、ここ行こうよ」
六月が指さしたのは『かがみのめいろ』と看板の吊るされている迷路だった。その名の通り鏡に囲まれた難易度の高そうなアトラクションだ。
「ペアを組んで、早くゴールした人が勝ちね!」と、ルールを設けた六月。勝負事とあらば負けられないな、と一人意気込んでいる間に、次々とペアが決まっていく。
「絶対迷うから七緒について行くわ」と五輝が言うも「俺八緒と行くから駄目」と拒否されていた。しかし肝心の八緒は「亜閖さん一緒に頑張ろうね!」と昼休憩の時にすっかり仲良くなった亜閖と組んでいる。
「九実君は私と行きましょうか」
「はい!」
「え、じゃあ組んでみる?」
「え……!?」
三央と九実、そして余ったので組んでみる事にしたらしい二宮と四音、と着々とペアが決定していった。
「しゃーなしアタシと五輝と七緒は三人ね。じゃ、出口で待ち合わせって事で!」
スタート! と言う掛け声と共に、六月は五輝と七緒の手を引っ張って迷路の中へと入っていった。他の兄妹達も中へ入っていくのを見つめていると、ふと隣に立ち尽くしていた白羽と目が合った。
「……流れるように決まったな」
「ですね」
私達も行こうか、と言いかけたその時、一華のスマホの着信音が鳴り響いた。かけてきたのは六月だったので、応答ボタンを押してスマホを耳に近付ける。
『あ、一華? アタシ等ここで時間潰していくから、白羽と一緒に別行動してなよ』
応答してすぐに要件を伝えてきた六月。どうやらそのためにこの迷路を選んだらしい。
気遣いは嬉しいが、ペアとして一緒に回る事も出来るのではないか。途中で別行動して心配をかけるかもしれない、と口ごもっていると励ますように六月が笑う。
『大丈夫! アタシ二時間くらい迷う自信あるから!』
「そ、そんなに難易度の高い迷路だったのか……」
『まぁいいじゃん。早く終わったから白羽と回ってた、って事にしてさ。好きなところ行っておいでよ』
ここまで言ってくれて、食い下がるのは野暮というものだろう。一華はそう割り切る事にして、六月の気遣いをありがたく受け取る事にした。
「……ありがとう。そうさせてもらうよ」
『いいっていいって。じゃ、後でね!』
六月との通話を切ると、白羽が「六月さんですか?」と聞いてくる。
「あぁ。……その……二人で、少しの間別行動しないか?」
白羽を見上げてそう誘うと、彼はにこりと口角を上げた。
「はい、ぜひ」
くるりと迷路から背を向けて、適当に歩き出す。すると一華の左手に、そっと白羽の右手が触れた。
「手、繋いでいいですか」
「あ、あぁ」
お互いの指を絡めて、ぎゅっと力が込められる。いわゆる恋人繋ぎをしたのはこれで二回目だが、以前にも増して恥ずかしい。まるで、周りにアピールしているかのようだ。
「恋人になってからこうするのは、初めてですね」
「そっ、そうだな……」
恋人、という言葉を強調して、白羽は言った。挨拶回りの際に万希生に「従者さんだ」と紹介した事を根に持っていたらしい。しかし白羽も同じ事を考えていたのは、純粋に嬉しかった。せっかく六月が気を利かせて作ってくれた時間だ。一華も繋いでいる手にほんの少しだけ力を込めて、距離を縮めた。
「遊園地は初めてと言っていたが、どこか気になる場所はあるか?」
「ジェットコースターは乗ったので……他に気になるのはお化け屋敷と観覧車かな」
「じゃあ、お化け屋敷に行ってみよう」
近くに看板が見えている。攻撃が通じないであろう霊体は苦手だが、作り物だと分かっていれば怖くはない。そういえば一華もお化け屋敷に入るのは文化祭以来だ。
ちゃんとした施設のお化け屋敷がどんなものなのか楽しみだ、と向かったのだが……。
「……閉まってる……」
タイミング悪く、改装中の札がかけられていた。
「改装中じゃ仕方ないですね」
白羽も残念そうに眉尻を下げている。一華同様、楽しみにしていたのだろう。慌てて表情を引き締めて、少し遠くに見えている観覧車を指した。
「観覧車なら乗れるだろう。混んでいるだろうし急ごう」
観覧車は到着した時から動いていた。それに遠目から見ても、人が乗っているのは確認出来ている。待ち時間、乗っている時間を考慮すると、二人きりの時間はこれだけで終わってしまいそうだが、考えている時間こそ無駄だ。
白羽の手を引いて観覧車の下へと向かうと、並んでいる人の列もなかった。ピークである夕方、夜ではないからだろうか。いずれにしても今回は好都合だ、と観覧車に乗り込み、ようやく一息つく事が出来た。
ゆっくりと、微かに揺れながら上っていく。白羽と向かい合うようにして座って、少しずつ小さくなっていく建物を一緒に眺めていると、
「観覧車って、色々な意味でドキドキしますね」
と白羽が口にした。
「そうだな。透けているし、移動も遅い。周りにスナイパーがいないか不安になるな」
「そ、それもあるんですが……」
「すまない。少しからかっただけだよ」
白羽の言いたい事は、流石の一華でも理解している。だからこそ、恥ずかしくてつい誤魔化すような事を言ってしまったのだ。
「私も、かなり緊張している」
正直に伝えると、白羽ははぁ、と短く溜息をこぼす。
「ずるいですよ」
そう呟く白羽の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。普段見られない表情に、一華も釣られて顔に熱が集中するのが分かった。
この後どうすればよいのか分からず、あからさまに視線を外の景色へと逸らしてしまう。逃げるように白羽から視線を外してからも、顔の火照りが治まる事はなかった。
「き、綺麗な景色だな。でも流石に家は見えないか……あはは……」
沈黙に耐えられず、そんな当たり障りのない事しか言えない。我ながら情けない気もするが、色恋沙汰に免疫のない一華にはこれでも精一杯だったのだ。そんな話題にも、白羽は答えてくれる。
「あ、でも一華さんの学校が見えますよ」
「何処だ?」
「あっちの、高いビルの少し右行ったところ」
白羽の指さす先を、目を凝らして見つめてみる。かなり遠いが、それらしき建物が目に入った時、思わず声を弾ませてしまった。だからこそ、気が付かなかったのかもしれない。
「あぁ、あれか! 白羽さんは目がいい、な……」
顔を白羽の方へと向けると、ぱちりと視線が合ってしまう。それも、あと少し近付けば鼻先がぶつかってしまいそうな距離だ。元々ゴンドラ内は狭かったし、向かい合って座ると膝と膝がくっ付いてしまいそうではあった。しかし先程とは違って、何故か視線を逸らす事は出来なかった。
サングラス越しに見える色の違う双眸にまっすぐ捉えられ、心臓が早く脈打ち始める。静かな空間の中で、うるさいくらいに自分の心音が耳の奥で鳴っている。白羽には聞こえていないだろうが、緊張感が高まっている事には気付いているはずだ。
そして窓ガラスについていた手を上から重ねられ、そのまま包まれた。今現在、一華と白羽の乗っているゴンドラは頂上付近にいるとはいえ、周りは透けているし外から見えていてもおかしくはない。
(でも、あと少しで……)
このまま、距離が詰められてしまえば、唇同士が触れ合っても可笑しくはない。緊張と共に期待してしまっている自分がいる事に驚きだが、一華の口から言葉を発する事は出来なかった。
とうとう耐えられなくなって瞼を伏せると、白羽との距離が少し離れた気がした。目を開けると、白羽は外の景色に視線を移していて。
「迷路の前、もう皆出てきてるね。降りたら戻りましょうか」
「そ、そうだな……」
雰囲気は悪くなかったはずだが、まだその時ではなかったらしい。期待していただけに、心の奥底にはモヤモヤとした気持ちが渦巻いていた。
重ねられていた手が放されると、いよいよ先程の甘い空気も引いていくような気がして。それにまだ浸っていたくて、一華は衝動的に離れていく白羽の手を取って、
「白羽さん。今度は、二人で来ないか」
と、誘いの言葉を口にする。
手を握られた事による驚きか、突然の誘いの言葉による驚きか。サングラス越しに白羽が薄く目を見開くのが見えた。
「それは、次のデートのお誘いですか?」
「そうだ」
「今度は、ずっと二人っきりですよね。最初から最後まで」
「あぁ。そのつもりだ」
一華が首を縦に振ると、白羽はほっとしたように口の端を上げる。そのまま、一華が一方的に握っていた手を動かして、指を絡め捕るように握り直した。
「楽しみにしています」
「その時はお化け屋敷も行こうな」
「はい」
そんな約束を取り付けてから、どちらからともなく名残惜しく手を離す。手に残る温もりを感じながら、残り半分もない時間を楽しもうと再び外の景色に視線を移した。
「一華さん、写真撮っていいですか」
不意に、白羽がスマホを片手にそう聞いてきた。そういえば、二人だけで写真を撮るのは初めてではないだろうか。思い出を形に残すのも悪くないな、とすぐに頷く。
「いいぞ。せっかくだから、一緒に撮らないか?」
「はい、是非」
白羽がカメラを起動させている間に、一華は彼の隣に移動する。先程の事もあってやや緊張するが、それよりも幸福感の方が勝っている。
「自撮りも人生初です」
「そうなのか。私は何度か六月ちゃんと一緒に――」
撮った事があるぞ、と言いかけて。頬に柔らかい何かが当たった。否、正確には押し当てられた、というべきだろうか。
――頬にキスされている。
一瞬の出来事だったが、唇が離された今も鮮明に感覚が残っている。呆気に取られて反応出来なかったが、いたずらが成功した子どものように笑みを浮かべる白羽を見て初めて、ぶわっ、と恥ずかしさが込み上げてきた。間違いなく、顔が真っ赤になっているし、表情も締まりがないもののはずだ。
「撮りますよ」
しかし無情にも、白羽はパシャッ、とシャッターを切ってしまう。カメラ目線でもないし、ましてや頬にキスされて驚いている瞬間を残されるのはたまったものではない。
「ちょ、今のはなしだ!」
と、慌てて白羽の手元のスマホを奪って、今し方取られた写真を消そうと操作する。
「可愛いのに」
「かわっ!? と、とにかくダメだ! 表情に締まりがなさすぎる!」
「じゃあもう一枚」
今度は、不意打ちでキスされる事もなかった。二人で画面の中に写って、辺りの景色を背景に撮った写真は、初の自撮りにしては上手く出来ているのではないだろうか。素人の一華から見ても、そう思わせられるような一枚だった。
白羽に撮ったばかりの写真を送ってもらい、観覧車を降りた後は皆が待っているという迷路の前へとまっすぐに向かう。
兄妹達の姿が見えると放してしまったが、帰りもずっと手を繋いでいたのだった。
※※※※
帰りの電車。空いていた席に座った兄妹達は、突然事切れたかのように眠りにつき始めた。たくさん遊び回っていたし疲れたのだろう、と思わず笑みを浮かべてしまう。一華の隣では白羽と亜閖もうとうとしているようだったので、「着いたら起こすよ」と言っておいてやる。
ぽんぽん、と白羽達とは反対側の席に座っている九実の背を優しく摩ってやりながら、移り変わる景色をぼんやりと眺める。数分前まで茜色に染まっていた空も、もう薄暗くなっている。帰る頃には暗くなっているか、と考えながら、今度は眠っている兄妹達に視線を移した。
誰よりも騒いでいた六月や七緒は予想出来たものだが、二宮や三央まで眠っているとは意外だった。抵抗空しくアトラクションに乗せられていたし、疲れは溜まっていたのかもしれないが。
「しかし、皆よく笑っていたな……」
「兄さん達も、なんだかんだ言って楽しんでたね」
独り言のつもりで発した言葉に、返事がきた。どうやら、四音も起きていたらしい。九実を挟んで座っている四音に顔を向けて、問い掛ける。
「四音兄さんは楽しかったか?」
「うん。まさか、皆で一緒に来られるとは思っていなかった」
「また行きたいと思うか?」
「……どうだろう。少し前までとは全然違うから、よく分からないや」
四音が感じているように、一華達兄妹の関係性は以前と比べてかなり変化している。いい方向へ変化していると思いたいものだが、まだ受け入れきれていない部分が、四音にはあるに違いない。
「そうか。私はこれから、こんな日を過ごす事が当たり前に感じられるようになりたいと思っている」
失ってしまった時間は、取り戻せない。それでも、最後ふりかえった時に「楽しかった」「幸せだった」と言えるような時間を作っていきたいと、心の底から願っているのだ。
「遅くなってしまったがな」
「……ううん。とてもいいと思う」
誰かに賛同してもらえると、このまま進んでもいい、と安心出来るような気がする。四音に笑みを向けてから、一華は立ち上がった。
「良かった。さて、そろそろ皆を起こさないと。乗り過ごしてしまう」
「そうだね。九実君は僕が背負って歩くよ」
「疲れたら交代するからな」
「家まで歩くだけなら大丈夫だよ」
そう言ってくれた四音に九実の事は任せて、一華は眠っている皆を起こし始める。
駅で白羽と亜閖と別れて、一華達が屋敷に帰ってきたのは七時を過ぎた頃だった。夕飯を食べてからシャワーを浴び、自室に戻ろうと廊下を歩く。
兄妹達もそれぞれ自分たちの時間を過ごしているのだろう、屋敷内はかなり静かだった。
部屋に戻る前に少しだけ風に当たろうか、と一華は縁側に腰掛け溜息をつく。そこでようやく、身体の力が抜けたような気がした。そしてふと、白羽と観覧車に乗った時の事が鮮明によみがえってきた。
(頬……初めて、キスされ……)
心のどこかで期待していた事だが、まさか現実に起こるなんて。観覧車に乗っていた時の熱が戻って来たようだ、と縋るように頬に手を伸ばした瞬間――
「お姉様!」
と呼び掛けられて、一華はばっと手を離した。
「わっ、九実君!? 起きていたんだな」
一華を呼び掛けたのは、帰りに眠ってしまい、夕飯の時も起きてこなかった九実だった。
「はい。帰り道背負ってくれていたと聞いたので、四音お兄様にお礼を言ってきたんです。気が付いたら部屋で寝ていたので驚きました……」
「起こそうか迷ったんだが、疲れているようだったから」
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。それで……あの……わがままを言ってしまってもいいですか……?」
「どんなわがままだ?」
「また、皆でどこか遊びに行きたいです」
わがまま、と言われて少し身構えてしまったが、思っていた以上に可愛いわがままだった。思わず笑ってしまいそうになるのを堪えて、一華は頷く。
「勿論。色々なところに行こうな」
「ありがとうございます!」
一華の返答がよっぽど嬉しかったのか、九実はぱぁっ、と顔を明るくさせた。なんとも可愛い笑顔だ。堪えていた笑みが、九実に釣られたようにこぼれてしまう。
「それでは、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
九実の声色は弾んでいた。自分の部屋に戻っていく小さな背中を見送ると、またもや静かな雰囲気に包まれる。そして今度こそ、白羽にキスされた頬に手を当てた。
「…………」
気を抜くと、にやけてしまいそうだ。膝を抱えるように座り直して、誰にも見られないように顔を伏せてから、存分に顔の筋肉を弛ませる。
「……えへへ……」
そんな締まりのない笑みが、口からこぼれたのだった。




