第七十話 反抗期はとっくに終わってるよ……
「ではでは改めて……」
「継承戦&即位式&仕事&課題&その他諸々~」
「お疲れ様でしたー!!」
「「「かんぱーい!!」」」
「「「……………………」」」
六月、七緒、八緒が乾杯の合図をしたので、一華はとりあえずジュースの注がれたグラスを持ち上げた。
突如、六月達に呼び出され、出前をとったのかテーブル一面に寿司が用意されている居間の、真ん中の席に座らされたのだ。
一体何事だろうか、と混乱が残っているのは一華だけではないらしく、同様にグラスを掲げたまま固まっている三央が呟いた。
「何、この会」
「何って今言ったじゃん。多忙を極めてた自分達を労う会だよ」
継承戦から今日まで、一華自身、一日の休みもなかったのは事実だ。明日、明後日の休日が終わればまた仕事に追われ、さらには学業にも励まなくてはならないという地獄のような日々が待っている。
しかし、地獄のような日々が待っているのは一華だけではない。社会人の二宮、三央も今日まで忙しくしていたらしく、目の下にはくっきりと濃いくまが出来ている。
提出物に追われていた、という四音達も、どこかやつれた様子でこの場に座っていた。
……疲れているはずのに、六月達は元気そうだ。
「皆明日も休みだし、今日はいっぱい騒ぐぞー!!」
本当は、疲れなんて感じていないのではないだろうか。それとも、疲れすぎてハイテンションになっているだけなのだろうか。
盛り上がる六月達をよそに、二宮は目頭を抑えて溜息をつく。
「徹夜明けにこのテンションキツい……」
「いっそ吹っ切れた方が楽なのかしら……」
「疲れているなら、部屋で休んでいてもいいと思うぞ」
二宮と三央は、今すぐにでも睡眠をとった方がいいような気がする。せっかく企画してくれた六月達には申し訳ないが、疲れを溜め込んでしまうのもよくない。
二人を気遣ってそう言ったのだが、二宮は
「いや……せっかくの場だし、ここにいるよ」
と、この場にいる事を選んだ。三央も二宮と同じ心情だったのか、無言で頷いている。いっそ、吹っ切れる方を選んだのかもしれない。
「そうか。兄さんがいてくれると、私も嬉しいよ」
とはいえ、兄妹全員が一堂に会するのは数年振りだ。二宮達もこの場にいてくれる事に、一華は純粋に喜んでしまっていた。二宮達は、それを察していたのかもしれない。
「そういえば、白羽君は呼んでないの?」
用意されていた日本酒を新しく注ぎながら、二宮はふいに疑問を口にした。彼の疑問に答えたのは、七緒だった。
「俺から誘ってみたんだけどさ……『せっかくの家族水入らずなんですから』って断られちまった」
「白羽さんも、今日は久し振りに家族と過ごすと言っていたよ。ずっと仕事に付き合わせてしまっていたし、彼にもゆっくり休んでもらわないと」
少し寂しい気もするが、白羽にも白羽の時間があるのだから仕方ない。そういえば、継承戦の間白羽の家にお邪魔していたが、彼の両親と会う事は一度もなかった。白羽の父は、一華の両親である零、数予の護衛を担当していたので、何度か顔を合わせた事はある。しかし、何故か会話をする機会は少なかった。
各条家は本条家に忠誠を誓った存在だ、と白羽は言っていたが、思い返せば一華は彼等の事をよく知らない。正確に言えば、何人か知っている者はいるのだが、心底苦手でしょうに合わない者が多いという印象だ。だからこそ、各条家が本条家当主の腹心であるという事実には驚いたものだ。
継承戦が始まる前は、本条家の屋敷に住み込みで働いている三条家当主の鈴や、仕事の加減で頻繁に屋敷内を出入りする泉以外、ほとんど会う事もなかったが、それは一華が当主になってからも同じだった。
護衛の白羽や送迎を担当してくれる昭寿はさておき、泉と鈴、そして先日氷利に会ったくらいで、他の各条家の者からは挨拶すらない状態だ。泉に聞いてみたところ、上手い事話を逸らされてしまったので、本当に信頼出来る者達なのだろうか、と微かに不信感を抱いていた。
とはいえ白羽の事は信じているし、彼の父親とも幼い頃から顔見知りではある。少しずつでも歩み寄れたらいいな、とこの場では片付ける事にして、一華は何から食べようか、と寿司を吟味し始める。
「にしても何か不思議な感じ。七緒と八緒がここにいる事もだけど、前よりも居心地いいな」
ふと、六月が静かに言った。これまでのテンションから一転して、しみじみと口にした六月に視線が集まり、気恥ずかしくなったのか彼女は手を振りながら、
「隠し事なくなってスッキリしたからかな」
と誤魔化すように笑う。それに同調するように、これまで無言で寿司を口に運んでいた五輝が言った。
「継承戦のおかげ、って言い方すると嫌だがな。六月に同意」
「五輝と意見が合うなんて珍しいー! もしかして今のデレってやつ?」
「違ぇし」
五輝がデレる場面などかなり貴重だ。それも、六月の前でしか発動されない。
五輝もテンションが昂っているのか、と指摘すると怒られるので心の中で呟き、一華は好物の鯖寿司を取り分ける。
「でもさぁ……三央と四音の距離、おかしくね?」
「「えっ……」」
七緒の指摘を受けて、三央と四音が硬直した。とても気まずそうに、両者顔を引き攣らせて視線を逸らしている。
「たしかに、前までは三央お姉様と四音お兄様は隣に座っていたのに……」
九実が言った通り、継承戦が始まって一週間程経つ頃まで、三央と四音は必ず隣に座っていたのだ。十年近く、ずっと隣に座っていた二人が、離れた席に座っているのは見ていて新鮮である。
事情を聞いた一華、そして目撃した六月や八緒は「まぁ、そうだろうなぁ」と察しているところもあったのだが、事情を知らない九実は
「まさか、喧嘩を……」
と顔面蒼白にして二人の仲を案じている。
末っ子にこれ以上心配をかけたくない、と四音は慌てて訂正しようと顔を上げた。
「ち、違うよ九実君! 僕と姉さんは喧嘩したんじゃなくて……えっと……」
「四音は姉離れしたのよ」
言葉に詰まった四音に代わって、三央がそう誤魔化す。実際姉離れしたのかはともかく、九実が「姉離れ……ですか……」と不思議そうに目を瞬いているのを見る限り、何とか誤魔化せたらしい。
一華としては、もう少しマシな理由はなかったのか……、と言いたかったのだが。そんなツッコミも口には出さない。
何も知らない七緒は、
「反抗期ってやつ?」
と、からかうように四音の腕を小突く。
「反抗期はとっくに終わってるよ……」
「そういえば、五輝君や六月ちゃんには分かりやすく反抗期があったけど、一華ちゃんに反抗期ってあったの?」
ふと、話題がこちらに戻ってきた。二宮の純粋な疑問に、八緒も同調する。
「私もお姉ちゃんの反抗期エピソード聞きたいな!」
「エピソードと言われても……」
きらきら、と(特に下の子達から)期待の眼差しを向けられ、一華は思わずたじろいでしまう。何かエピソードはあっただろうか、と顎に手を当てて考える事数秒。ぱっと頭に思い浮かんだ事が、一つだけあった。
「……髪を、伸ばした事かな……」
「それのどこが反抗期なの?」
「端的に言えば、短い方が似合うと言われていたんだよ。それが気に食わなくて、頑張って伸ばした……それだけだよ」
それだけではないが、この和やかなムードで語っても面白くない話だ。ゆえに、一華は笑い話であるかのように語って聞かせた。
「何か可愛いかも〜」
「…………」
笑みを浮かべて一華の反抗期を想像しているであろう八緒と、事情を知っているからこそ何も言わない二宮。
二宮に「何も言わないでくれ」と視線を送ってから、一華は食事を再開する。
「姉貴にもやっぱそういう時期ってあったんだなー。九実にも来るんかな、反抗期」
「ど、どうでしょう……」
「『六月お姉様嫌い』だけは言わないでね! わりとマジで!」
「そ、そんな事は絶対言わないです!」
九実の反抗期は、まったく想像がつかない。成長すれば人は変わるし、礼儀正しくしっかり者の九実でも、何かしらの変化が生まれるのだろう。
出来る事なら、大きな変化はない方がありがたいのだが。
とはいえ、先の話は見越す事は出来ても知る事は出来ない。九実の反抗期は楽しみに取っておくとして、また次の話題に花を咲かせるのだった。
※※※※
数時間後。
「まったく。皆して雑魚寝とは……」
先程まで飲み食いをしていた居間で、一華を除く全員が座布団を枕にして眠ってしまっていた。一華がもぐもぐと寿司を頬張っている間に、九実、五輝、六月、と眠っていき、最終的に酒を煽っていた二宮と三央が撃沈した事により、気が付くと居間には兄妹達の静かな寝息しか聞こえてこなくなっていて。
夜中の二時を回っているし、皆疲れて眠るだろうな、とも思っていたが、先程までの騒々しさが少しだけ恋しく感じられた。
残っていた寿司を堪能し、少しでも広く眠れるように、と寿司の入っていた容器や使っていた食器の類を台所まで持っていく。もちろん、落とさないように、割らないように細心の注意を払って。
「よし、食器を割らなくて本当に良かった……本当に……」
もともとの前科に加え、先日も神美をあわや病院送りにするところだった。台所への出禁を言い渡されたとはいえ、食器をシンクにつけておくだけならセーフのはずだ。そう自分に言い聞かせながらテーブルの上を拭き、廊下に運び出す。
夜中の二時を回っているというのに、目が冴えていて眠れそうになかった。もう少しだけ起きていようか、と縁側に座って、ぼんやりと庭の景色を眺める。
さぁっ、と静かに風が吹き抜けていき、一華の長い髪を揺らしていく。流石に肌寒いな、と腕を擦りながら、短く溜息をついた。
「……髪、切ろうかな……」
もう、髪を伸ばす理由もない。手入れも面倒になってきたし、もう咎める人もいないのだから。
※※※※
それは中学一年生の、とある冬の日だった。長い黒紅色の髪に刃が入れられるたび、はらはらと床に落ちていく。
一華にとっては乳母のような存在である三条鈴は、慣れた手つきで一華の髪を切っている。それもそのはず、鈴は何年も一華の散髪をしてくれているのだから。
最近は剣の鍛錬に集中しており、その際に髪が邪魔だと感じるようになった。ならばいっそ、邪魔にならないように切ってしまえばいいじゃないか、と鈴に頼んで短くしてもらっているところだ。
うなじの辺りまで切り、軽く梳いてもらうと、いよいよ頭が軽くなったように感じる。鋏を置いて鏡を渡してくれたので、一華はわくわくしながら鏡を見つめた。
肩甲骨の辺りまで伸びていた髪が、綺麗さっぱり切られている。頭を振ってみても、軽く揺れるだけで邪魔にもならない。
ボーイッシュなショートヘアーは、驚くほど馴染んでいるように見えた。期待以上の仕上がりに、一華は喜びを隠せずに笑みを浮かべてしまう。
「よくお似合いですよ、一華様」
「本当か? 確かに、こっちの方が楽でいいな」
巻かれていたクロスを外して、一華は立ち上がる。新しい自分になれた気がして、気分が昂る一方だ。
「切ってくれてありがとう、三条さん。母さんのお見舞いに行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
すでに母の元へ行く準備は済ませてある。傍に置いていた鞄を手にして、一華は母が入院している音城大学病院に向かって駆け出した。
(似合うって言ってくれるかな。それとも、短すぎじゃないか、って言われるかな。こんなに短くしたのは初めてだし、早く見せたいな)
反応が読めないが、母ならきっと「可愛い。よく似合っているわ」と言ってくれるだろう。そんな期待をしながら、弾みそうになる足取りで駆けていく。
周りから見れば、さぞ機嫌のいいように思われているだろう。実際その通り、とても気分がいいのだから、周りの目も気にならなかった。
病院に到着してからも、一華の足取りは軽いままだった。スキップしたい気持ちをぐっと堪えて、母の病室の前に到着する。
手櫛で髪を整えて、一華は病室の扉を開けた。
「母さん、お見舞いに来たよ」
「…………」
白いベッドの上で身体を起こして、母はお茶を飲んでいた。一華の声に反応して顔を上げた瞬間、どこか濁っていた緑の瞳に光が戻っていく。
「……あぁ……嘘……」
「驚いたかな? 三条さんに切ってもらったんだ」
顔の綻びが抑えられない。母の反応が楽しみで短くなった髪をいじりながら、そわそわと様子を伺う。
しかし、母の反応は思っていたものとは少し違った。最初は髪が短くなった一華に驚いているのかと思っていたが、母の表情は驚いている、というより感嘆しているようで。
「母さん?」
そう呼びかけると、母はコップを置いてベッドから降りる。そして──
「零さん……!」
と、亡き父の名を呼びながら一華に抱き着いた。
「――――」
父は、一華が五歳の時に亡くなっている。しかし父の事は断片的に覚えているし、写真も何度も見た事があった。
一華と同じ、黒紅色の髪に黄金の瞳をしていた。
親子なのだから遺伝するのは当たり前だし、似ていると言われても不快ではない。しかし母の反応は、まるで一華を父と錯覚しているようではないか。
「母さん……何を言って……」
「あぁ、零さん……会いたかったわ。ずっとずっと、待っていたのよ」
母は精神を病んでしまっているが、今まで一華を父と同一視した事はなかった。髪を短くしただけで父のような喋り方をしているわけでも、服装を寄せているわけでもない。
それなのに、母は一華の事を父だと思い込んでいるのだ。
「来てくれて嬉しい」
「………………………………」
違うと、分かっている。
しかしどうしても、一華は思い込んでしまいそうになる。
母は自分よりも父を求めていて。自分よりも父が見舞いに来た方が嬉しいのだと。
父はもうこの世にはいないし、母の元へ見舞いにくるなどありえない事だ。だが、母の反応を見ると、まるで自分は求められていないかのように感じてしまう。
(……違う。父さんじゃないよ。父さんはもう死んだじゃないか)
間違いを訂正するべきだろうか。
けれども、それをすると、また発狂するのではないか。
黙っているべきなのだろうか。
何も言わず、むしろ父のふりをして抱き締めるなりした方がいいのだろうか。
その方が、母も落ち着くだろうし、落ち着いてくれるだろう。母のためを思えば安いものじゃないか、と一華は母の背に腕を回そうとして、留まった。
(私は……)
――母さんの娘だ。
口に出かかった言葉をぐっと飲み込む。歯を食いしばって、吐き出したい言葉を無かった事に。
それでも、母を抱き締める事は出来なかった。
だらん、と腕の力が抜けて。しばらく母に抱き締められたまま、一華はその場に立ち尽くしていた。
病院に向かっていた時の軽い足取りはどこへ行ったのやら。一華は重い足取りで、ふらふらと屋敷まで帰ってきた。
「ただいま」を言う気にもなれず、玄関で呆然としていると、扉が開いた音に気付いたのか、廊下の奥から鈴と二宮の姿が見えた。
「おかえりなさいませ、一華様」
「おかえり。髪切ったんだ。似合ってるよ、可愛いね」
一華の髪に気付いた二宮が、にこやかに褒め言葉を口にする。
一華が、母に言ってほしかった言葉を。
とうとう、我慢出来なくなった。まるで、自分は必要とされていなかったみたいで、胸が締め付けられるような感覚がしている。
もちろん、最愛の人を亡くした母の気持ちも理解しているし、母を悪者のように感じる自分の方が我儘でどうしようもないのかもしれない。
それでも、一華が寂しいと、苦しいと感じている事は事実なのだ。
顔を俯かせて、ぐしゃっ、と短くなった髪を掴む。
「………………なんか……髪なんか、切らなきゃよかった……」
二宮と鈴はその後、何があったのか話を聞いてくれたし、しばらく母の元へも行かなかったので、一華の精神状態はすぐに回復した。
しかし以降、一華は髪を切らなくなった。短くすると、また母の元へ行けなくなるような気がしたから。
※※※※
思い返せば、自分は子どもだったのかもしれない。五年程前の事だが、当時はかなりショックを受けたのでよく覚えている。
あの出来事が起こってからしばらくは、「二度と短くしない」と決意していたが、今となってはどうでもいいと感じてしまう。
腰の辺りまで伸びた髪をいじりながら、一華は溜息をこぼした。
「一華様」
ふと、声が掛けられる。もう屋敷に住み込みで働いている使用人の者達も寝ているだろう、と思っていたので驚いた。
一華に声をかけたのは鈴だった。使用人が着ている樺茶色の着物のままでいるのを見る限り、まだ仕事をしていたらしい。
「三条さんも起きていたのか」
「はい。風呂場の掃除を少々。こちらは片付けて下さったのですね。呼んで頂ければ片しましたのに」
「もう夜も遅いし、私が起きていたからやっただけだよ。しょ、食器は割ってないからな」
「分かっていますよ」
くすくす、と小さく笑いながら、鈴は一華の隣に腰に腰を下ろした。そして、今し方一華が悩んでいた話題を口にする。
「髪、切られるのですか?」
「聞いていたのか」
「……実は、先程のお話も少しだけ聞こえてしまったんです」
飲み物を頻繁に運んでくれていたのは、鈴だった。その際に話を聞いてしまっただけだろうに、彼女はバツが悪そうに眉尻を下げている。
「三条さんは知っているだろうし、そう暗い顔をしないでくれ。それに、もうあの事は気にしていないよ」
本当はそうでもないが、実際大きな傷ではない。一華にとっては、母ともう会えない事の方が辛いのだから。当時はこれ以上ない寂しさを感じたものだが、母がこの世を去った今となっては些細な事のように思えてしまう。
「でも……そうだな。本当は、母さんに私を見てほしかったんだろうな」
正直に言うと、一華は後悔していた。
あの時、母の背に腕を回していれば。父のふりをしておけば、母は好調に回復したのではないだろうか。
かもしれない、ばかりだが、自身の行動が幼稚だったと実感させられているようで。思わず、鈴にこぼしてしまった。
「すまないな、もう終わった話をして。これが深夜のノリというやつなのだろうか……ははっ」
乾いた笑みを漏らしながら、一華はこぼしたばかりの本音を誤魔化す。しかし生まれる前から一華を知っている鈴には、誤魔化す事は出来なかったようだ。
苦笑いを浮かべる一華をまっすぐに見据えて、彼女もまた本音を口にする。
「……当時、私は数予様に対して、何故この方に仕えなくてはならないのか、と疑問を抱いておりました」
父がこの世を去って、母が当主の座についた頃。誰も、それを喜ぶ者はいなかったと聞いている。
それは、本条家当主に仕える彼女も同様だったのだろう。父と婚約するまで表の世界で生きてきた母に、当主の役割を果たせるとは一華でも思わない。
当事者であった彼女は、さぞ複雑な心境だったに違いない。
「ですが……数予様は確かに、一華様を愛しておられました。貴女を産み、育てたのは紛れもなく数予様です」
「……知っているよ。だからこそ、切ろうか悩んでいた」
それは、一華へのフォローもあったのかもしれない。
けれども、一華はもう知っているのだ。大金を叩き、あらゆる根回しをし尽くして、一華を守ろうとした事を。
完全に癒える事はなくても、愛されていたと知っているから、もう引きずる必要もないと思えるのだ。
「そろそろ寝ます。三条さん、おやすみなさい」
「はい。おやすみなさいませ」
鈴に挨拶をして、一華は居間に向かった。兄妹全員が横になっていても、まだ一華が寝るスペースがある。
(皆ここで寝ているし……私もここで雑魚寝してしまおうか)
いつもは一人部屋で、誰かと寝る事もなかった。川の字で寝る、とは違うが、人がいる空間で眠ってみるのも夢だったのだ。
座布団を折り畳んで枕を作って、用意してあったブランケットで寒さを凌ぐ。
髪を解こうと頭に手を伸ばした瞬間、
「……一華ちゃん」
「ぅおっ!? 二宮兄さん、起きていたのか……」
「さっき目が覚めた」
二宮は身体を起こさずに、視線だけをこちらに向けていた。片付けか、一華が部屋に入ってきた音で目が覚めてしまったのだろうか。そう考えると少し申し訳ないのだが、二宮は要件だけを口にする。
「……髪、切らないで」
「え……?」
なんと、二宮も話を聞いていたらしい。こうも周りに聞かれているのなると、呟く事も気を付けた方がいいように思える。何より、何でもない独り言を拾われるのは恥ずかしくもあるのだ。
「そっちの方が似合ってるよ。短い方も可愛かったけど」
「…………」
二宮は、一華の事をいつも褒めてくれる。あの時も、欲しい言葉をそのままくれたのは二宮だった。
告白の時もそうだが、まるでエスパーのように一華の欲しい言葉をくれるのだ。
「髪が長い方が、一華ちゃん、って感じがする」
「……考えておくよ」
「うん。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
そんな会話を終えて、一華は今度こそ髪を解く。と持ち上げられていた髪が、サラッと重力に従って広がった。
一華は改めて、髪を持ち上げ、じっとそれを見つめる。
(色は父さん譲りだが、癖のなさは母さん譲りなんだよな……)
本条家当主となる者は、代々艶やかな黒紅色の髪と黄金の瞳をしていたらしい。あまり気にした事はなかったが、一華にもしっかり遺伝されているようだ。
しかし、櫛の通りやすいまっすぐなところは、母にそっくりだと思わせられる。
それだけでも、自分は零と数予の娘なのだと実感させられた。
(このままでいいか……)
ぱたり、と倒れるように畳の上に寝転んで、一華は一人口角を上げる。そのまま目を閉じて数分後には、穏やかな寝息を立てていたのだった。




