第六十一話 我儘を仰るのもいい加減になさい!
涼しい夜風が、神美の長い髪を揺らしていく。点々と輝く星空を見上げながら、神美は母の口癖のような言葉を思い出していた。
〈神美、お父さんが好きなのはいいけれど、あまり公の場で抱き着いたりするのはよくありませんよ〉
〈むぅ〉
自分は父の事が好きだから抱き着いているだけなのに、どうして注意されなくてはならないのだろうか。そんな不満を表すかのように、ぷくっ、と頬を膨らませる。見かねた梓豪が、
〈まぁまぁ美朱さん。我も嬉しいので〉
というフォローを入れてくれる。美朱は呆れたように肩を竦めながら〈そういう事ではなくてですね……〉とぼやいている。
〈いいと思いますよ。我は親に甘える事とか出来なかったし、神美には存分に甘えさせてやりたいと思っているんです〉
梓豪の両親、つまりは神美の祖父母にあたる人は、梓豪が十歳になる前にこの世を去ったという。だからこそ、梓豪は神美の事を強く叱る事もしないのだろう。
〈それに、いつ反抗期がやってくるか分かりませんからね〉
〈その様子じゃあ、大丈夫だと思いますけれどね〉
〈人間、何がキッカケで変わるか分かりませんからね。明日には、もう抱き着いてくれねぇかもしれないと思うと……うっ〉
〈分かりましたから……!〉
最終的には、父に強く出られない母も丸め込まれて話し合いは終結する。だからこそ、神美の従者であり護衛であり教育係の依然が、強めに叱責してくるのだろう。
〈お嬢! 先程の御方は、親父殿の御友人であらせられます。何故御返答なさらなかったのですか!?〉
先程、長年の付き合いのある梓豪とファリドが、ホテルの廊下で会話していた時の事。ファリドから「神美ちゃんはいつもお父さんの付き添いにきていて偉いな」と、話し掛けられたのだが、咄嗟に梓豪の後ろに隠れてしまったのだ。
というのも、どう返答すれば良かったのか分からず、更には父より背の高いファリドの圧に負けてしまった。
依然が怒る気持ちも分かるが、神美にも神美なりの理由がある。しかし「ファリドがちょっと怖かった」と言うと更に怒られる気がしたので、
〈喋るの、苦手〉
と、言うしかなかった。
〈だとしてもです。お嬢、本当は外国語をお話出来るでしょう? 苦手だからと逃げていてばかりでは、立派な当主様になれませんよ〉
依然に嘘も誤魔化しも効かないのは百も承知だ。それに、いずれは李家当主の座につく時がくる。当主になってしまえば、庇ってくれる人も、我儘を受け入れてくれる人もいなくなってしまうのだろう。それを理解しているからこそ、今だけでも逃げていたかった。
唇を結んで無言を貫いていると、傍らから梓豪の窘めるような声が聞こえてきた。
〈依然もそう目尻を吊り上げるなって。ファリドも怒ってなかっただろう〉
〈親父殿は甘いです! お嬢が可愛いのも分かりますが、いつまでもそうでは困ります!〉
神美に説教をするのと同じ調子で、李家当主である父に物申せるのは、藩家の中でも依然だけではなかろうか。しかし、神美の事で父まで怒られるのは納得がいかなかった。
〈……怒っているの、依然だけ〉
むん、と唇を尖らせてそう言うと、依然は呆れたように溜息を零す。
〈あのですね、吾だって怒りたくて怒っているのではないんですよ〉
〈なら怒らなくていい〉
〈話を最後まで聞きなさいな! 紋身の件もそうですが、何をそう避けていらっしゃるのです? これは李家の当主になられるお方のしきたりですし、親父殿もされてきた事です〉
〈今は嫌なだけ〉
〈そう言ってもう三年経っているのですよ!!〉
確かに、もうその位は経っているかもしれない。逆に言ってしまえば、それだけの期間、神美はずっと思い悩んでいた事になるのだが、もう少しすれば落ち着くのではないだろうかと思っている。それは梓豪も同じらしく、ヒートアップしていく依然を再度窘めようと試みる。
〈あまり声を荒げるなよ依然。喉痛めるぞ〉
〈いいえ、今回は喉を傷めてでもはっきり言わせて頂きますよ。お嬢、我儘を仰るのもいい加減になさい!〉
〈むっ〉
父の制止を振り切って、依然ははっきりと口にした。神美が我儘を言っている事は重々承知していたが、人に指摘されると無性に腹が立った。神美はむむむっ、と頬を膨らませて、依然を睨み付けてやる。
〈ふん、依然の意地悪、鬼、馬鹿〉
〈はぁぁぁあああ!?!?〉
〈べーっ〉
最後には舌を出して挑発してから、スマホだけを手にして部屋を後にする。流石に部屋を出て行くとは思っていなかったのか、梓豪が慌てて後を追いかけてきた。
〈おい神美、何処に行くんだ!?〉
〈散歩。一人で〉
今は依然と顔を合わせたくない。これ以上一緒にいたら、より酷い言葉を彼にぶつけてしまうかもしれない。梓豪もそれを察してか、
〈……何かあったら連絡しろよ〉
とだけ言って、見送ってくれた。こくりと頷いて、神美は父から背を向ける。
〈ちょっとお嬢!! 親父殿、何故承諾したんですか!?〉
後ろから、依然の怒りの声が聞こえてきたが、神美は無視してエレベーターに乗り込んだ。その後、ふらふらと宛もなく繁華街を歩いていた所を三央に話し掛けられ、本条家に転がり込む事になったのだった。
ぼんやりと時間が過ぎていく。時々風が吹いて、庭の木や草花を揺らして音を立てる程度の、本当に静かな時間だ。考え事をするには、丁度いい環境にも思える。
しかし結論はいつまで経っても出せないまま、従者への不満だけが募っていく。
(依然が、怒るから……分かってる事言われると、むっとなる……反抗期?)
自覚はあまりないが、傍から見るとそんな年頃なのかもしれない。少なくとも、十六の少女にあれこれ求め過ぎなのではと思ってしまう。とはいえ、自分より年下の国主もいるのだから、それはやはり神美の我儘に過ぎないのかもしれない。
やはり、李家当主としての責務を受け入れなくてはならないのだろうか。やるせない溜息をついて、神美は支柱にもたれ掛かる。
と、ポケットに入れていたスマホの通知音が鳴り響いた。渋々取り出して画面を確認すると、父の名前が表示されていた。依然じゃないならいいか、と電話に応答する。
〈パパ?〉
《おう。頭は冷えたか?》
〈……余計に分からなくなった。パパ、我って反抗期?〉
《はははっ。依然に対して反抗期だろうよ。ま、年頃なら相応じゃねぇか。何もなくても腹が立っちまうんだろう? じきに治まるもんだから、気にしなくてもいいんだよ》
〈……分かった〉
まだ大丈夫、と言われているようで安心するものの、同時にまた問題を引き延ばしてしまったと責められているような気分に陥る。神美の表情は、分かりやすい程に落ち込んでいるのだが、電話越しで声しか伝わっていない父は、神美の複雑な心境に気が付いていないのだろう。
《今何処にいる? 迎えに行ってやるよ》
特に話題を深堀りしてくる事もなく、そう要件を告げた。本音を言えばもう少し離れていたかったのだが、急に来た上に泊めてもらうのも忍びない。我慢してホテルに戻るしかあるまい、と神美は居場所を伝える。
〈本条家〉
《お、おぉ……何故?》
〈拾ってもらった〉
《そ、そうか》
父が困惑するのも仕方ない。散歩すると言っていたのに、最終的に行きついた場所が本条家だというのだから。
〈ラーメン、食べさせてもらった〉
日本のラーメンを食べたのは初めてだったのだが、故郷のものとはまた違った美味しさがあった。(初めて食べたのが一華のお手製ラーメンでなくて良かった……、と内心ひどく安心していたのは内緒である)
《そうか。そういえば、我も食わしてもらった事あったな》
〈そうなの?〉
《おう。何度か話しているから、知っているだろう。零って覚えているか?》
零。父の口から何度か聞かされた名前だ。
一華の父で、先々代本条家当主。彼が当主だった頃も梓豪が五大権の座に就いており、交流もあったらしい。とはいえ神美が知る限り、本条零という男にあまりいい印象を抱いていないのが本音だ。
《アイツが、ラーメンを食わしてやる、なんて言いやがって。不安になって台所見に行ったら、火は強火、即席ラーメンの麺は粉砕してる、卵は握り潰してで、最悪だったぜ》
(全く同じ……)
そんな所まで遺伝してしまっていたのか、と恐ろしく感じる。そして、梓豪も不安を抱いて台所までついて行ったのか、と自分と同じ経緯にびっくりしてしまった。
《見かねたもんで、出前ラーメンとってもらったんだよ。イメージとちょっと違った気もするが、あれはあれで美味かったな》
〈……うん、美味しかった〉
《ははっ、こうも同じだと笑っちまうな。それじゃあ、もう少し待ってろ》
〈うん〉
通話を切って、神美はスマホをポケットに仕舞う。一華は、父である零も料理が苦手だった事を知っているのだろうか。あまり覚えていないと言っていただけに、気になって仕方がなかった。
父が迎えに来てくれる事も伝えなくてはならないし、一華を探そうと立ち上がった瞬間の事。廊下の奥の方から、一華の姿が見えた。
「今の電話、梓豪さんか?」
タイミングを見計らっていたらしい。それならば話は早い、と神美は頷いた。
「うん。迎えに来てくれるって」
「そうか。梓豪さんは神美さんが大切なんだな。……少し羨ましいよ」
「どうして?」
「神美さん達を見ていると、私もあんな風に父さんと母さんに抱き着きたかったな、って思ってしまうんだ」
一華にもそういった感情があった事には少し驚きだ。凛々しい出で立ちもさる事ながら、人々を先導する立場となった彼女も、神美とそう変わらない感情を抱く少女なのだろう。
しかし一華にはもう、抱き着ける両親がいない。心のどこかでは、甘えられる人がいる神美を疎ましく思っているのだろうか。どう声をかけるべきなのか迷った挙句、
「一華には、兄妹がいる。兄妹に抱き着けばいい」
と、そんな事しか口に出来なかった。
逆に言ってしまえば神美には兄妹がいないので、一華が羨ましくもあるのだが。
神美の言葉に、一華は薄く目を見開く。まるで、「その手があったか」とでも言わんばかりに。
「……それもそうか。明日からそうしてみるよ」
神美が掛けた言葉は、一華の中にすとんと落ちたらしい。先程見せた暗い影は、もう見受けられなかった。
縁側に並んで腰かけて、神美と一華は話を続ける。梓豪が本条家に到着するまで、まだ時間はあるだろう。荷物も持っていない神美は待つだけなので、必然的に一華と会話する以外にやる事はないのだ。
「でも、さっき話を聞いていて思ったよ。梓豪さんも美朱さんも、依然さんも……皆、神美さんの事が大切で仕方ないんだと思う」
「依然、いつも怒ってる」
傍から見れば、そう映っているのかもしれない。けれども怒られる当事者としては、実感出来ない上に不満ばかりが募っていくのだ。
「大切だから、怒るんだよ。神美さんは、依然さんの事が本当に嫌いか?」
しかし嫌いかと問われれば、嫌いではない。ただ苛立ってしまうだけで、本気で依然の事を嫌煙してはいないのだ。
「……ううん。大切、だよ。でも、やっぱり怖いものは怖い」
「そうだよな。でも結局、やるべき事から逃げる事は出来ないんだと思う」
神美よりも先に現実を受け入れた彼女からの、厳しい正論だった。
「私達は、そういう家系の元に生まれたから。怖くても、進まなくちゃいけない。でも、一人では進み続ける事は出来ない。だから、家族や従家の皆さんがいると……白羽さんに教えられたよ」
返す言葉もない。どれだけ逃げ続けても、最終的には感情を押し殺して全てを飲み込まなくてはいけないのだろうか。考えるだけで、気分が沈みそうだ。しかし神美を諭すように語り掛ける一華の横顔に、諦めの感情はない。いっそ、受け入れてしまった方が楽だとでもいうのだろうか。
「依然さんに一度、自分の心の内を曝け出してみてはどうだろうか。少し……いや、だいぶ恥ずかしいが、きっと受け止めてくれるよ」
――依然が分かってくれる筈がない。
そう反論しようとしたものの、一華の思いがけない一言に、その言葉は引っ込んでしまう。
「依然さんはずっと、貴女の傍にいるんだから」
「…………今、ここにいるの……?」
「さぁ、どうだろうな」
含みのある笑みが、真実を告げていた。一体いつから、依然が傍にいたというのだろうか。神美が思考を巡らせていると、察したように一華が教えてくれる。
「少なくとも、神美さんが来る前には来ていたぞ。『お嬢がお世話になります』って置き手紙と、菓子折りが私の部屋の前に置かれていたよ」
そんなに早くから!? と神美はぎょっと目を剥いた。全く気配に気が付いていなかった上に、一華との会話も全て聞かれていたのだと思うと、今すぐに隠れてしまいたい衝動にかられた。
話してみるも何も、全て聞かれていたのではもう遅いではないか。神美が膝を抱えて唸っていると、隣にいる一華はくすくすと小さく笑う。
「神美さん。確かに当主に就くという事は、想像通り……いや、想像以上に大変なのかもしれない。でも、支えてくれる人が絶対にいるから大丈夫だよ。依然さんも、梓豪さんや美朱さんも。遠い存在になったりしないよ。ただ、自分が大人に近付くだけだ。……って、神美さんと一つしか変わらない私が言うのも何だがな」
「……一華がいつも堂々としているのは、白羽や兄妹達がいるから?」
「……そうかもな。理由は何でもいいんだ。そこに立っているだけで、おのずと理由はついてくる。一緒に頑張ろう、神美さん」
「…………」
恐怖心が薄れたといえば、嘘になる。しかし神美は、差し出された一華の手を握り返して、そっと頷いていた。少なくとも、神美の先を進む一華の姿が、安心感を抱かせてくれたから。




