第六十話 潰せば無くなるよな
神美を客間に通して、一華と神美は向かい合うようにして座布団の上に座った。神美が来る事は事前に伝えていたので、すぐさま使用人の女性が二人分のお茶を用意してくれた。彼女が一礼して去ってから、神美はおずおずと口を開く。
「昼間はありがとう」
「あぁ……何事もなくてよかったよ。追い払う為とはいえ、勝手に恋人扱いしてごめんなさい」
「問題ない。助かった」
やはり、彼女は流暢な日本語で喋っている。嘘をついているにしても、何かしら理由があるのだろう、と割り切る事にして一華は話題を逸らした。
「夕飯は食べたか?」
「食べてない。でもお腹は空いていない」
「本当か?」
「本当」
直後、ぐぅぅぅ、と腹の鳴る音が聞こえてきた。この部屋には一華と神美しかおらず、一華ではないとすれば――
「遠慮しなくていい。何か食べたいものはあるか?」
もう誤魔化す事は出来ないと判断したらしい。神美は本当に渋々といった様子で、
「……あるもので」
と答えた。
「分かったよ」
とはいえ、夕飯はもう食べ終えたし、後片付け等で忙しくしている使用人の人に頼むのは忍びない。それに彼女達に任せたら、あるものどころか豪勢なものになってしまうだろう。神美に気を遣わせない為にも、ここは一華が一肌脱ぐべきではないだろうか。そう思い立った一華は、神美に断りを入れて席を立つ。
しかし後ろから、神美は着いてきてしまっていた。
「部屋でゆっくりしてていいんだぞ?」
「ん、着いてく」
一人で待つのは心細いのだろうか。年は一つしか変わらないが、思わず可愛い、と和んでしまう。頼られたり、甘えられると嬉しいものだな、と五輝の気持ちが理解出来たような気がする。
客間から離れた所にある台所は無人だった。電気をつけて、冷蔵庫の中身を確認するも、それらしい食材は使い切ってしまったようだ。
「冷蔵庫にはそれらしきものはないな……インスタントでもいいだろうか」
「うん」
インスタント麺を買い溜めているのは、夜中にお腹が空くという五輝なのだが、一つ位拝借してもいいだろう、と袋を開封する。
「えっと……まずはお湯を沸かす」
裏面に書かれている説明の通りに、即席ラーメンを作り始める。鍋に水を注ぎ、火にかける。なお、強火である。
「……火、強い」
やや違和感を覚えたのだろう、神美は呟くように指摘した。
「そうか? まぁ早く沸くしいいじゃないか。で、沸騰したら麺を入れる」
とはいえ、一華はかなりの不器用だ。袋を開ける際、中身の麺の事をすっかり忘れて強く握り潰してしまった。バリバリッ、と嫌な音がしたが、まだ何とかなるだろう。
「……麺、粉になった」
神美が指摘した通り、麺は原形を留めるどころか、粉末状になって出てきた。サラサラと沸騰した鍋の中に投入され、いよいよ神美は「可笑しい」と察してしまう。
「た、多分大丈夫だ! 混ぜている内に固まるかもしれない!」
「?」
神美に「何を言っているんだろう」と言いたげな視線を向けられているとは露知らず、一華は根拠のない自信を持って麺を固めるべくかき混ぜる。一華が今作っているのは即席ラーメンの筈なのに、麺の跡形も存在していない。そして、ずっと強火のままである。
「で、火を消して粉末スープを入れるんだな。お好みで卵やネギを入れる……入れるか?」
「う、うん」
神美の顔色がやや悪いが、慣れない料理で気を張っている一華には余裕がなかった。冷蔵庫に残っていた卵を取り出して、割る為に打ち付けるが、べしゃっ、と勢い余って床に落ちてしまう。
「あっ……最近の卵は脆くないか?」
「卵、悪くない」
「も、もう一度……あぁっ!」
二個目の卵も、無残に散っていってしまった。このままでは冷蔵庫の中の卵が全て無駄になってしまうのではないだろうか、と不安を抱きつつも、一華は三度目の正直を信じて身構える。そして、見事力加減に成功した。
「よしっ! む、殻が入った……潰せば無くなるよな」
「!?」
一華の後ろでは、神美がぎょっと目を剥いていた。ボウルの中に比較的綺麗に割られていた卵は、入ってしまった殻を巻き込んでかき混ぜられている。ザリザリと耳に入ってくる音に、神美はいよいよ眩暈がしそうだった。
「で、ネギを細かくしてぶち込めば……出来た! 神美さん! 即席ラーメン、出来たぞ!」
なお、ネギも細かく刻まれた訳ではない。細かくすり潰されたのだった。もはや即席ラーメンですらない物体を、一華は嬉々として見せつけてくるが、神美は笑みを取り繕うともしなかった。
「一華。料理、侮辱しないで」
「な、ぁっ!?!?」
「下手なら下手と言って」
「うっ!!」
「これは酷い」
「ぐっ!!」
「最悪」
「す、すみませんでした……」
立て続けに感想を述べられ、一華は項垂れてしまった。しかし一華が今まで作ってきたものの中では唯一焦げていないので、成功したといっても過言ではないのだが、どうやら神美からしてみると最悪の仕上がりだったらしい。
「一華さん、神美さん」
「白羽さん……」
と、台所の入り口に白羽の姿があった。右手にはスマホが握られており、
「出前、とりましょうか」
と、やんわり問い掛けてくる。
「……お願いします」
神美に完膚なきまでにきっぱりと言われて、作り直す気分にはならなかった。こればかりは諦めるしかない、と結局出前ラーメンを注文する事となったのだった。
※※※※
届けられたラーメンを食べ終えた神美に、一華は改めて謝罪の言葉を述べる。
「本当に、申し訳ない」
「こちらこそ、奢ってもらって申し訳ない。ラーメン、美味しかった」
「それは良かった」
使用人の女性にも「一華様のお料理で、今まで何人の人が病院送りにされたのか忘れた訳ではありませんよね!? もう台所は立ち入り禁止です! いいですね!?」と説教をくらったので、気分は暗いままだった。
不器用で大雑把な自分を何とかしたいと思いつつも、こればっかりはどうにも成長の兆しを見せない。改善の余地はないのだろうか、と溜息を零しつつも、ずっと気になっていた事を神美に問い掛ける。
「神美さんは、どうして一人で?」
「従者と喧嘩した」
神美は詳しく話すか迷っていた様子だったが、ゆっくりと口を開いて続けてくれた。
「……依然。藩 依然。我の傍にいる人。父と母には、藩家の違う人がついている」
「依然さんとは、どうして喧嘩をしたんだ?」
「依然、我の先生でもある。日本語や英語、他にも色々」
長らく中国国主を務めている李家の従家。本条家でいう所の一条家のような存在で、国主の護衛をメインとしているらしい。藩家の特徴としては、その姿を公に出さない所だ。主が命令を口にしない限り表に出てくる事はなく、隠密行動に徹している。
一華も白羽も、梓豪の従者にも、神美の従者であるという依然にも会った事がないし、その姿も見た事がない。
「我は……他の言語も読めるし、書けるし、話せる。でも、父達にはあまり話せない事にしてる」
「何故だ?」
「……自立、したくないから」
神美の予想外の回答に、一華は一瞬言葉を失ってしまった。確かに国主の仕事は大変だし、面倒に感じられる事も多い。ましてや神美は一人娘で、よっぽどの事がない限り次の国主の座には彼女がつくに違いない。
「……えっと、それは……親の脛を齧って生きていきたいという……?」
「違う」
しかし『自立したくない』だけであって『ニートになりたい』という訳ではなかったらしい。一華の指摘に首を振った神美は、再び語り始める。
「李家は現当主が死んだ時にのみ、当主が変わる。まだ先だけど、父の次は我。当主になる人は、その証として背中に紋身を入れる」
「ウェンシュン?」
聞いた事のない単語に首を傾げると、すぐさま白羽が耳元で補足してくれた。
「刺青の事だよ」
「あぁ……成程」
「我はまだ入れてない。当主になるの、怖いから」
「怖い?」
「……父と母が、遠くなりそう。まだ、離れたくない」
膝の上で拳を握り締めながら、神美はそう告げる。
神美の言いたい事も理解出来る。刺青という当主になる証は、きっと一華の想像以上に重いものなのだろう。そしてそれを入れるという行為は、嫌でも実感させられる筈だ。神美はそのプレッシャーを既に感じている、だから拒絶したいと思っている。
「……確かに、辛いものかもしれないな」
「依然、『そういうもの』としか言ってくれない。だからむんっ、てなって出て来た」
「そうか」
むんっ、となった、というのは一体どういう状態だったのか気になる所だが、あえて触れずに一華は自分の想いを語り始める。
「私は、当主になる事が当たり前の使命だと思っていたから、あまり深く考えないようにしていたんだ。勿論プレッシャーを感じなかった訳ではないが……確かに、怖いと思ってしまうよな」
「一華、凄いと思う。我と一つしか変わらないのに、しっかりしてる」
神美には、そんな風に見えているらしい。凄い、と言われると単純に嬉しい気持ちになる。
「当主になるよりも、辛い事多いと思う。本条家は」
そして、そんな気遣いの言葉も。
しかし大変な事も辛い事も、一華だけではない。二宮達兄妹もだし、神美達にだってそれぞれ苦難があった事だろう。
「それは、皆同じだろうよ。それぞれ役割や苦労もあって、その上で成り立っている。その中で、怖いと思うのも、しんどいと思うのも当たり前だと思うんだ」
「……でも、我儘だと思う」
「可愛いものじゃないか。梓豪さん達はまだ何も言ってこないんだろう? 少なくとも、一人になりたいという神美さんの意見を尊重してくれている。依然さんも」
一華には、両親に我儘を言った記憶があまりない。早くに父を亡くし、憔悴していく母に頼み事等出来る筈もなかったから。神美のように甘やかしてくれる両親がいるというのは、少し羨ましく感じられる。
「我儘を聞いてくれるのは、多分子どもの内だけだぞ。存分に我儘をいってしまえばいいんじゃないか」
「……駄目人間になりそう」
「そこは自分次第さ。なぁ、白羽さん」
隣に座っている白羽に話を振ると、彼は小さく頷いた。
「そうですね。成長するにつれて、自然と安定してくると思います」
「…………」
神美は何かを思案しているように、少しだけ俯いてしまった。暫く一人になって考えたいという彼女の意見を尊重し、この時間帯は人気のない玄関付近の庭に案内する。縁側に腰掛けて膝を抱えて座った神美の後姿を見送って、一華と白羽は席を外したのだった。




