第五十七話 もう浮気ですか?
──十月十六日。一華が本条家の当主の座に就いた翌日。
一華は屋敷の近くにある墓地へと一人訪れていた。広い墓地の最奥にやや広い敷地があり、そこに歴代の当主達が埋葬されていると聞く。一番真新しい石碑には、『本条数予』と名前が記されている。
母が殺されたと聞いて、すぐに駆け付ける事が出来なくて。最後の別れも出来ないままに継承戦が始まって。今日ようやく母の元に訪れる事が出来たのだ。誰かが来てくれたのか、母が好きだった向日葵が置かれていた。
母の石碑の隣には、『本条零』と父の名が記された石碑もある。お墓の事に関しては他の者に任せっきりになっていたが、要望通りにしてくれたようでほっとした。
「来るのが遅くなってごめん、母さん。聞いたよ、私の事……守ってくれたんだな」
『霞』のボス、『レージ』から聞かされた依頼内容。義父である銀治に殺されそうになって、しかし母は「一華を当主に立ててほしい」「本条家の権威回復」を個人的に依頼してくれていた。
「ずっと、母さんから愛されていないと思っていた。哀れな人だと、思ってしまっていた。……ごめんなさい。本当にありがとう、母さん」
母は、あの世では笑っているだろうか。そして、一華の事を許してくれるだろうか。
それを考えるのは、まだ早いかもしれない。一華は当主になったばかりで、これからが本番なのだから。
二宮達を本条家の一員として見てもらえるように。裏の世界を纏め上げ、均衡を保つ。その役目を果たしてから、改めて考えよう。そう決意して、今度は父の石碑の前に立った。
「父さん、無事に当主になれたよ。母さんのおかげだ。私が言うのも可笑しいが……どうか、沢山褒めてあげてほしい。私は父さんのような、絶対的な王にはなれないと思う。でも、私は私なりに頑張るから、どうか応援してほしい」
父の事は、よく覚えていない。幼い頃に亡くなった、というのもあるが、どのような人だったのか印象に残っていないのだ。梓豪達の話では、人間の皮を被った悪魔、等と言われていて、あまりいい人ではなかったようだが。しかし、本条家の人間――特に当主になった者は、皆似たり寄ったりの性格だとも聞く。
父はその中でもずば抜けて不器用で、人間らしく在れなかっただけかもしれない。そう、一華は思うようにしている。
「今日はまだ用事があるんだ。また、ゆっくりと時間をとって来るよ」
これから、一華が当主に就いて初めての会議がある。一刻も早く両親に挨拶をしておきたくて、早朝に墓参りに来たのだが、そろそろホテル本条に向かわなければ間に合わないだろう。
石碑から背を向けて、一華は来た道を戻る。墓地の前に、護送用のリムジンが停められているので、屋敷まで戻らなくていいのは助かった。
車が停められている所まで戻ると、白羽が迎えてくれた。どうやらずっと、車の外で待っていてくれたらしい。「両親への挨拶だから、どうか一人にしてほしい」と頼んだ、その指示を守ってくれたのだ。
「一華さん、おかえりなさい」
「あぁ。ありがとう、白羽さん」
ドアを開けて、リムジンに乗るように促してくれる。こうされるのも何だかむず痒いものを感じるが、あくまで顔には出さないようにしてリムジンに乗り込んだ。ドアが閉められ、隣の座席に白羽が座ったのを見計らって、一華は運転席に座っているその人に声を掛けた。
「よろしくお願いします」
当主を護送するのは、七条家の者の役目らしい。表に顔を出すのが苦手らしく、その姿はまだ見た事がない。運転席と座席には、遮るようにして黒いカーテンがあって、後ろ姿すら見る事は叶わなかった。短く返事をしてから、運転手は車を走らせた。
静かに流れていく景色を眺めながら、一華は短く溜息を零す。初めての会議、緊張感を抱かずにはいられなかった。内容はそんなに重要なものではないらしいが、気は抜けない。
数十分後。ホテル本条二号店へと到着した。
本店とは違って、二号店は比較的人の多い繁華街に隣接しているので、リムジンから下りる時にやや視線を集めてしまった気がする。やはり、慣れるのには諸々時間が掛かりそうだ。
資料の入った鞄を片手に、ホテルに入ろうと足を進めた瞬間、ある人物が視界に映った。
(あれは……)
橙色の髪を三つ編みにして一つに纏めた、丈の短いチャイナドレスを着た少女。猫のように愛嬌のある可愛らしい瞳が印象的だ。彼女は中国国主、李梓豪の娘・神美ではないか。
近くの薬局の袋を片手にさげた神美は、見慣れない男性と話をしているようだった。国主ではなさそうだし、むしろ知り合いと話している様子ではない。そもそも彼女は日本語を話せないと聞いているし、困っているのではないだろうか、と思い彼女に歩み寄ろうとした瞬間、一華は耳を疑う事になる。
「急いでいるので迷惑です。退いて下さい」
はっきりと、神美はそう口にした。流暢な日本語で、とても苦手とは思えない程だった。
「じゃあ連絡先だけでも教えてよ」
「困ります」
今度ははっきりと、「困ります」と口にした。連絡先、という事はナンパだろうか。神美は確かに可愛らしい顔立ちをしているし、声を掛けられる事もあるだろう。話を聞いて、神美が困っていると分かった以上、無視は出来ない。
一華はそっと神美に歩み寄り、男性に笑みを向けた。
「私の彼女に何か用か?」
「……えっ、彼女!?」
勿論、彼女ではない。姉妹だと言うとあまり効果はないようで、一華の中ではこういった方が確実に追い払えると確信していたからこその言動だった。現に、神美にナンパを仕掛けてきた男性は、困惑したように一華と神美を交互に見つめている。
神美も何かを察したようで、そっと一華の腕に抱き着いて来た。それもあってか、男性は、
「あ、そ、そうですか……すみませんでした……あはは……」
と、そそくさと去って行ってしまった。人ごみに消えていった所で、神美は一華の腕に抱き着いたまま、一華を見上げる。
「谢谢」
(あれ、日本語じゃない……?)
先程の流暢な日本語が嘘のように、神美は中国語で礼を述べる。一華の幻聴だったのだろうか、否、確かに彼女の声だった。疑問は尽きなかったが神美がそっと離れて、一礼してホテルに入って行ったのを見て、はっと我に返った。
三歩後ろに立っている白羽の視線が痛い。サングラス越しとはいえ、見つめられていると気配で分かってしまう。
「……もう浮気ですか?」
「ナンパの撃退だ。見ていただろうに」
「すみません、僕が行こうとしたら一華さんが『私の彼女』だなんて堂々と言うものだから……」
余程面白かったらしい。笑いを堪え切れなかったらしい白羽は、口元を手の甲で隠して肩を震わせていた。
「まったく……。ほら、私達も行きましょう」
もう少し苦言を呈してやりたかったものの、一華達も急がなければいけない。ひとまずこの件は置いておく事にして、白羽と共に会場へと向かったのだった。




