第五十一話 私はその在り方を望んでいない
十月十五日。
ホテル本条二号店。毎度、国主達を持て成していた本店に比べれば、少しばかり小さく感じられるが、普段は一般向けに営業されているここもまた、シンプルながらも豪勢な雰囲気を兼ね備えていた。
本日は、新たな国主が誕生する記念すべき日だ。
第百代目の国主の即位を祝うべく、そして各国国主と対面する時間が設けられている。その為ホテルの従業員達や各条家は、夜通し準備を進めていた。本音を言えば皆寝不足だが、それを表に出してはいけない。
あくまでいつも通りに、最高のおもてなしを提供する。それがプライドであり礼儀というものである、と支配人・二条市子は思っている。
とはいえ即位式は十時からなので、それまで交代で仮眠をとらせているが。欲を言えば市子も寝たい。
そう思い続けてかれこれ二時間は受付に立ち続けているのには理由があった。
新たな当主が即位する際、国主と、国主の身内が対面式に参加する事が通例となっている。大概は国主の伴侶か、跡取りとなる人物だ。対面式でどのような事をしているかは市子ではなく、兄が取り仕切っているので彼女の知る所ではないが、実は気になっていたりする。
とはいえ、今の自分の仕事は、やってくるお客様をお出迎えする事。名前を記入してもらった後、国主に連絡を廻して迎えに来てもらう。もしくは部屋へ案内するのだ。
が。
市子は戸惑っていた。
「メリちゃん達に会うの久し振りだなぁ」
「いや、何故お前がここにいるんだよ。お前呼んでねぇんだろ……」
「俺はいつでもどこでもアリーナちゃんと一緒だからねぇ。もう離れたくないよ~」
「くっ、悪寒が止まらない……」
「楽しみですね……色々と……ふふふっ」
何故かまだ呼んでもいないのにロビーに現れた中国国主・梓豪、ロシア国主・ファリド、フランス国主・マティス、ルーマニア国主・アンドレイとその妻であり従者のアリーナ。アンドレイとアリーナに至っては元々用事がない筈なのにこの場にいる。
三人共、愛妻家で有名なので、妻の到着をまだかまだかと待ち侘びている事は想像がつくのだが……。
(やりにくい……圧倒的にやりにくい……)
彼等の方を見ずとも分かる。絶対そわそわしてる。
とはいえ微笑ましいものだ。そう心の中で片付ける事にして、仕事に専念する事にする。
と、ホテルの前で一台の黒い車が停車した。黒塗りのベンツという“いかにも感”はあるものの、本条家が所有する送迎用の高級車だ。この日の為に手入れされ、まるでいかにも新車のような真新しさを醸し出している車のドアを、出迎えの従業員の一人が開ける。
「ありがとう」
流暢な日本語で礼を言って、中から出て来たのは暗い橙色の髪をした女性だった。露出の少ないチャイナドレスを身に纏った小柄な女性は、一目見て誰の伴侶であるか察しがつく。
「中国国主、李 梓豪の妻、林 美朱と申します」
林 美朱。
中国の老舗賓館の一人娘。梓豪の一目惚れで結婚した事は有名な話だが、驚くべきはその“異様な落ち着き”である。
長らく国主ナンバー2の変動はなく、彼女が二十五の時に嫁いだその代でも変動はなかった。裏の世界に関わりがあったとはいえ、多少なりとも緊張したりするだろうに。美朱という女性は、全くその影を見せなかった。どころか、国主の妻としての風格を既に兼ね備えてすらいたのだ。
それは今も変わらず、至極落ち着いた様子で微笑んでいる。
「お待ちしておりました、美朱様。こちらにサインをお願いします」
「はい」
「梓豪様はロビーにてお待ちです。お荷物はこちらで運びましょうか?」
「結構です。お気遣いありがとう」
小さく会釈して、キャリーケースを引き梓豪の元へと歩み寄る美朱。失礼とは思いつつ、市子はそっと耳を傾けた。
「梓豪さん、お待たせしました」
「美朱さん! お久し振りです!」
梓豪の声が明らかにワントーン明るかった。彼が敬語を使っている所も新鮮だが、それ以上にいつものやさぐれた雰囲気は何処へいったのだろうか。
「皆様もお変わりないようで」
「美朱さんも元気そうで」
「あ、そうだわファリドさん。空港でライーサさんと会ったのだけれど、とても楽しみになされていましたよ」
「そうか……という事は、ライーサももう来る頃合いか」
ファリドの声色は、始め何処か震えているようだったが、やはり最愛の妻に会えるという事は嬉しいのだろう。チラッと横目で見たその表情は比較的柔らかなものだった。
「所で神美は……」
「! 妈妈!」
階段から駆け足で降りてきた神美は、美朱の姿を見付けるなり飛び込むようにして彼女に抱き着いた。
「あらあら。元気そうでよかったわ」
優しく頭を撫でられ嬉しいのか、神美は嬉々とした様子で頷いていた。もう少しその光景を見ていたかったが、新たな車が停車したので表情を切り替え、客人を出迎える。
「ごきげんよう。ロシア国主、ファリド・ラファイロヴィチ・アスタフィエフの妻、ライーサです」
「お待ちしておりました、ライーサ様。こちらにサインをお願いします」
ライーサ・ザハーロヴナ・アスタフィエヴァ。
世界的に有名なヴァイオリニスト。市子も彼女の講演を見た事があり、裏の世界・表の世界両方に通じている有名人だ。
癖一つない透き通るような白銀の髪に、長い睫毛に縁取られた海色の瞳。年齢を感じさせない美しさに思わず見惚れてしまいそうになる。
「荷物を任せてもいいかしら」
「お任せ下さい。ファリド様はロビーにてお待ちです」
「ありがとう」
大きめのサイズのキャリーケースを二つ、従業員に運ぶよう指示を出す。さて、彼女達はどんな会話をするのだろうか、と顔を向けた瞬間、市子は目を見張った。
キスしていた。
触れ合うだけのものらしいが、やけに情熱的な接吻を、ファリドとライーサが交わしていたのだ。この事態には流石に忙しく働いていた従業員達も、足を止めてその光景を見つめてしまっていた。市子もその一人だ。
「お、おいライーサ……!」
「やっと会えた。愛しのあなた」
「頼むから外では勘弁してくれないか」
「あら。相応の仕返しだと思うけれど。二週間の放置プレイの後、謝罪もなしに私に頼み事をして……愛の言葉を囁いてくれたと思えば以降電話はなし。怒っていたんですからね」
「それはすまないと思っているが……」
ファリドの視線の先には、ニヨニヨと笑みを浮かべる梓豪達がいた。
「ひゅ~お熱いね~お二人さん!」
「ったく見せつけやがって~!」
「ふっ、くくく……」
からかう梓豪とアンドレイのその後ろで、腹を抱えて静かに笑っているマティス。ファリドにとっては彼が一番腹立たしいのだろう。しかし、妻を前にするといつものように睨み付ける事すら出来ないのか、咳払いにするだけに留めていた。
「せめてあの野次馬がいない所で頼む」
「ふふっ。相変わらず可愛い人だこと」
可愛い……? と、思わず突っ込みそうになったのは内緒である。
「というか、メリザンドさんはまだいらしてないのね」
「もしかしてライーサさんもお会いしました?」
「えぇ、空港で。私よりも先に外へ出ていたようだったので、もう着いているのかと思ったのだけれど」
ライーサと美朱の会話を耳にして、市子は「確かに遅いな」と腕時計に目線を下ろした。即位式は十時から、と決まっているが、それぞれ準備もある為最低二時間前には到着予定だ。混雑を避ける為、あえてホテルに到着する時間はずらしている。
しかし彼女達の言う通り、既に到着していても可笑しくはないのだが……。
「こんちゃっす」
と、旅行鞄を手に一人の女性が現れた。
「メリザンド・サンジェルマン。フランス国主、マティス・サンジェルマンの妻でっす」
丁度今、頭に思い描いていた人物だ。送迎用の車から降りた様子はなく、市子が見た限り今歩いて来た気がするのだが。
「お待ちしておりました、メリザンド様。あの、僭越ながらお聞きしますが……送迎のお車を用意したかと思われるのですが……」
「んー? あぁ、走って来た」
「走っ……え?」
「いやぁ、あたし乗り物酔い酷くてさー。飛行機で何回かゲロってるから断って来たんよ」
聞いてないぞ運転手、と心の奥底で苛立ちを感じつつ、「左様でしたか。大変失礼致しました」と述べる。
「体調は如何ですか」
「もう全然」
「それは良かった。送迎に関しましてはまた後程お伺いに参ります。こちらにサインをお願いします」
「はいはーい」
メリザンド・サンジェルマン。
本条零の従妹にあたり、元々の名前は圷メリザンド結葉(父親がフランス人らしい)。結婚を機にミドルネームを名乗っているらしいが、その理由は不明。
彼女のようないかにも自由な人は、この裏の世界では珍しい。底抜けに明るい、というのもあるだろうが、国主の妻、と聞くとあまり実感が湧かないのが実の所だ。
しかし黙っていれば美人の部類だろう。赤みがかった茶髪に、黄土色の鋭いつり目。女性にしては高身長な所も羨ましい限りだ。
「これでオッケー?」
「はい。ありがとうございます。マティス様はロビーでお待ちです。お荷物はこちらが運びましょうか?」
「大丈夫。どーも」
たたたっ、と軽い足取りでメリザンドは受付を後にする。彼女が向かう先は当然、
「よーっすマティスさん!」
夫であるマティスの元だ。彼の元へ歩み寄るなり、バシバシとその背中を叩くメリザンド。最早友人のノリ近しい態度だが、彼等にとっては珍しい事ではないらしい。
「お元気そうで何よりです……あと、ちょっと痛いです……」
「あ、悪い悪い。皆さんもお久し振りでーす」
「元気そうで何よりだよ」
メリザンドがやって来た事で、ロビーで待っていた梓豪達は部屋に戻って行った。これから準備もある事だろうし、久々に会う妻との会話に花を咲かせるのだろう。
彼等がエレベーターに乗り、姿が見えなくなってから。市子は他に人がいないのを確認して盛大に溜息をついた。
(帰りたい……)
そう心の中で呟きながら、天井を仰ぎ見たのだった。
※※※※
《ホテル本条二号店・宴会場》
午前十時。
煌びやかなシャンデリアで照らされた、とてつもなく広い宴会場。壇上の中央には、本条家の当主のみが座る事を許されたアンティーク調のキングチェアが用意されている。
純白のテーブルクロスの上に、バイキング形式に並べられた料理や各種飲み物。即位式の後、各種対面する時間が設けられているので、それ以外の間はこの場で食事や会話をする事となっている。
とはいえ、待ち時間も重要な仕事の内。その為の個室や休憩所も用意されているのだ。
此度の継承戦では異例という異例に塗れ、邪魔者も沢山いて、裏方の者達は疲れ切っているのだが、まだ終わりではない。
国主達も正装で次々と宴会場へと足を踏み入れる。まだ料理や飲み物に手をつける者はいない。事前のプログラムを知らされており、すぐさま式が始まる事を知っているからだ。
国主達の次に、二宮達血縁者が入ってくる。
彼等は皆着物に身を包んでいた。プライベートで着物を着用している二宮と三央以外は、どこか新鮮味を帯びている。
そして、司会進行を担当している二条泉が、マイクを通してその名を口にした。
「先日、十月十一日午前五時半を以て、新たな当主が決定いたしました。第百代目当主・本条一華様です」
泉の声の後に、一華は会場内へと足を踏み入れた。
彼女だけは、兄妹達と違って軍服のような装いに身を包んでいた。
高く結い上げられた黒紅色の髪を揺らして、悠然と宴会場を歩き壇上へ向かう。黄金のつり目は、厳しいながらも穏やかで、彼女の美貌の要ともいえよう。少女にしてはやや高身長で凛々しいその出で立ちに、大半の者が気圧されたに違いない。
そんな彼女の数歩後ろを歩く、皺一つないスーツを着こなした銀髪の男性。サングラスが掛けられているせいもあってが、彼こそが一華の護衛役であると一目で察しがついた。
一条白羽。継承戦でも一華を護り、大いに力を見せつけた一条家の子息だ。
白羽は壇上に続く階段の所で立ち止まったが、一華はそのまま壇上へ上がる。そしてそのまま、用意されていたキングチェアに腰を下ろした。
――壇上からその光景を見下ろして、父はこう言ったらしい。
『学校で見る景色と何ら変わりないな』と。
その考えは、あながち間違いではないのかもしれない。景色としてその光景を見たならば、一華もそう思っていたかもしれないからだ。
しかし自分がこの場にいるという意味。見下ろしている者達が、各国の重鎮であるという重みの前では、言葉すら出て来なかった。
いつしかこの光景を目にするという覚悟はしていたが、先日まで一華は一人の女子高校生でもあったのだ。
――この景色に慣れるのには、まだ時間が掛かりそうだ。
「それでは、第百代目当主・一華様より初めの宣言を」
初めの宣言。
本条家の当主、裏の世界のトップとしての方針とも言えよう。当主として君臨した際に、一つ掲示しなければならないのだが、過去にも特に大きな変更はなかった。
零の『五大権選抜制の撤廃』宣言までは。
そこからの裏の世界の秩序は統一性がなくなり、現状嫌でも思い知らされる羽目となっている。よって、一華が宣言する事は五大権選抜制へ戻す事――かに思われた。
「初めの宣言は……『国主順位制の撤廃』だ」
――――!!?
予想外の言葉に、その場にいる誰もが驚きを隠せなかったに違いない。あまり感情を表にしない泉ですら、マイク越しに息を飲む声が通ってしまっていたのだから。
国主の順位制。
それは最初期から一度も改訂されていないものだ。順位を割り出す基準は様々だが、別段上下関係はない。故に、今まで誰も気にしている者はいなかった。
しかし一華は、それを撤廃するという。
一度息を吐き出して心を落ち着かせてから、一華は口にする。
「これを施行した場合、順位変動がなくなる。故に、五大権については選抜制に戻るのだが……何故これを選んだのか。説明しようと思う」
そう前置きして、どよめきを隠せていない国主達を概観し続ける。
「数字というのは、良くも悪くも便利なものだ。統計して順位を示す事も効率的でいいと思う。だが、数字で見れるものは所詮数字だ。その人が何をして結果をもたらしたのか。数字で見れるのは結果であり過程ではない。至極当り前な事だが、私はずっと気掛かりだった。上下関係が発生しないのであれば、尚更不必要な筈だ」
「私は本質を目にしたい。陰ながらに表の世界を支える皆さんが何をして結果を得たのか」
「子どもの戯言だというのであれば、それはそれとして受け止めよう。世の中はそんなに簡単ではないからな。だが私はその在り方を望んでいない。よってこの宣言を通すつもりでいる」
それが本条一華の、当主としての初めての宣言。
歓喜も苛立ちもない、ただ戸惑いだけがそこにはあった。しかし誰もが、少女らしからぬ悠々とした宣言に目を奪われていた。
黄金の瞳には一切の淀みも迷いもなく、ただ真っ直ぐに強い芯が宿っている。




