第四十二話 私は知っています
《ホテル本条・六十四階廊下》
『お客様にご連絡申し上げます。只今、最上階にて不審者の侵入が確認されました。現在確認出来ている数は三人。お客様の身の安全を優先し、Aルートからの避難をお急ぎ下さい。
繰り返します。只今、最上階にて不審者の侵入が確認されました。現在確認出来ている数は三人。お客様の身の安全を優先し、Aルートからの避難をお急ぎ下さい』
繰り返し放送される避難アナウンスを耳にしながら、ドイツ国主、エッダ・ハイデルベルクは隣に立っていた従者のレギーナに視線を向ける。
〈急ぐぞ、レギーナ・フライリヒラート。絶対に私の後ろを離れるな〉
〈ひゃいっ!〉
本来ならば、従者であるレギーナがエッダを守らなければならないだろう。しかしエッダはそうする事を善しとしない。単にレギーナよりも自身の方が強い、という事もあるが、何より彼女に武器を持たせる訳にはいかないと、そう命令されているからだ。
貴重品だけを手に持ち、エッダとレギーナは部屋を出て避難口へと急ぐ。有事の際を想定し、予めいくつかの避難ルートが用意されているのだ。
指定されたAルートでは隠し扉等を使用せず、廊下から非常口を通り外へと出る。侵入者が三人しかおらず、ホテルに散り散りになっていないからだろう。つまりは、まだ少人数で対応可能との判断だ。しかし敵の数が増える可能性も低くはない為、急いで避難しなければならない。
廊下を駆け抜け避難用のドアノブに手を掛けた瞬間、
すぐそこから、銃声が響いた。
〈〈!?〉〉
侵入者がいるのは最上階。それも現在は五大権、もしくは彼等の従者が相手をしているだろう。では今、エッダとレギーナの耳に届いた銃声は一体誰が発砲したものなのだろうか。
エッダ達がいるのは六十四階。最上階が七十階なのだが、ここまで上の戦闘の音が聞こえる事はないだろう。何より、音が限りなく近くで聞こえた。恐らく、ここ六十四階のどこかで発砲されたと考えられる。
〈……レギーナ・フライリヒラート。先に出ていろ〉
〈ふぇぇっ!? エッダはどうするんです!?〉
〈この階に侵入者がいないとも限らん。確かこの階にはティトゥレスク夫妻やマティス・サンジェルマンもいた筈だ〉
〈こ、こういうのはホテル側の方々に任せるものでしゅっ!〉
確かにレギーナの言う事も尤もだ。ここで大人しく避難すればいいだけの話。誘導に従わずにエッダ達が命を落としてしまえば、責任はホテル側に課せられる。それは申し訳ないなんてものではないし、エッダの判断力が疑われるというもの。
しかし、エッダは確信していた。
〈声が聞こえる。ティトゥレスク夫妻のな〉
微かに聞こえてきた話し声。それは幾度となく耳にしてきたルーマニア国主夫妻の声だった。それもただの話し声ではない。まるで言い争っているような――切羽詰まったような声だ。
〈可笑しい。あの夫妻が言い争いなど、な〉
〈き、気が動転しているのでは?〉
〈有り得ない。あの二人は全国主が認める脳内お花畑バカップルだぞ〉
〈暴言はよくないでしゅっ……〉
プライベートでは知らないが、少なくともエッダが見る限り、あの二人が喧嘩をしている所は見た事がない。小さな言い争いすらも、だ。
基本的に互いが互いの意見を尊重し合っているので、意見の食い違いがあれど争う事はない。それを知っていたから、確信していたからこそ、エッダはレギーナの制止を振り切ってでも向かわねばならないと思っていたのだ。
〈兎も角、お前は先に避難を――〉
〈――エッダを……〉
レギーナは声を震わせ、エッダを真正面から睨み付けた。
〈従者を危険な目には遭わせたくないのですっ!〉
〈ッ――――〉
すぐさま、レギーナの頭を小突いてやる。誰かに聞かれたらどうするんだ、という意味を込めて。幸いにも周りに人はいなかったし、盗み聞きしているような人の気配も感じられなかったからよかったものの、万が一誰かに聞かれていたら「まずい」どころの騒ぎではない。
〈分かったから。それだけは口にするんじゃない〉
〈す、すみましぇん……〉
〈……だが、あの二人が心配だ。悪いが私は行く〉
〈その流れで!?〉
〈安否を確認するだけだ。お前の気持ちは嬉しいが、優先すべき命というものがある。第一はお前で、次はその他に該当する他国の国主……すなわちアンドレイ・ティトゥレスクだ。それを忘れるな〉
〈エッダ……〉
腑に落ちない、と言いたげな様子のレギーナだが、先程のように強く言い返す事はなかった。顔を俯かせ、どう説得するべきか言葉を選んでいるようだった。
〈だから――〉
〈では、一緒に行きます!〉
〈……はぁぁあ?〉
予想外の返答が返ってきた。エッダとしてはレギーナだけでも先に避難して欲しかったのだが、彼女は意を決したらしく眩しいまでの視線を送ってきている。
〈一人より二人! いざとなれば私がエッダを守りましゅから!〉
〈いやいやいや、逆だろう〉
〈兎に角、行きましょう!〉
エッダの手を引き、レギーナは音のした方へと進んで行く。普段は小鹿のように震えている(今もそうかもしれないが)彼女だが、一度決めた事は嫌でも成し遂げようとする頑固な性格の持ち主だ。個性と言えば良いのだろうが、現状は傍迷惑な個性でしかない。
(まぁ、私もそうなんだがな……)
長年一緒にいたせいか、妙に嫌な所だけ似てしまったような気がする。そう呆れつつも、エッダは気を引き締めてアンドレイ夫妻の部屋に押し入った。
「無事か、二人共!!」
エッダとレギーナが目にしたのは、アンドレイに銃口を向けているアリーナの姿だった。どうやら発砲したのはアリーナらしい。
「何をしているアリーナ・ティトゥレスク!?」
「…………」
アリーナは答えない。そしてアンドレイもまた何も言わずに、ただ向けられている銃口を見つめていた。
「おい貴様等!」
「…………混乱してるんだよね、アリーナちゃん。さ、早く逃げよう」
エッダに促されてか、アンドレイは落ち着いた様子でアリーナに手を伸ばす。その姿は正しく、妻の身を案じる夫の顔であった。しかしアリーナは銃を構えたまま、ふるふると首を横に振る。
「貴方は誰……私の夫をどこへやったの!?」
(!? 彼女は何を言っているんだ……!?)
アリーナは、自身の夫の姿をした彼の事を別人と認識しているらしい。しかし彼女が別人だというアンドレイは、どこからどう見てもアンドレイ・ティトゥレスクその人に見受けられる。それはレギーナも同様だ。
「ど、どういう事ですか……?」
「姿も声も、喋り方も……私の知るアンドレイ・ティトゥレスクそのものだが……」
困惑しながら確認するように再度アンドレイに視線を向ける。しかしアリーナは「騙されないで」とでも言いたげに声を張り上げた。
「あの人は……私と二人きりの時は、私を『アリーナちゃん』とは呼びません! 数日前から、貴方は私の事をそう呼んでいました。それだけじゃない……不審な発言もありました」
アリーナも、確信しているからこそ彼に敵意を示しているのだろう。彼女の瞳には怒りのような色が宿っている。
「それに私は知っています。友人を見捨てて、私と二人で逃げようなんて……あの人は絶対に言いません!!」
レギーナがエッダの身を案じていたように。エッダがレギーナやアンドレイ、アリーナを心配して様子を見ると言ったように。アンドレイは梓豪達の安否を確認する性質の男だ。その位は、プライベートの事をよく知らないエッダでも知っている。
エッダは覚悟を決め、手にしていたアタッシュケースの持ち手を握り締めた。
「……真実なのか。答えろ」
そう、一歩詰め寄る。見えている出入り口はレギーナが立っている後ろの扉ただ一つ。警戒しつつ、アンドレイを見据えていると――――
「――――よく、気付いたね」
エッダの眼前に、アンドレイの姿をした何者かが迫っていた。間一髪の所で彼のレイピアから繰り出される剣戟を躱し、空中で身を捻りながらアンドレイの姿をした敵の動きと、レギーナ、アリーナの立っている位置を確認する。
「レギーナ・フライリヒラート! アリーナ・ティトゥレスク! 死にたくなければその場に伏せろ!!」
アタッシュケースからカチャッと軽い音が響く。ストッパーを外されたアタッシュケースの中身が無残にも散乱する――かと思いきや、中から飛び出してきたのは二つの短機関銃だった。それ等を片手ずつ手にして、着地と同時に乱射する。
ダダダダダダッ――――!!!! と、絶え間なく続けられる発砲音。部屋を照らしていた照明が撃ち落され、床に当たってガラスが割れる音。鼓膜を突き抜ける勢いと共に、豪華絢爛な客室が戦場へと化してゆく。通常の対人戦であれば、エッダが有利なのには違いなかった。二キロ以上の重さもある短機関銃を片手で軽々と構え、的確に標的を定めている。
しかし敵が負傷している様子は見受けられない。それは敵が銃弾を避けているのではなく、単に自身の前に防御魔術を発動させていたからだ。
「面倒な……」
いくらエッダが有利だろうと、あと少しすれば弾が尽きてしまう。そうなれば一気に距離を詰められ、彼の手に握られているレイピアで突き刺されてしまうだろう。ここでエッダが倒れてしまえば、レギーナとアリーナの身の安全も危うくなる。その前に決着をつけるか、増援が来るのを期待するしかないのだが。
(期待はしない方がいいだろう……奴の力量や正体が分からない以上、長期戦は不利だ)
ここで有難かったのが、アリーナが地を這ってエッダの後ろに回ってくれた事だ。一度部屋の外に出れば、弾の装填が可能だろう。連射はやめずに、じりじりと後退する。エッダの思惑が伝わったらしく、レギーナが部屋の扉を開けてくれた。
「エッダ様!」
レギーナとアリーナが部屋の外に出てから、エッダも駆け足で部屋を飛び出る。避難口から続く階段を駆け下りる際に短機関銃の弾を装填し、迎撃に備える。
が、突如、エッダの身体が部屋の中に吹き飛ばされてしまった。扉を突き破り、薄暗い部屋の中に追い込まれる。
「チッ……」
立ち上がろうとするとズキッ、と横腹に鈍痛が走った。どうやら何者かに蹴飛ばされたらしい。そしてその人物が誰かは、もう分かっている。
「ドイツ国主、エッダ・ハイデルベルク。予定にはなかったが、邪魔建てするとあれば殺すのが道理……」
最早姿を偽る気もないらしい。男は被っていたウィッグを無造作に放り投げ、懐から取り出したマスカレードマスクを装着する。黒紅色の髪に、マスカレードマスクの奥から黄金の双眸が垣間見えていた。
「エッダ様!!」
アリーナの声が耳に届いた頃には、男の繰り出したレイピアの先が眼前に迫っていた。遅れて引き金に手を掛けるも、確信せざるを得なかった。
(間に合わな――――)
瞬間、鋭い風切り音が響く。しかしそれは男がレイピアを振るった音でも、エッダが銃を発砲した音でも、ましてやレギーナやアリーナが何かした音でもない。全く新しい、突風が吹いたような音だった。
竜巻のように巻き起こった風には、よくよく見れば鋭い刃のような形が見て取れる。攻撃を受けまいと退いた男の視線が、エッダの背後へと移された。
「――――間に合い、ましたかね……カミーユ……」
「はい、マティス様。流石で御座います」
フランス国主、マティス・サンジェルマン。そして彼の従者のカミーユ・フォンテーヌが、エッダの後ろに立っていた。先程の風は、マティスの持つ『風切の魔眼』によって巻き起こされたものらしい。
「なっ、何故ここに貴様等が……!?」
「移動中に……銃声が聞こえてきたので……貴女の短機関銃の」
「そうか……今回ばかりは助かった。礼を言う」
日頃彼の挙動に苛立っていようと、助けに来てくれた事には素直に礼を言う。
「ふふっ……当然の事をしたまでです……」
ドヤッ、と効果音が付きそうなその表情さえなければ、もっといいのに。
マティスに悟られないように顔を歪めながらも、何とか立ち上がった。やはり痛みが治まっている事はなく、もしかすると肋骨が折れているかもしれない、と舌打ちする。
「……お話は終わりましたか?」
「親切に待って頂き、ありがとうございます……。えぇ、終わりました……おかげで……時間稼ぎが出来ました……」
「――――!!」
男の背後から、新たな影が現れた。
銀色の髪を一つに結わえた灰銀色の瞳をした男性。刀を振り下ろすその姿は、エッダが見た事もない程に雄々しく、病人の面影は見受けられなかった。
「また会えたな、『レージ』……!!」
ザシュッ、と肉の削がれる音と同時に、鮮血が舞う。ロシア国主、ファリド・ラファイロヴィチ・アスタフィエフによって背中を斬られた男は、呻き声を発しながらその場に崩れ落ちた。




