第三十九話 俺達は同じなんだよ
「…………」
「…………」
「…………」
「…………。」
長い沈黙が、続く。
七緒と八緒は車の音で二宮がやって来た事を把握していたらしく、殺意を隠す事もなく出迎えてくれた。もしも、一華がこの場にいなければ、七緒は二宮に襲い掛かっていたかもしれない。
一華が「話がある」と言うと、二人は渋々ではあったものの部屋の中に入れてくれた。二宮、七緒と八緒が向かい合って座り、三人の姿が視界に入るよう傍らに一華が座っている。一部屋しかない小さな部屋の中なので、逃げ場はどこにもない。
「……あ、そうだ。お茶淹れるね」
沈黙に耐え切れなかったのか、八緒はさも今思い出したかのように言って立ち上がった。
「手伝おうか」
「いいよいいよ。お姉ちゃんはお客様だもん。ゆっくりしてて!」
そう言い残して、一華達から背を向けてキッチンへと向かって行く。後ろ姿しか見えていないので、彼女が今どのような表情をしているかは分からなかった。若干鼻歌のようなものが聞こえているが、本当に気分が上がっているとは思えない。
「…………」
とはいえ、八緒が動いたからといって二宮と七緒の睨み合いが終了する訳もなく、むしろ先程よりも互いの視線が鋭くなっているような気がした。耳に入ってくる絶妙に音程の外れた鼻歌と、視界に映っている二宮と七緒の睨み合いに、一華は胃が締め付けられるような感覚がした。
「そういえば七緒君。ここのアパートには梓豪さん達から指示されて滞在しているんだよな?」
「あ、あぁ。そうだぜ」
一華がいたたまれなくなって捻り出した話題に、七緒は戸惑いながらも答えてくれる。
「不便な事はないか? 一応はいい人だから、何かと用意はしてくれるだろう」
勝手に言うのは少し憚られたが、これ以上沈黙が長引くのも御免だ。多少不自然だったとしても会話を続けた方がいいと判断しての事だった。案の定、若干緊張が解れたのか、七緒はいつもの調子に戻って胸を張ってみせる。
「別に、俺と八緒はサバイバル生活でも問題ないからな。いざとなったらそこら辺の動物でも狩って食うぜ」
「お兄ちゃん。都会に野生動物はいないよ」
「鼠かイタチ位だろうな」
「そもそも衛生面においてよくないからやめなさい」
八緒、一華、二宮に立て続けにツッコまれた七緒は、二宮の時にだけ顔を顰めた。しかし悪態をつく事はなく、ふん、と鼻を鳴らしただけであったので、ひとまずはスルーしておく。
「でもお姉ちゃん、心配いらないよ。五大権の人達皆優しいし。私達、迷惑かけてる自覚あるから、本当に困った事がない限り頼るのはやめとこうって決めてるの」
「そうか。それは悪かったな」
「ううん。心配してくれてありがとう」
四人分の緑茶を注ぎ、其々の前に出してくれる八緒。心地良い香りを感じながら、湯気の立っている緑茶を少しだけ嚥下する。二宮も同様だった。
「…………」
じっ、と八緒はその光景を見つめていた。七緒は緑茶には口をつけず、八緒が座るのを確認してから口を開く。
「で、本当は何の要件でここに来たんだよ」
「白羽さんじゃなくて二宮お兄ちゃんが一緒って事は、作戦の件を伝えに来たって訳じゃないよね」
疑問形ではなかった。二人もまた、一華達がこの場にやって来た理由を悟っているのだろうか。とはいえ一華はこの場において、何かが起こった時に仲介する、阻止する役目だ。説明し、二人と対話するのは二宮本人の役目だ。よって、一華は口を開かずに、視線だけを二宮に向けた。
「……作戦を円滑に進めるにあたって、僕は懺悔しなければならない」
そう、口火を切って、二宮は恐怖を誤魔化すかのように膝の上で拳を握り締める。視線は真っ直ぐに二人に向けられていて、その覚悟の強さが伺える。
「僕は、長男だ。君達を守り、支え、面倒を見なければならなかった。けれど……僕はその義務を放棄してしまった。僕は……君達にとっていい兄さんではない」
「…………」
「…………」
七緒と八緒は無言のままだ。余計な茶々を入れずに、次に紡がれる言葉を待っている。
「どこまでも醜くて、抗いもしなかった僕には……君達の兄を名乗る事すら烏滸がましいと思っている。七緒の才能に嫉妬して、自分より弱い八緒に当たり散らして……。言い訳はしない。僕は……どこまでもクズだ」
「…………」
「…………」
やはり何も、答えない。憤りも、悲しみも、何の感情もその表情には映してはいなかった。
「許して欲しいなんて甘えた事は言わない。作戦が終わったら……君達が望む方法で殺してくれたって構わない」
二宮のその言葉に、七緒の眉がぴくりと動いた。依然として八緒は微動だにしなかったが、彼女も彼女で何かしらの感情が湧いているのだろう。静かに、息を吐き出していた。
「でも……一つだけ……たった一つだけ、お願いがあるんだ。父さんの事も、母さんの事も、この先何があっても他の兄妹達を。恨まないであげて。全部、今まで僕が君達に与えた以上で返してくれて構わないから……恨むのは僕だけに――」
「二宮って、本当馬鹿みたいだよね」
重ねて、八緒は口元に冷笑を含めて言った。
「事実馬鹿なんだろうけども……さっきから何が言いたいの? 私達に謝りたいのか、許して欲しいのか、殺して欲しいのか。お父さん達を恨まないであげて? 僕だけを? 馬鹿すぎて笑っちゃうよ、二宮」
八緒は二宮が嫌いだ。それでも最低限の敬称を込めて『二宮お兄ちゃん』と呼んでいた。そしてどんな時でも、笑みを絶やさずに穏やかに人と接してきた彼女が、無表情のままに言葉を紡いでいる。それもまた、二宮によって壊された八緒という少女なのだ。
「二宮の罪は二宮だけのものでしょ? お父さん達の罪を背負う必要もないし、将来的に私が……考えたくないけどお姉ちゃんと喧嘩したとしても、私はお姉ちゃんだけを恨むよ」
「それは……」
「それに、長男の義務って何? そんなもので私世話されたくないんだけど」
「……ごめん。言葉が良くなかったね……」
一華はいよいよ分からなくなってきた。この場で一番行動が読めないのが八緒だ。七緒のように殺意を剥き出しにしている訳でもなく、淡々と嘲るように言葉を並べている。感情の波というものが上手く読み取れないのだ。
そもそも、二宮の言葉は八緒には届いていないのではないか。そんな事が頭に浮かぶ程に、彼女は泰然としていた。
「ねえ二宮。二宮が飲んだお茶にさ、ちょっと入れたんだよね。大丈夫、致死量に至るまでは入れてないから」
何を、とは言わなかったが、薄々察しはついた。良くて下剤。悪くて毒だろう。否、致死量という事は毒の可能性が高い。一華達からずっと背を向けていた八緒は、隠れて二宮のコップにだけ混入したのだろう。しかし流石それは容認しがたい事だ。
「八緒ちゃんそれは本当なのか!?」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんの分には入ってないよ。勿論お兄ちゃんの分にもね。まぁ、人間ってそんなに簡単には死なないからさ。ちょっとお腹下すか吐く程度だよ。飲んでも今日まで生きてる私が保証してあげる」
「ッ、二宮兄さん、今すぐ吐け!」
二宮の肩を掴み激しく揺らすも、彼は苦笑を漏らすだけだった。今の所異常はないようだが、話し合い所ではあるまい。
「おい兄さん!!」
「大丈夫だよ一華ちゃん。八緒は嘘をつく時、瞬きをしなくなるんだ」
「えっ……!?」
「幼い頃からそうだよ。言ったでしょ。僕は君達の望む通りの死を選ぶって。だからびっくりはしても怒りはしないよ」
そう言う二宮の目はどこまでも慈愛に満ち溢れたものだった。八緒は可笑しそうに吹き出して、声を弾ませる。
「やっぱりバレちゃったかぁ……良かった。」
その『良かった』が何を指すのかは分からなかったが、彼女の隣に座る七緒には伝わったらしい。眉尻を下げて、困ったように目を細めて笑んでいた。
「うん。何も入れてないから安心していいよ」
「し、心臓に悪い冗談はやめてくれ……」
「ごめんね、お姉ちゃん」
身体を強張らせていた緊張感が一気に抜けて、一華はへたりとその場に腰を下ろす。
「さてお兄ちゃん、二宮お兄ちゃんにはどのような判決を下しましょうかぁ?」
そんな一華をよそに冗談めかして七緒に話を振る八緒。七緒は暫く考えていたが、
「八緒が決めろよ。じゃねぇと、俺は二宮を殺す一択だからな」
と冗談めかして返した。
「ふむふむ……難しいなぁ。…………。」
七緒の返しに困った様子だった八緒も、少しの沈黙を挟んで口を開く。
「……本当の本当に、少し前まではどうでも良かったの。私が我慢すれば全部丸く収まるし、皆幸せになれるって。死にたくなる程辛くても、それはきっと誰かを責める事になってしまうって。私が死んだら、お兄ちゃんが一人ぼっちになっちゃう。お母さんや二宮お兄ちゃんが自分を責めちゃうって。だから全部受け入れて、私の中に収めてお終いにしよう、って。
でも……前に三央お姉ちゃんに言われた事が頭から離れない。『許す必要はない。我慢する必要はない。ちゃんと拒否しなくちゃ駄目』って。ずっと考えた。でもどうしても分からなかった。私は皆が笑っていればそれでいいから……やっぱり、我慢以上の方法はないんだって」
でもね、と八緒は一度深く息を吐き出して続ける。
「六月ちゃんが本当の兄妹じゃないって打ち明けた時、皆受け入れてたでしょ。それが少し……羨ましかった。六月ちゃんは愛嬌があって可愛いから、赤の他人でも許されたのかなって……嫉妬、しちゃった」
「……それは、違うぞ。あの時、確かに皆戸惑っていた。私は元々知っていたが……六月ちゃんはとても怯えていた。でも六月ちゃんは、君に救われたんだと思うよ」
「どういう事……?」
「あの時、一番初めに口を開いたのは八緒ちゃんだった。君が初めに『気にしない』と言った。場の流れを変えたと言ってもいい。嫉妬したっていいじゃないか。それは、八緒ちゃんが八緒ちゃんだという証だ」
「…………なの、かな……?」
「きっとそうだよ」
「…………。二宮お兄ちゃん。今、決めたから聞いて」
八緒の決意の籠った声色に二宮は静かに頷きを返した。
「私、許したくない! 二宮お兄ちゃんの事も、お父さんの事も、お母さんの事も……忘れたくないから……あの時受けた私の痛みを、なかった事にしたくない……!」
「……うん。七緒、八緒」
腰を浮かせて後退した二宮は、畳の床にそっと手をつき頭を下げる。
「本当にごめん」
練習したのかと疑いたくなる程に、美しさを感じる丁寧な土下座だった。
「私も――ううん。許さないから、謝らなくていいんだよね……?」
これで合っているのか、と不安げに眉尻を下げる八緒に、七緒は言う。
「いいんだよ。……二宮、俺だって、二宮がずっと母さんから虐待を受けてたのは知ってた。でも八緒に暴力を振るってたのは知らなかった。だからこそ……八緒の身体にあった傷を見た日、お前にも殺意が湧いた。それと同時に……どうして自分は何もしなかったんだろう、って……後悔した。
子どもの頃、俺は二宮とは話さなかったから。俺が話し掛けていれば何か違ったのかな、って。俺は何をどうすればいいのか、ずっと分からなかった。その結果、母さんを手に掛けちまったんだけど……」
自分の右手を見下ろし、七緒は重苦しく溜息をついた。彼の手には、まだ母親を殺した感触が残っているのだろうか。
「結局、俺達は同じなんだよ。不器用過ぎたんだよ、皆……」
「お兄ちゃん……」
「やり直すとは言わねぇ。次に八緒を傷付けるような事をしたら……その時は容赦しねぇから」
「……勿論……」
ゆっくりと頭を上げて、二宮は二人を見つめる。
「ありがとう。七緒、八緒」
それは何に対しての礼なのか。それは二宮にしか分からない。けれどもうこの場に殺意を持った人間はいない。それだけでも十分な収穫と言えるだろう。
一華も静かに、表情を綻ばせた。
※※※※
一華と二宮を見送った後、七緒は隣に立っている八緒に問い掛けた。
「なぁ八緒。あれで良かったのか?」
「うんー? んー……うん。私なりに考えて出した答えだもん。これから『霞』と闘うっていうのに、二宮お兄ちゃんと争ってても仕方ないでしょ?」
「そりゃ……全体を見たらそうかもしれねぇけど……」
「いいの。……私が淹れたお茶。何の躊躇いもなく飲んでたでしょ? 二宮お兄ちゃんもお姉ちゃんも」
言われてみればそうだった。
七緒は特に喉が渇いていなかったというのもあり、あの場で茶は飲まなかったが、二人は出された瞬間に口をつけていた。
一華は兎も角、二宮はそこそこ警戒心が強い男だ。加えて、明らかに自分へと殺意を向けている相手から出された物を口にするのは自殺行為に等しい。そういった点においては、二宮は八緒の信頼を勝ち取ったともいえるだろう。
「私の癖の事、覚えてた。結構意識して誤魔化してたつもりだったんだけど……しっかり見てたんだよ」
「…………」
「二宮お兄ちゃんは、やっぱり私のお兄ちゃんなんだよ。それは……お兄ちゃんも知ってるでしょ?」
八緒の含みのある言い方に、七緒は黙り込むしか出来なかった。幼い頃から関わりがなかったとはいえ、二宮の事をまったく知らない七緒ではないのだ。
「それとも、お兄ちゃんは納得してない?」
「……八緒が決めた事なら、異論は唱えねぇよ」
「やっぱり優しいね、お兄ちゃん」
ぎゅっ、と七緒の背に抱き着き、八緒はその背に顔を埋める。
「ずっと私の為に、盾になってくれた。ありがとう、大好き」
「俺も大好き。これからもずっと一緒だぜ、八緒」
「うん、お兄ちゃん」
そしてふと、七緒は思い出したかのように間の抜けた声を発した。
「今日、一華の誕生日だ」
「あっ」
誕生日コールはしても大丈夫だろうか。そう二人一緒に、頭を悩ませるのだった。




