第三十八話 本条二宮
本条二宮は“愛”を知らない男だ。
彼の最古の記憶にあるのは母の顔。母である円はいつも口にしていた。
「貴方のせいで、あの人は私を見てくれない」と。
母は愚かな人だった。本条家に恨みを持つ父の駒になるという条件で――不倫されると分かっていて妻になった筈なのに、父が他の女性の元に行くと子どもの二宮を責め立てる。
言葉を包み隠さずに言えば、二宮は四音以上に平凡だった。否、平凡以下だ。
頭が良い訳でも、運動が出来た訳でも、気を引く愛嬌があった訳でも、特殊な才能があった訳でも、何かに対する野望があった訳でもない。
言ってしまえば、父の野望には応えられない不必要な存在。
母からは毎日のように罵られ、暴力を受け、自分の存在を否定され続けてきた。父からは初めから期待していない、といった態度をとられ、二宮の心は気が付けば死んでしまっていた。自分で自分の価値を見出せなくなっていた。どんなに悲しくても、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、自分にはその感情を露わにする資格すらないのだ、と。
二宮が九歳の時。双子の弟妹が生まれた。二宮という不用品を産んだ円に与えられた最後のチャンスでもあったのだろう。父に縋りついてその双子を身籠ったのか……二宮には想像もしたくない所だが、その双子が二宮の人生をより狂わせていく事になるのは明白だった。齢九という幼い彼は、その時既に悟っていたのだ。
案の定、その五年後に転機は訪れた。
双子の兄・七緒は五歳にしてその才能を開花させた。ひらがな、カタカナは勿論、簡単な漢字や英語まで把握していたのだ。
母は喜び、妹の八緒は不思議そうに首を傾げ、二宮はかつてない程に焦りを覚えていた。今まで、母から暴力を受けていたとはいえ、それは二宮自身の失敗だと思い込む事で乗り越える事が出来ていた。勉強が出来なくても、寝る時間を削って勉強すれば成績は少し上がる。そんな単純な摂理を理解していた二宮は、『努力をすれば報われる』と信じて疑わなかったから。
しかし初めて目にした生まれ持った才能に、二宮は絶望感を覚えたのだ。
「あぁ、僕は本当に要らない子なんだ」と。
血の滲むような努力を重ねて得た才能と、初めから持ち合わせてこれからも更に伸びるかもしれない才能。
両親がどちらを選んで、どちらを切り捨てるか。分かり切っていたから――二宮は絶望した。
母の愛情が此方に向く事はない。仕方のない事だと受け入れて今まで生きてきた二宮の目の前で、自分が欲しかった母の愛情が弟に与えられている。いつしか二宮は、存在すらなかった事にされていたのかもしれない。母の中では、もう長男・二宮という存在はいなかったのだ。
灰色の毎日も流れるように進み、二宮はとうとう越えてはならない一線を越えてしまった。
母の元を離れて、二宮達は本条家の屋敷に住む事になった。それまで会った事もなかった他の兄妹達とも一つ屋根の下で暮らすというストレスも募っていたかもしれない。極力人と関わる事を避けて、二宮は一人でいる事に徹底していた。人との距離感が掴めずに失敗するよりかはマシだと思ったからだ。
他の兄妹達も接し方が分からなかったのか、あまり一緒にいる所は見掛けなかった。そんな時、血の繋がった兄妹の元へ行くのは必然とも言える。
天才の七緒に比べれば、八緒は少し凡庸だったかもしれない。七緒とは違い、何かと孤立する事が多かった。父も七緒の事を一番に気に掛けていたようだったし、一人の時は二宮の元に来るようになっていた。二宮よりかは優遇された立場にいた彼女に、当然妬みを覚えていた二宮にとっては不愉快極まりないだけだったが。
更に言えば二宮は十五歳。受験生真っ只中。寝る間も惜しんで勉強に勤しんでいた彼は、正常な思考や判断力を失っていたのかもしれない。
「二宮お兄ちゃん、絵本読んで~」
「……そんな時間ないから」
「一冊だけ! ダメ?」
「無理。七緒にでも読んでもらえば?」
「七緒お兄ちゃんは今お父さんとお勉強してるの。だから遊べないって……」
心の奥底で、二宮は若干の苛立ちを覚えた。
二宮の提案に、八緒は事情を説明しただけ。理解していたが、まるで仕方なく自分に頼みに来ているかのように感じてしまったのだ。
「あっそ。じゃあ一人で読めば? 文字読めるでしょ」
「う、うーん……」
踵を返してその場を去ろうとするも、服の裾を引っ張られて止められてしまう。
「で、でもね……私、」
「…………っさい……」
「二宮お兄ちゃんと――」
「五月蠅い!!」
バシッ、という乾いた音と共に、八緒の身体が少し浮いた。二宮が持っていた参考書と、八緒が持っていた絵本が床に散らばった。叩かれた頬を抑えて、八緒は呆気に取られた表情で二宮を見上げる。
「ふみや……お兄ちゃん……?」
「ッ、……空気読めよクソガキが……!!」
散らばった参考書をかき集め、逃げるようにその場を去る。
人を――それも血の繋がった兄妹を殴ってしまった。彼女が悪くないのは分かっている。少し苛ついて、衝動的に手が出てしまったのだ。それが倫理的に良くない事は自覚している。しかし二宮は、どのようにして断ればよかったのか分からなかった。
二宮はいつも、母親に殴られていた。そんな彼が頭で『暴力は良くない』と理解していても、それ以外の対応等分かる筈もない。言う事を聞かせる為には、殴るしかない。長年に渡って母から受けた仕打ちが心を傷付けると分かっていても、それ以外の方法等知る由もないのだから。
一度手を出してからは早かった。毎日、とは言わないが何度も懲りずに話し掛けに来る八緒に手をあげてしまった。恐怖に引き攣った表情を向けるのに、何度も何度も二宮の元へやって来る。二宮から受けている虐待の件も誰かに話している様子もない。だからこそ歯止めが利かなかったのかもしれない。
苛立ちが募る。父に、母に、七緒に、八緒に。
二宮はただ誰かに愛されたかったのだ。“愛”がどんなものなのか、想像もつかなかったが温かい物だと信じて疑わなかった。両親の愛を受けた七緒は、眩しい笑顔を浮かべているから。
どうしたら自分もそうなれる?
僕はどうしたらいいんだろう?
どうして僕には――――。
苦しみながら生きて生きて、二宮はついに一筋の希望を掴んだ。
※※※※
――十月十日。
「やぁ一華ちゃん。僕とドライブに行かないかい?」
「…………」
突如として、二宮は白羽宅にやって来てそう言った。家の前に駐車されている青い車体のコンパクトカーは、二宮の愛車だ。機械音痴な彼だが、車の運転と医療機器の扱いに関しては長けているので心配はしていない。しかし、一華の心配は他にあった。
「何故、今?」
そう、タイミングである。
昨日、五輝と六月の前に『レージ』と名乗る男が現れた。これから一華と五輝が中心になって『霞』への対策や今後の動きを打ち合わせしようとしていた所なのだ。
二宮も把握している筈だが、彼は「ちょっとだけさ。一、二時間位?」と引き下がる様子もなく一華を誘う。
「二宮兄さん、日を改めてくれないか? これから――」
「お願いだよ一華ちゃん。今日じゃなきゃ駄目なんだ」
「…………」
助けを求めるように隣に立っている白羽に視線を送る。困ったように溜息をついた彼は、
「五輝君には僕から伝えておくから、行ってきていいよ」
と、まさかの承諾。抵抗感はあったものの、二宮が断固として譲らないのは珍しい事なので、急用があるのかもしれない。そう結論付ける事にして、一華は頷いた。
「……分かった」
財布と携帯(電源は切ったまま)だけ手にして、一華は二宮の愛車に乗り込む。助手席に座り、シートベルトをした一華を横目で見てから、二宮は車を走らせた。
二宮がいつも何を考えているのか、一華には理解出来なかった。ニコニコと笑みを浮かべているのに、本当に笑っている所は見た事がない。二宮は確かに、一華の嫌いな義父に似ているが、それを理由に彼を避けた事は一度もない。二宮自身、嬉々とした様子で一華に話し掛けに来るのだから嫌われてはいない筈だ。
一華は、二宮が八緒に虐待していた事実を知っている。それが原因で七緒と不仲だという事も。しかし一華は知っているのだ。二宮がとても兄妹想いな、優しい兄であるという事を。
二宮がドライブと称してやって来たのは、先日足を運んだ七緒と八緒の活動拠点となっているアパートだった。降りるのかと思いきや、二宮はエンジンを止めただけで車から降りる様子を見せない。
シートベルトだけ外し、彼の目的を探ろうと口を開きかけた時だった。
「はい」
ポケットから取り出したピンクの袋に包まれた何かを、二宮は何の前触れもなく一華に差し出した。
「……それは?」
「プレゼント」
微笑みを張り付けて、二宮は言う。
「お誕生日おめでとう、一華ちゃん」
完全に、忘れていた。
十月十日。それは一華が生まれた日である。継承戦と被っている事は気付いていたのだが、連日騒動が続き頭から抜けてしまっていた。しかし二宮は覚えてくれていたらしい。
「ありがとう。開けていいのか?」
「勿論」
『Happy Birthday』と書かれたシールを丁寧に剥がし、袋の中に入れられていたそれを手の平に取り出す。細かいビーズが幾つか連なっている、年頃の少女が喜びそうなピンクのストラップだった。
「可愛いな」
自分には少し似つかわしくないのでは、と思いながらも可愛い物が嫌いな訳ではない。思わず頬を弛めていると、二宮は小さく呟いた。
「――――……」
「ん?」
ハッキリと聞き取れなかった言葉に首を傾げていると、二宮は「なんでもない」と自嘲気味に笑って誤魔化す。
「女の子の欲しい物が分からなくて……頑張って考えた甲斐があったかなって思ってさ」
「そうだったのか。嬉しいよ、兄さん。ありがとう」
六月のようにスクールバッグにつけようか、なんて考えていると、二宮が口を開いた。
「一華ちゃん。僕は……ちゃんといい兄さんでいれているかい?」
「……私にとっては、いい兄さんだ。昔からな」
薄々、一華は察せていたのかもしれない。二宮が一華の都合を鑑みず、自身の都合でここまで連れ出した事。半ば無理矢理に近いお願いの内容を、確認するかのように問う。
「話し合うのか?」
「……蔑んでくれていいよ。僕はずっと……七緒に嫉妬して八緒に当たり続けてきた。謝ったからって許されるとは思ってないよ。彼女には一生……消えない傷を負わせてしまった。彼女を壊してしまったのは僕だ。そして……七緒にも。僕、知ってるんだ。七緒は、八緒の為にわざとあぁしてるって」
二宮の言葉を傾聴しながら、一華は受け取ったストラップを丁寧に袋の中へ仕舞う。
「……以前、ある人に兄妹の中で誰を一番警戒すべきか、って聞かれた事がある」
最初に行われた二宮と四音の戦いの後で亜閖に問われた質問に、一華はこう答えた。
「『私含めた全員、警戒対象だ』。私はそう答えたよ」
「…………」
「私には役目がある。当主になって本条家を再建するという使命が。その信念は……少し道を外せば最悪の展開になる」
一華の父・零の代の継承戦が良い例だ。彼は継承戦開始と共に、隣に座っていた兄弟の首を跳ねたという。一華の中で何かが違っていれば、父と同じ行動を取っていたかもしれない。そう心のどこかで感じていた。
「二宮兄さん。兄さんは、医者として患者の命を救わなければならないという責務がある。兄さんはまだ、その道を違えてはいないよ」
「それは……無理矢理なフォローだよ。例え八緒の怪我を治せたとしても、彼女に与えた傷をなかった事にもする気はないし、癒えるとも思っていない」
「そうかもな。だが、それは二人にも聞いてみないと分からないかもしれないぞ」
七緒が二宮に対して殺意を抱いているのは想定内の範囲だ。兄妹が一致団結して『霞』という敵を倒す為には、蟠りを解消しなければならない。そんな考えから二宮は一華を連れてここまでやって来たのだろう。
「行ってみよう。私もついてる」
「……そうだね」
意を決したような芯の通った声に頷きを返し、二人は車から降りて二人のいる部屋に向かった。




