第三十六話 お互い大変ね
《ホテル本条・廊下》
ロシア国主、ファリドの従者であるエカテリーナ・マクシモヴナ・トルスタヤは隣に立つ女性に視線を向けた。自身等の主に部屋を出るように指示されて早数十分。フランス国主、マティスの従者、カミーユ・フォンテーヌは微動だにせずそこに立っていた。
先程から足の位置がまったく動いていない。それどころか視線すら動いてない気がする。しかし瞬きはしているのでちゃんと生きてはいるらしい。
エカテリーナはそもそも沈黙というものが苦手だ。自分がお喋りな訳ではないが、何もしていない、無音の空間がどうもむず痒い。今年で三十五になるのに落ち着きがなくてどうする、と主には言われたが、苦手なものは苦手なのだ。
意を決して、エカテリーナはカミーユに話し掛けた。
「ね、ねぇ……」
「…………」
話し掛けても返事はなかった。聞こえていないだけかもしれない、と今度は少し声のボリュームを上げて話し掛ける。しかし返事はない。
(あーこれ無視されてるわ……)
若干の苛立ちを覚えながら、エカテリーナは怒気を含んで再三呼びかける。
「ねぇカミーユ・フォンテーヌさん!?」
どこぞの国主のように呼び掛けてしまったが気にしている暇はない。再三呼びかけても無視を貫くこの女にいよいよ殺意が生まれてきたのだから。
「無視は酷くないカミーユさん!?」
「…………」
「ちょっと聞いて――」
「……すぅ……すぅ……」
彼女の口から微かに漏れる吐息。それは呼吸音というよりも寝息に近い。
「えっ、えぇぇ……立ったまま……それも目開けて寝てんの!?」
エカテリーナは驚きを露わにしつつも、カミーユの肩を揺さぶる。一応はお互い仕事中の身なので居眠りがバレてしまえば主の名誉にも傷がついてしまう。今の所、人が通る気配もないが、彼女達の為にも急いで起こしてあげなければ。
それに、ファリドとマティスの秘密の会話はいつ終わっても不思議ではない。強く肩を揺さぶっているとパチパチ、とカミーユが目を瞬かせた。どうやら意識が覚醒したらしい。
「アンタ、寝てたの?」
「……寝不足だったもので」
すみません、と言ってからカミーユは深呼吸を繰り返す。
「お互い大変ね。でも、無視されてた訳じゃなくて良かったわ……。何気こうして二人で話すのは初めてよね?」
「そうですね。こんな時、どんなお話をすれば良いか分からず……話題を考えている内に居眠りしてしまっていました」
一応は考えてくれたんだ、と内心喜びつつエカテリーナは「そっかぁ」と返す。
ファリドとマティスの仲がいいからといって、従者である彼女達は基本的に会話をしない。更に言うのであればマティスについて来る従者が毎度違う、というのもあるが。
継承戦の間の滞在期間に彼女を選んだという事は相当な精鋭なのだろうが、そこはエカテリーナの知る所ではない。
会議中にマティスの後ろに立つ彼女は、凛としていて人を近付けさせない美しさがある。しかし深い紺色のロング丈ワンピースの下に、微かにだが不自然な形が浮き上がっている事から、武器を隠し持っていると伺える。
立ったまま寝ていた事にしろ、只者ではないのは確かだ。待っている間も退屈なのだから、今の内に少しでも仲良くなるのもいいかもしれない、とエカテリーナはカミーユに話を振る。
「そういえば、カミーユさんいくつ?」
「女性に年齢を聞くのは失礼ですよ」
確かにそうだけども、という言葉を飲み込んで、エカテリーナは食い下がる。
「女同士なんだからいいじゃない! 教えてよ~」
「……貴女より上です」
「え?」
エカテリーナは現在三十四歳。しかしカミーユは二十代とも見て取れる。それはエカテリーナにも言える事なので、もしかすると彼女はエカテリーナが二十台と勘違いしているのかもしれない。
若く見られる事は嬉しいが、いくら何でもそれは買いかぶりすぎだろう、とエカテリーナは軽快に笑い飛ばす。
「あっはは。私三十四だよ~?」
「存じ上げております。ですから、それより上だと申しております」
なんてこった、とエカテリーナは息を飲んだ。その剥きたてのゆで卵の如き肌や、年齢を感じさせない毛先まで水分が行き届いた髪は何なんだ、とまじまじと見つめる。その視線に疑問を抱いたのか、カミーユは首を傾げた。
「何か?」
「……アンタ……何者?」
「従者のカミーユ・フォンテーヌです」
「いや、そうじゃなくて……アラサーアラフォーでもそんなに若い奴いないわよぉ?」
「私はアラフィフです」
「!!!!!?」
今度こそエカテリーナは言葉を失った。
一説によると、生まれながらに魔力を有している人間は、老いる事が通常よりも遅いと言われている。エカテリーナも魔力を持ち合わせている為、実年齢より若く見られる事が多い、という訳なのだが、それにしてもカミーユは若く見えすぎる。
(アラ、フィフ……? え、アラフィフってAround fiftyの事よね……? 四十後半か、五十前半って事!? この女何なのホント……)
「まぁそんな事はさておいて……」
おいておけるか、と言い掛けてエカテリーナは押し黙った。
カミーユの視線がファリドの部屋の扉に向いていたからだ。もしかすると話を終えたのかもしれない、とエカテリーナも少し身構えるが一向に扉が開く気配はない。それどころか人の気配があるかどうかも怪しい位に静けさを帯びていた。
「可笑しいわね……静かすぎない?」
「……あれは……三十年程前の事」
と、突然カミーユが語り部のように話し始める。
「正確には二十七年と三ヵ月二十日十三時間二十六分四十九秒前」
「そこまで細かくなくていいわ」
「日本に留学中だったマティス様とファリド様は……使用人の監視を抜けて屋敷を飛び出し、沖縄に観光に行かれました」
「何してんのあの二人……」
若かりし頃、ファリドの従者を務めていた父から、「ファリド様は中々やんちゃな気質をお持ちだった」とは聞いていたが、まさかそんな事をしていたとは初耳だった。それも、マティスも一緒だったとは、意外にも程がある。
規律を重んじるファリドと、美しく淑やかにをモットーとしているマティスが従者や使用人の断りもなしに脱走していたと考えると、尚の事信じがたい話だった。
「そして脱走を繰り返し都内の街は勿論、北海道、千葉、長野、静岡、愛知、京都、大阪、愛媛、島根、鳥取、長崎、鹿児島と観光に赴いた挙句、日本四十七都道府県を網羅しようと――」
「ごめん、その辺端折って結論だけ述べてくれる!?」
このままカミーユを喋らせていては時間が掛かって仕方ない、と悟ったエカテリーナは彼女の言葉を遮る。というかどんだけ日本を観光したかったんだあの二人は、と今すぐにでもツッコんでやりたくなった。
カミーユは暫く黙り込んでから、言いたい事だけを纏めて述べる。
「四十二、四十五にもなって従者を困らせよう等と考えるとは思いたくありませんが……彼等は所謂プロなので……」
バンッ、と扉を勢いよく開けてカミーユは部屋の中に押し入った。もしも彼女の考察が間違っていた場合、失礼どころか命令違反に当たるのだが、その心配は杞憂だった。部屋の中に、二人の姿はなかったのだから。
「え、ええぇぇぇぇっ!?!?」
「すぐに出ましょう」
慌てふためくエカテリーナに反して、カミーユはどこまでも落ち着いていた。これが経験の差か……、とエカテリーナは溜息交じりにホテル本条を後にした。
※※※※
《音城大学病院》
ゲホッ、と五輝は咳込んだ。彼にかけられていた魔眼の能力が解除されたのを確認してから、ファリドは刀を構え直した。
魔眼の操作には相当な集中力が必要となる。マティスの持つ『風切の魔眼』のより攻撃された男は、魔眼を解除する他なかったようだ。マスカレードマスクを着用した男は、ファリドとマティスの登場に然程驚いた様子も見せずに、淡々と述べる。
「国主自らお出ましとはな。余程の暇人なのか」
「まぁな。ずっと部屋の中で書類作業と言うのも身体に悪いからな」
「強がりだな。激しい運動をするとすぐに吐血するお前が、この僕を倒すというのか?」
挑発とも取れる男の言葉に、ファリドは静かに冷笑を漏らした。
「成る程な。全てお見通しという事か」
ファリド――基、アスタフィエフ家の長子が呪いを受け継いでいるという事を知っている人物は少ない。知っているのは五大権と親しい間柄の一部のみ。
そもそも何故、呪いを受けているのか。
ロシアは魔眼の発祥地とされており、今でも魔眼を所有する家系が数知れず存在しているのだ。
しかし、それは力の不平等を意味している。表の世界の同盟関係や世情に関係なく、裏の世界は裏の世界として力の差や立場の差が明確に表れている。ロシアは多数の魔眼を所持している事から、何代にも渡って五大権にその名を連ねていた。
それに不満を持つ者は、決して少なくない。所有している魔眼を各国の国主、もしくは従家に明け渡しても未だに善しとしない者がいるのだから。そこで数代前のロシア国主が受け入れたのが“長子に代々受け継がれる呪い”だった。
心臓に直結している魔力回路の中心核に呪印が植え付けられており、突然魔力や身体を激しく動かすと呪印が発動する仕組みとなっている。結果として、痛みと共に吐血したりしてしまうのだが、逆に言えば基準を覚えておけばある程度コントロール出来る。
生まれた時から呪いと共に生きてきたファリドには、呪いに対する恐怖というものがない。自分の身体の一部で、これまでもこれからも共にあるもの。自身の息子にも同じ呪いがあるのはやはり悔しい気もするが、ファリドは仕方のない事と割り切っていた。
(しかし、さっき奴は『停止』と言っていたな。可笑しいぞ……あの魔眼を持ち合わせている筈がない――)
瞬間。ファリドの思考を遮るようにして男が接近した。男の右手には黒い刀身の刀が。左手には銃が握られている。迫ったのは――
(右!!)
一閃された刀を後退して避ける。
「マティス!」
「はい!」
着地と共に彼の名を呼ぶ。普段見えない青緑色の双眸が輝きを帯びる。マティスが持ち合わせる『風切の魔眼』は、微かな気流の動きを操り鎌鼬のように鋭い刃を纏った風を巻き起こす事が出来るのだ。
ファリドが刀を振るった際に発生した風が、鋭い刃となって男に向かって行く。当然それは避けられてしまう。しかしその隙にファリドは男の懐に潜り込み、刃先を滑らすように振り下ろした。
「つまらない。お前達二人がいてこの程度か」
その言葉に、ファリドの心臓が小さく跳ねた。マティスの耳には届いていないであろう呟きに過ぎなかったのだが、すぐ傍で聞いてしまったファリドの動揺は大きかった。
「ぐっ、!!」
胸を刺すような痛みを感じ、一瞬悶えてしまった。しかし接近してしまった以上、一撃振るう位しないと二度目のチャンスはないかもしれない。その一心でファリドは腕に力込めて勢いよく振り下ろす。軸がぶれてしまった剣撃も避けられてしまったが、すかさず一歩踏み込んで刀を振るい、隙を与えないように攻撃を続ける。
(クソッ、こんな時にマティスが言った言葉が頭から離れねぇ……)
『零が死んでいないとしたら、この話は有益だと思うがね』
あの時は「そんな筈ないだろう」と半信半疑だったが、今になって「もしかするとそうかもしれない」といった予感が頭を過る。しかし――
「ファリド!!」
マティスの声にハッとした時には少し遅かった。黒い刀身がすぐそこまで迫っている。咄嗟に刀で防いだが、男の左手にはしっかりと銃が握られている。
銃口が向けられたと同時に、ファリドの灰銀色の双眸が一層の輝きを帯びた。アスタフィエフ家に代々受け継がれている『氷雪の魔眼』だ。向けられた銃口がピキキッ、と氷に包まれる。
「!」
その間に距離をとるも、無理に身体を動かし続けた挙句、魔眼を発動させた反動がきてしまった。軽く咳込むと、仄かに鉄の味がした。ファリドが咳込んだのと、男の手に握られている銃の銃口に出来た氷を見たマティスが、慌てた様子で彼に視線を向ける。
「ファリド、貴方魔眼を……」
「うるさい……クソッ、気を取られた……」
戦闘が長引くと、回復に時間が掛かってしまうだろう。早々に決着をつけなければ、とファリドは呼吸を整えて立ち上がった。
刀を構え直したファリドに視線を送りつつ、男は手にしていた銃を投げ捨てた。銃口を氷で固められ、使い物にならないと判断したらしい。
「さて。ここで殺してしまうのもつまらないだろう。それに……」
男は視線をファリドから外して、病室の扉を見つめる。とはいえ扉はファリドが切り刻んでしまったので、病院の廊下が見えてしまっているのだが。
騒ぎが公になっているのは知っていた。六月の病室に向かう途中で銃声が鳴り響き、すぐに病院側が避難を促しているので、周辺に人はいないだろう。しかしファリド達の耳に複数の足音が聞こえてきた。
「五輝君! 六月ちゃん! 無事か!?」
黒紅色の髪を高い位置で一つに結わえた、黄金の瞳をした少女。本条一華が慌てた様子で駆け込んできた。彼女は病室の中にいたファリドとマティスを見てぎょっと目を見開く。
「ファリドさんにマティスさん!? 何でここに!?」
「……人が増え過ぎたな」
刀を鞘に納めて、男は微かに口の端を持ち上げる。
「僕の名は『レージ』。偽名だがな、また会おうじゃないか」
「! 待て――」
呼び止めるも『レージ』と名乗ったマスカレードマスクの男は、初めからいなかったかのようにその場から姿を消してしまった。ファリドは警戒を解かずに『レージ』が捨て置いて行った銃を拾い上げる。
銃口が氷で固められているとはいえ、『レージ』と名乗った男の手がかりになるかもしれない。装填されていた銃弾を取り除き、スーツのポケットに仕舞っておく。
「……さて。いくつかお話したい事があります、六月さん」
ファリドが刀を鞘に納めている間に、マティスはそう口火を切った。




