第三十五話 恥ずかしいから言わせんな
《音城大学病院》
声が、聞こえた。
身体がどんよりと重くて、思う通りに動かせない。指先がぴくり、と動かせたのを認識してから瞼をゆっくりと開ける。
霞んでよく見えなかったが、白い天井だという事は理解出来た。何度か瞬きを繰り返すとだんだんと視界が鮮明になって、隣から聞こえてくる声もはっきりとしてくる。
「六月! 俺が分かるか?」
「…………い、つき……」
掠れた声が自分の喉から発せられた。名を呼ぶと五輝は安心したように目を細める。
「あぁ……良かった……」
いつも油断たっぷりで落ち着いた様子の五輝が、緊張の糸が切れたかのように息を大きく吐き出した。初めて見る様子に困惑していると、五輝とは反対側から別の声が聞えてくる。
「六月ちゃん」
「ふみや、も……」
「うん。意識はハッキリしてるみたいだね。どこか痛む所とか気分が悪いとかある?」
「ううん……ない」
ベッドの横に置かれていメモ用紙に書き止める様子を眺めながら、六月は身体を起こさずに視線だけを彷徨わせた。ここは病室だろうか。部屋の中には六月と、五輝と二宮しかいない。一華達はいないのだろうか。
「一華ちゃん達は今、ご飯食べに行ってるよ。交代でついてたからね」
六月の思考を読み取ったかのように、二宮はそう述べた。近くにはいるんだ、と安心する六月をよそに、二宮は今し方六月の容態を書き止めたメモを手に背を向ける。
「電話してくるよ。ついでに問診票も取って来る。五輝君、六月ちゃんを任せたよ」
「おう」
二宮が退出すると、病室内がしんと静まり返った。
ぼんやりと頭を巡らせて、「自分は撃たれたんだ」と六月は思い出す。胸の辺りに意識を向けると、痛みはないが違和感のようなものがある気がする。麻酔が残っているのだろうか。詳しい状況が分からないままでいると、おもむろに五輝が口を開いた。
「すまねぇ、もっと気を配るべきだった。少し考えれば、お前にも危害が及ぶって分かってた事なのによ……」
どうやら五輝は罪悪感を抱いているらしい。しかし六月は、五輝を責め立てようなんて思ってもいないし、彼が悪いとも思っていないのだ。
「勝手に飛び出したのはアタシだもん。五輝が謝る必要ないし」
「……すまねぇ」
我慢出来ずにあの場から逃げ出してしまった、自分のせいなのに。何故五輝が謝る必要があるのだろうか。疑問に思っていると、核心を衝くような言葉が聞こえてきた。
「お前、俺の言葉で何かショック受けたんだろ」
心臓が、ドキリと跳ねた気がした。
五輝が一華への冗談のつもりで言った「血の繋がった兄妹の危機」という言葉。六月は五輝とも――兄妹の誰とも血が繋がっていない。本来ならば関わる事すらない筈の部外者だ。
分かっていた事だが実際に言葉にされると、ぎゅっと胸が締め付けられたように苦しくて。五輝は六月を可愛い妹、と甘やかしてくれる事が多々あったから、そのショックが大きかったのだろう。しかし……。
(実際、アタシは五輝に嘘ついてるんだもん。許される筈がないし、きっと軽蔑される)
五輝に対する罪悪感。そして嫌われるかもしれないという恐怖。とても、真実を言う気にはなれなかった。六月が黙り込んだのを見て、五輝は溜息をつきながら彼女の髪を撫でる。
「教えてくれねぇか? 人の心理は読めても、心意までは読めねぇんだからよ」
「……意味、分かんない」
「そっか」
でもさ、と五輝は続ける。
「生きててくれて良かった。早く治せよ。いつもみたいに甘えてくんねぇと、俺が調子出ねぇんだから」
「自分の為なの?」
「バーカ。励ましてんだよ」
ゆっくりと視線を五輝の方に向けると、気恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。
「……アンタのデレとか、誰得なのよ……」
不器用な励ましに、不器用に返事をする事しか出来なかった。けれどそれは“いつも通り”に出来た筈だ。五輝も、六月に心意を話す事を強制しなかった。その優しさが、とても温かく感じられる。
「ねぇ、五輝」
「ん?」
「五輝はさ、アタシのお兄ちゃんでいてくれるんだよね……?」
「…………」
予想外の質問だったのか、顔を上げた五輝が少し目を見開いた。賢い彼の事だ、六月の言葉の心意を読み取って察してしまうかもしれない。
(って、心意は読めないんだっけ……)
なら安心出来るかな、と一人安堵する。とはいえ首を横に振られてしまえば、今度こそ我慢出来なくなって泣き出してしまうかもしれない。そんな予感を抱きながら六月は五輝の言葉を待つ。
実際には数秒だったが、数分の時にも感じられた長い沈黙の後、五輝は口元を緩めて言った。
「逆に、お前はずっと俺の妹でいてくれるのか?」
「……当り前じゃん」
また、嘘をついてしまった。
六月自身はこれまでも、これからも五輝の妹でいたいと願っている。でも六月の意思に関係なく、五輝や他の者に指摘されたりすれば一瞬で崩れてしまう。破るかもしれない言葉を重ねて、六月の心は重くなるばかり。だが……。
「俺も同じ。恥ずかしいから言わせんな」
五輝のほんのりと赤みを帯びた頬が、全てを物語っていた。苦しくてではなく、嬉しさで涙がこみ上げてきそうだ。それをぐっと堪えながら口元に弧を描いた、その時だった。
「くだらない兄妹愛を見せつけてくれるな。全てが作り上げられた産物とも知らずに」
――知らない、男の声がした。
その声を聞いた瞬間に、五輝は慌てて振り返った。六月も身体を起こそうと力を入れるが、思うように身体が動かない。それでもゆっくりと、何とか身体を起こし、その人物を見つめる。
病室の窓から侵入したらしいその男は、膝下まである漆黒のコートを身に纏っていた。目元を覆う黒のマスカレードマスクのせいでその顔ははっきりとは見えないが、その人物がただ者でない事は見て取れる。直前まで、六月も五輝も気配を感じ取れなかったのだから。
五輝は六月を庇うように立ち、ホルスターから銃を取り出して銃口を男に向けた。
「一応聞いとくが、その出で立ちで病院の関係者とは言わねぇよな?」
「勿論。お前の目はお飾りか」
「ここは部外者立ち入り禁止だぜ。字も読めねぇお馬鹿かい」
あからさまに挑発する男と、それに対して挑発で返した五輝の間に不穏な空気が流れる。
――六月には今、武器となる札が手元にない。それに治癒魔術で止血し、傷を塞いでいるとしても、完全に癒えている訳ではないのだ。思うように身体が動かないし、麻酔が効いていたとしても痛みが走ってしまうだろう。ここは五輝に任せる他ない。
「五輝……」
「大丈夫だ。二宮が帰って来るまでの時間稼ぎ位は出来るさ」
身を案じるように名を呼ぶと、五輝は力強くそう述べた。
「……うん」
六月もそれに対して力強く返す。しかしそのやり取りを見ていた男は、唯一見えている口元を少しだけ上げて言い放つ。
「君に時間稼ぎが出来る程の実力があるとは思えないがな。血の繋がっていない他人の為に、何故そこまでしようとする」
目の前の男は、息をするかのように真実を述べてしまった。
淡々とした声色に、六月は頭での処理が追い付かなかった。
やがて、六月の頭に押し寄せてきたのは、焦りだった。
何故この男がその事を知っているのだろうか。そんな疑問よりも先に真実を述べられ、誰よりも隠したかった五輝に聞かれてしまった事に、心臓が強く跳ねた。
すぐに「何言ってんのアンタ」とでも言えば、まだ誤魔化しが効いたかもしれない。しかし六月は衝撃のあまり、声を発する事すら出来なかった。
「……戯言だな……」
そう言った五輝の声は、心なしか震えていた。
彼はもう気が付いているのだろう。男の言葉が真実であると。六月が五輝の言った「血の繋がった兄妹」という言葉にショックを受けたという事も。
誰よりも賢い彼の中では、全て合点がいった筈だ。それでも戯言だと口にしたのは六月を庇っての事か、はたまた自分が信じたくないだけなのか。どちらにしても五輝が否定してくれたのは、六月にとってはありがたかった。
しかし男は、構わずに続ける。
「信じないのであれば信じなくて構わないが、此方としてはそこの女の子に用事がある」
コツコツ、と靴音をわざとらしく響かせて男は歩み寄る。五輝は迷わずに引き金を引いた。病室から銃声が鳴ったと外が騒ぎになるかもしれない、といった不安は、この場の誰も持ち合わせていなかった。
五輝の発砲した銃弾は確かに男の眉間に吸い寄せられていった。しかし男は慌てる様子すら見せずに躱してみせる。決して遠い距離だった訳でも、どこに撃つと予告した覚えもない。
五輝の視線、銃口の向き、指の動き。それらを察知してから、男は躱した。
「チッ……」
「お前はいい腕をしているな。僕には劣るだろうが」
男は依然とした態度のまま、ゆっくりと歩み寄る。そこに殺気はない。ただただ歩いているだけの筈なのに、六月の背筋には冷たいものが伝っている。
五輝はもう一度引き金を引いた。今度は二発。男の心臓を狙って連続で発砲したそれらも躱されてしまう。
「馬鹿の一つ覚えみたいに発砲するのは止せ。それとも、死が迫りくる恐怖で発砲せざるを得ないのか」
「ハッ、勝手に言ってろ」
「だが、誰か来てしまっても厄介だな。――『停止』」
マスカレードマスクの向こうに、男の目が黄金の輝きを帯びたような気がした。瞬間、五輝は銃を手離し、喉輪を抑えてその場に蹲ってしまった。
「五輝!?」
「ッ、は、ぁ……!?」
「五輝!!」
ベッドから転げ落ちるようにして下り、おぼつかない足取りで五輝の元へ寄る。ベッドから落ちた時の痛みも忘れて、息苦しそうに肩を揺らして浅く呼吸を繰り返している五輝の型を揺らした。
「アンタ、五輝に何したの!?」
「その子の呼吸機能を停止させただけだ。お前が僕の言う事を聞いてくれれば、すぐにでも魔眼を解除してやるさ」
「なっ……!」
男の言葉に、五輝は六月の肩を掴んで首を振った。空気が取り込めなくて苦しいだろうに、赤の他人の身を案じてくれている。それが六月にとって、この上なく苦しかった。
「どうする。もって数分。それ以上は脳に後遺症が残る可能性があるぞ」
急かすような男の言葉が、六月に選択の余地はないのだと告げていた。目的が何であれ、五輝を救う為には自分が応じるしかない。
「…………ごめん……五輝……」
身体に襲い掛かる鈍い痛みを堪えて立ち上がった、その時だった。
病室の扉にいくつもの閃光が引かれ、音を立てて崩れ落ちる。瓦礫と化した扉の向こうから、二人の影が現れた。
「知らない人にはついて行くな、と教わらなかったのか、お嬢ちゃん」
「やれやれ……これは美しくない……穏やかではありませんね……」
「取り敢えず此奴を片付けるぞ、マティス」
「はい……無理はしないで下さいね、ファリド……」
銀色の髪を一つに結わえ、灰銀色の瞳をした眼鏡を掛けた男性。刀を鞘から抜いて真っ直ぐに男を見据えるロシア国主、ファリド・ラファイロヴィチ・アスタフィエフ。
色素の薄いブロンドの髪をさらりとたなびかせ、優雅な笑みを浮かべるもう一人の男性。フランス国主、マティス・サンジェルマンの薄く開かれた瞼からは、青緑色の双眸が垣間見えていた。




