第三十三話 妄想に理由があるのか?
《ホテル本条》
コンコン、と軽やかに扉をノックする音がロシア国主、ファリド・ラファイロヴィチ・アスタフィエフの耳に届いた。本日の体調は比較的穏やかで、書類整理をしながらロシアンティーを飲んでいた所だった。従者のエカテリーナに応答するように指示を出す。
「ファリド様。フランス国主、マティス様がいらっしゃいました」
「マティスだと?」
フランス国主、マティス・サンジェルマン。扉の前でひらひらと手を振り優雅に微笑んでいる。今の所五大権からの呼び出しもなく、珍しく平穏な状態なのだが。彼は何の用事があって現れたのだろうか。
「まぁいい、入らせろ。珈琲でも出してやれ」
「畏まりました」
エカテリーナに連れられてマティスが入ってくる。広げていた書類を片付け、ファリドの向かいの椅子に座るよう促す。彼の後ろには従者のカミーユが控えるように立っている。
「来る前に電話の一本でも寄越したらどうなんだ」
「……体調が悪くて寝ているかもしれないから……ですか?」
「さぁな」
「……元気そうで何よりです……」
「あぁ。比較的な」
ファリドが患っているのは、正式には病ではなく呪いだ。代々アスタフィエフの家系に生まれてくる長子に引き継がれており、気を付けなければいつ死んでもおかしくない、とまで言われる程に強力なものだ。
あくまで病気、という事にしているが、マティスは真実を知っている数少ない友人でもある。だからこそ、電話で確認せず直接やって来たのだろう。
「……お話があって来ました……」
「無かったら来るな」
「……二人で、お話ししたいのですが……」
「………………」
万が一の危険を顧みずに、二人きりで会話したいという事は只事ではないらしい。マティスの前に珈琲を置いたエカテリーナに退出するように伝える。一瞬怪訝そうに眉を顰めた彼女だが、すぐさま一礼して背を向けた。カミーユもエカテリーナに続いて部屋を後にする。
扉が閉められたのを確認してから、マティスは口火を切った。
「……面白い情報を仕入れたから、貴方に教えて差し上げようかと思ったのだよ」
淑やかに敬語を使うマティスだが、限定された人物の前では口調が少し変わる。その変化にも慣れたファリドにとってはツッコむ所ではないのだが。
「面白い情報?」
「梓豪やアンドレイにも話していない貴重なものさ。やはり先に共有するのであれば親友の君かと思ってね」
マティスの中ではファリドは親友の立ち位置にいるらしい。それはファリドにとっても同じなのだが、わざわざそれを口に出す事はしない。
「ほう。して、内容は?」
「…………の前に」
勿体ぶっておいてまだ話を逸らすのか。若干呆れながらファリドは眉根を寄せた。
「この継承戦。始まってから梓豪とアンドレイの口から零の話題が出ていないのに気付いたかね?」
「あぁ? あー……チラッとは出ているんじゃないのか?」
ファリドの記憶が正しければ、梓豪の口から何度か零の名前が出ていた筈だ。しかしマティスは静かに首を横に振った。
「今回、混乱の中心にいるのは瀬波銀治だったけれども……。元を辿れば零のせいなのかなって」
「…………かもな」
否定はしなかった。
本条零。第九十八代目当主で一華の父。黒紅色の髪に黄金の瞳をした彼の姿はよく覚えている。
「他の奴等がいた手前話せなかったが……アイツが諸悪の根源みたいなものだからな……」
「えぇ……国主の順位変動制も、瀬波銀治の一連の行動も……全部あの男のせいでしょう」
「だが、それを止められなかった俺達にも非がある」
「……そうですね」
マティスは悲し気に目を伏せて、先程淹れられたばかりの珈琲を口に運ぶ。ファリドもそれに倣ってロシアンティーを流し込んだ。口の中にほんのりと残るジャムの香りを感じながら、ファリドは溜息をついた。
「しかし、零の話を今した所で意味はないんじゃないのか? 奴は既にこの世にはいない。悲しい事に、な」
口ではそう言うファリドだが、その表情に悲しみは一切ない。人はいつか死ぬものだし、そもそも国主達は近親婚を善しとしているので短命なものが多い。能力値に優れている代償でもあるのだろう、そうファリドは思っている。
「確かに。ですが……」
マティスは一度そこで区切って、重々しく口を開く。
「零が死んでいないとしたら……この話は有益だと思うがね?」
「!!」
珍しく、ファリドが驚愕した。眼鏡越しに見える灰銀の瞳を揺らして、手にしていたカップを落としてしまいそうになる程に。
「…………まさか……」
「……これは……」
一体どこから仕入れた情報なんだ、とファリドは固唾を飲んでマティスの次の言葉を待つ。
「僕の妄想です」
「………………………………。」
沈黙。否、怒りの静寂である。
ファリドは無言で立ち上がり、静かに刀を鞘から抜いた。眉根を寄せ、悪い目付きを更に悪くしてマティスを見下ろす。
「貴様には倅が三人いたな。新たなフランス国主が就く光景を二度も見れるとは俺も幸せ者だ」
「白昼堂々殺害宣告しないでくれたまえ」
「死ね」
「直球」
「死ね」
「え、ちょっ」
「死ね」
「そんなに言われると傷付くのだが」
「言い残す事は」
「ごめんなさい調子に乗りました」
「良かろう」
しかしファリドは刀を鞘に納める事はなく、そのまま仕切り直す。またマティスが冗談を言おうものならすぐにでも斬り掛かるつもりだ。
「さて。貴様の冗談はさておきだ」
「ファリド。確かに僕は妄想だと言ったけれど……何故そんな妄想をする事になったかは分かるかい?」
「あ? 妄想に理由があるのか?」
「勿論だとも。……貴方は、零からその刀を貰いましたね?」
ファリドが手にしている打刀。鍔の部分は向日葵の形をしている、特注品だ。それはまだ零が国主として、本条家の当主として生きていた頃に、友好の証として貰った一点物だった。
「僕も、梓豪も、アンドレイも。当時の五大権であった僕達に、零は同等の価値のある物をくれた」
マティスには百合の文様が入った弓矢。梓豪には口金を牡丹の文様にあしらった六合大槍。アンドレイには薔薇の装飾があしらわれたレイピア。
実力ではなく、本条家当主が他の五大権を選別出来た頃に、零から賜った世界に一つしかない国品と呼ばれる代物だ。
「僕達に限った話ではありませんが……現国主の大半は零から何かしらの品を賜っている。そして零には……五大権から品を献上する」
「確か、懐中時計だったよな? ハンターケースに菊の模様を入れたやつ」
ファリド、マティス、梓豪、アンドレイの四人で案を捻り、至高の一品を贈った。持ち主が死に絶えるまで止まる事のない、特殊な魔法術をかけた代物だ。
「えぇ。『時計とはまた陳腐な。君達の頭が四つ揃ってもこの程度か。何の面白味もない』と、零は言っていたけれどもね」
勿論、苛立ちを覚えなかった訳ではない。今すぐにでも掴み掛かりたかったが、ファリド達はそれをしなかった。
零が玩具をプレゼントされた子どものように目を輝かせていたから。大切そうに懐中時計を持っていたから。照れ隠しだろう、とそう思う事にして、ファリド達は黙っていたのだ。
「懐かしいな。で、それがどうした」
「……国主が死んだ時。基本的に葬儀は全員参加。その国の礼に倣って式は執り行われる。しかし如何なる方法であれ……世界に一つしかない国品は、死体の腕に抱かれて埋められる」
嫌な予感が、ファリドの脳裏を過った。
「おいおい……確かに零の手元は見えなかったが……日本は火葬だろう。俺達もその場面をしかと見た。相違はない筈だ」
「えぇ。ですが……誰も見ていないのだよ。零の国品を」
※※※※
――十二年前。
黒の礼装に身を包んだファリドは、マティス、梓豪、アンドレイと並んで霊柩を見つめていた。質の良さそうな天然木棺の中に眠る、黒紅色の髪をした男性。顔の部分だけが見えるようになっている仕様のそれは、日本では何ら違和感のない棺だ。
「死んだんだな。零は」
ふと、梓豪がぽつりとそう呟いた。ファリドも。マティスも。アンドレイも。何も答えずに見つめ続ける。
自身は感傷に浸っているのだろうか。
ファリドはただ「本条零という男が死んだ」という事実を受け入れていた。別段仲が良かった訳でも、忌み嫌っていた訳でもない。同じ立場の人間であり、自分より上に立つ人。そんな認識でしかなかったのだ。
(嫌になる程性格が悪かったが……死んでしまえば存外大人しいものじゃないか)
そんな事すら考えてしまう。それは隣にいるマティス等も同じなのだろうか。ファリドには知った事ではないが、少し気になる気もする。
「……これから……どうなるんですかね……」
「順位変動。既に統計は出てるらしいよ。ヤッベ、俺下位に落ちるかも」
「歴史は勿論、資産や貢献度だからな……」
「おい、ここではやめておけ」
そう。仮にもこれは本条零という一人の男の死を悔やむ式。例えそこに情がなかったとしても、悲しんでいる人物がいるのだから。
淡い水色の髪をした女性。式が始まる前から涙を流し、霊柩に縋りつきそうな勢いで零の名を呼び続けている。零の妻・数予だ。隣で数予の背を擦っている黒紅色の髪をした少女は娘の一華だ。
本来であるならば、零の後に当主に立つのは娘の一華なのだが、彼女はまだ四歳の幼子だ。父親の死を受け入れているかどうかも怪しい子に、どう言葉を掛けようか。しかし一華の瞳に悲しみは宿っていない。むしろ芯のある真っ直ぐな瞳をしていた。やはり父親が死んだ事を分かっていないのだろうか。
「ほら、次詰まるから行くぞ」
長々と居座るのも不躾というもの。他の三人を諭してファリドはその場を後にしたのだった。
※※※※
十二年前の記憶を手繰り寄せても、薄ぼんやりとしたものしか思い出せなかった。確かに、零の手元は見えていなかったが、ちゃんと係の者が国品を抱かせている筈だ。その段取りを忘れたとなれば言及ものなのだから。
「まぁ真偽を確かめるにも墓荒らしになってしまうからね。でも、不自然だとは思わなかったかい?」
「まぁ……。国品があるという事は国主が生きている証。だが、確かめるにもその葬儀に関わった人物なんて――」
分かる筈がないだろう。と言いかけてファリドはハッとした。もしも、マティスがその人物を突き止めていたとすれば? 彼がファリドに教えたい有益な情報に繋がっているのだろうか。そんな気持ちを込めてマティスを一瞥すると、ふっと頬を弛めるのが見えた。
「担当したのは、鴫札子です」
「何だと!?」
鴫札子とは。銀治の三番目の妻で三男・五輝と三女・六月の母に当たる女性だ。
「何故そこで出てくるんだ!?」
「そこで働いていたから、というだけです。彼女の家柄に目立った功績もないが……彼女に関する情報で一つ気になるものが」
「……それが面白い情報か?」
今度こそ本当だろうな、といった意味合いを込めて軽く睨む。するとマティスはしっかりと頷いた。
「えぇ。……十六年前の二月。彼女は流産しています」
「十六年前の、二月……?」
「僕は思うのだよ。彼女こそが……本条六月に成り代わったあの子が、何か知っているのではないか、と。久し振りに……従者を困らせてみませんか?」
いたずらを企む子供のように含みのある声色で小さくそう言うマティス。ファリドは刀を鞘に納めて口の端を上げた。
「良いだろう」




