第十二話 嘘なんて綺麗なものじゃない
《ホテル本条》
部屋に着くなりアメリカ国主、ジェームズ・ジョーンズはその場に座り込んだ。少しの間とはいえ、自身よりも年上の人達と同じ場にいるプレッシャーに押し潰されそうで堪らなかった。何度か深呼吸を繰り返していると、従者のヘンリー・ウォーレスが水の入ったペットボトルを手渡してくれる。
〈ありがとう、ヘンリー〉
気心の知れた幼馴染の前なので、気兼ねなく母国語で話せる。神経を研ぎ澄ませて日本語を聞き取る必要もないと思うと、少し心が軽くなった気がした。
〈構わない。聞き取れなかった部分はあるか?〉
〈大丈夫。聞き取るだけならまだマシさ……〉
苦笑いを浮かべて、受け取った水を流し込む。今まで冷蔵庫に入れらていたのか、ひんやりとしていて気持ち良かった。ペットボトルに蓋をしながら、ジェームズは自嘲気味に笑う。
〈駄目だなぁ俺……ついてくのに精一杯でさ……〉
〈ついていけているのなら問題はないだろう。お前はよくやってる〉
〈そう、かな……〉
〈あぁ、だから自信を持て〉
ヘンリーからの激励も受け、ジェームズは勢いよく立ち上がった。
〈よし! まずはファリドさんから教わった……えっと……なんだっけ……?〉
〈食事、アレルギー、宗教に関する書類だ。僕が記載しようか?〉
〈ううん、自分でやる。ヘンリーも休憩しておいでよ〉
〈すまない。五分だけ休憩を貰うぞ〉
〈もっとゆっくりしていいのに……〉
きびきびと働いてくれる幼馴染が休憩に入る間、ジェームズはテーブルに置かれていた書類に目を通す。日本語の下には、英語で説明が記載されていた。
〈うわぁ凄い……〉
細かいサービスに目を剥いていると、スマホが鳴り響いた。そこで初めてマナーモードにしていなかった事に気付き、会議中に鳴らなくて良かった、と息をつく。表示には先程連絡先を交換したファリドの名があった。
「わっ、も、もしもし……!?」
《さっきぶりだな。書類は分かったか?》
〈は、はい……! 今書いているところです〉
気を遣って電話してきてくれたのだろうか。なんて優しい人なんだろう、と心のどこかで安心感を抱いていてしまう。
《そうか。何か分からない事があったらいつでも言いなさい。力になる》
〈はい! ありがとうございます〉
《それと──》
そこで一度区切って、ファリドは小さく口にする。
《今はまだ、ここにいる者達は全員敵だと思いなさい。信用出来る者、利用出来る者、媚を売っておいた方がいい者は、おのずと見えてくる》
その口振りはまるで、今こうして世話を焼いてくれているファリドの事も信用してはならない、と言われているようだった。彼の言葉の真意が見えずに、ジェームズは困惑するしかなかった。
〈それは、どういう……〉
《人間不信になれと言っている訳ではない。ただ、用心するに越した事はない。自分で考えて行動するようにな》
〈!〉
自分で考えて行動するように。
それはジェームズの父親がよく口にしていた言葉だった。まるで父から諭されているように感じられて、思わず息を飲んでしまった。
〈……ありがとうございます。そうします〉
《……それじゃあな》
通話を切ると、タイミングを見計らったかのようにヘンリーが戻ってきた。まだ五分と経っていないのに、電話が気になって見に来たらしい。
〈誰からだ?〉
〈ファリドさんだったよ〉
〈……よく、気にかけてくれる人だな〉
ヘンリーもまた嬉しいのだろうか。心なしか、常に無表情の彼が穏やかそうに見えた。
ジェームズは国主になってまだ一か月。右も左も分からない彼等にとってファリドは救いだ。昼間の一件でもそうだったが、身を呈してジェームズを助けてくれた。更には頼ってくれて構わないという。
(いい人で良かった……もっと頑張ろう)
心の中でそう呟きつつ、ジェームズはソファーの背もたれにもたれ掛かった。するとヘンリーが、神妙な面持ちで口を開く。
〈なぁジェームズ。話にも出てたし、今後、そういう事が起こった時の為に言っておくんだが……〉
そう前置きして、ヘンリーは言った。
〈■■■■さんだけは、絶対に信用しない方がいい〉
〈えっ……〉
〈嘘なんて綺麗なものじゃない。関わらない方がいいだろう〉
それだけ言って、ヘンリーは以降その件に関して口を開く事はなかった。誰かに聞かれる事を恐れているのか、それ以上ジェームズに話したくなかったのか。いずれにしても、ジェームズは気になってむず痒い気分だ。
ヘンリーは幼馴染で、ジェームズの世話も何かと焼いてくれる親友だ。だからこそ、彼が面白半分に嘘を言う人ではないと分かっているし、信じたいと思っている。書類に書き込みを進めながら、ジェームズは傍らで思案を巡らせるのだった。
※※※※
ジェームズとの通話を切ったと同時にロシア国主、ファリド・ラファイロヴィチ・アスタフィエフは激しく咳込んだ。その場に蹲り、胸を抑える。
〈ファリド様!〉
慌てて駆け寄って来る従者のエカテリーナ・マクシモヴナ・トルスタヤを片手で制し、ゆらりと立ち上がった。
〈問題ない〉
〈やはりまだ……本日はもうお休み下さいませ〉
〈すぐに落ち着くだろう。いつもの事だ〉
そうは言っているが、顔色が真っ青だという事は自分でも分かっていた。ふらふらとした足取りで、ベッドに倒れるようにしてファリドは寝転んだ。横に立つエカテリーナの視線が痛い。
〈まったく……ライーサ様に付いてきてもらえば良かったですかね〉
〈勘弁してくれないか……マティス達にからかわれるのは御免だ。それに、息子達だけでは不安だからな〉
上の子はもう成人しているが、一番下の子はまだ十にも満たない幼子だ。父親が海外に渡っている間、愛情を注いでやれるのは母親しかいない。ファリドの気遣いはエカテリーナも知っていたので〈そうですね〉と相槌を打つだけに留めてくれる。
〈食事は部屋に運ぶように言ってくれ〉
〈かしこまりました〉
〈それと、もしもジェームズ君から連絡があったらすぐに回せ〉
このまま少し眠ろうか、と思い目を閉じると、エカテリーナの呆れたような声が耳に届いた。
〈随分と、入れ込んでらっしゃいますね〉
きっと、先程ジェームズに述べた忠告も聞いていたのだろう。
〈昔の自分を見ているみたいだからな……〉
やれやれ、と溜息をつかれたような気がしたが、ファリドの意識はすでに闇の中に引き摺り込まれていた。
エカテリーナはファリドがしっかり呼吸している事を確認してから、毛布を掛ける。そして明かりを消して、静かに隣の部屋へと移動したのだった。
※※※※
〈クソッ! 相変わらず前進したのかしてないのか分からない会議だ!〉
部屋に戻るなり怒声を発したのはドイツ国主、エッダ・ハイデルベルク。大股で歩きながら声を張り上げる。
〈おい! レギーナ・フライリヒラート!〉
〈は、ひゃい!?〉
部屋の留守を任せていた従者の名を呼び、パタパタと小走りでやって来た少女に書類を手渡した。彼女が書類を引き出しに仕舞った事を確認してから、エッダは時間を確認して言う。
〈外に飯を食いに行くぞ。少し遠いが、お前が行きたがっていた寿司屋を予約してある。今から行けば丁度いい時間になる筈だ〉
〈ほ、本当ですか!? かしこまりまひた!〉
〈噛んでいるぞ〉
口を開けば一音は噛む従者に呆れながら、エッダはレギーナに戸締りを任せ歩き始めた。道中、同様に外に食事しに向かうらしいルーマニア国主、アンドレイ・ティトゥレスクとその従者であり妻のアリーナ・ティトゥレスクと遭遇した。
露骨に顔を歪めるエッダと、嬉しそうに笑うアンドレイ。不仲、という訳ではないが、彼とは妙に相容れないのだ。
「エッダちゃんもご飯?」
「まぁな。イライラすると腹が減って敵わん」
「そんなに怒ってると、寿命縮むよ~?」
「ほっとけ」
「エッダちゃんも結婚しないの? 多少のストレスは生まれても、解消されるストレスの方が多いからいいよ~」
「プラマイゼロだと思うがな」
アンドレイは従者であるアリーナと結婚している。聞くところによれば子どももいるとか。だがエッダには今のところ、結婚願望というものがないので余計なお世話である。
「ま、そろそろ俺の子達にも婚約者を探そうかと思ってるから、その口実だよ」
「現時点で私は結婚する気はない。それに、何故お前と親子関係にならねばならない」
アンドレイと義親子だなんて考えたくもない。エッダは顔を引き攣らせて言った。
「冷たいなぁ。アリーナちゃんもそう思わない?」
「え!? ええと……」
「やめてやれ」
アンドレイの妻であるとはいえ、立場上は彼の従者。そんな立場のアリーナが夫の言葉に同意するのは、他国の国主であるエッダに失礼だ。
それを分かってやっているとしたら相当性格が悪いが、実際のところがどうなのかは分からない。彼の纏うオーラからは前者のような気もしなくはないが、推測で物事を計るのは良くないだろう。
「ところで話は変わるけどさ。継承戦、誰が勝つと思う?」
梓豪達が一華の肩を持っているので忘れがちだが、あくまで継承戦の参加権は平等に与えられている。特別ルールを適応されているとはいえ、誰も不満を持たないだろう。むしろ相応しいハンデと思ってもらいたいのだから。
だが、一華と白羽が負ける可能性もないとは言い切れない。そうなった際、誰が勝利を掴むのか。アンドレイはエッダに、誰が有力なのか聞きたいのだろう。
エッダは少し考えてから言った。
「勿論、本条一華と一条白羽に勝ってもらわなければ困る。誰が勝つかなんて分かる筈がない。タイミングで勝敗は変わると言ってもいいからな。私からは答えない。憶測で物事を計るのは嫌いなのでな」
正直この回答は咎められるかと思ったが、アンドレイは何も言わずにただ笑うだけだった。
「エッダちゃんならそう言うと思ったよ。じゃあ質問を変えるね。一華ちゃん以外が当主に就くなら、誰がいい?」
その質問は少し予想外だった。先程会議に集まっていたメンバーは共通して一華が国主になるのを望んでいる筈だ。勿論考える必要はあるかもしれないが、わざわざ聞いてくるという事は、アンドレイは梓豪達とは違うというのだろうか。
「その質問の意図は?」
「特に何も。君の言った通り、一華ちゃんが勝つとは限らない。誰にでも平等にチャンスはあるからね。なら平等に選ぶ権利もある。そうでしょ?」
「……あぁ、そうだな」
彼の言う事も尤もだ。平等という言葉を使われてしまっては、エッダも質問に答えなければならないだろう。
だが、それは少し面白くない。
今エッダとアンドレイがいる場所はホテルの廊下だ。他の者達もすでに荷解きは終えているだろうし、何処から人が現れても可笑しくはない。
もし今ここでエッダが誰かに肩入れしている、と誤解を招くような発言をしてみれば、その情報は五大権にも行き届いてしまう。そうなればさらに事がややこしくなってしまうだろう。
不信感が募る国主間でも、10位までの国主達にはその蟠りがない。エッダの不用意な発言で関係を綻ばせるのは御免だ。
(コイツ……生粋のサディストだな)
じろりとした視線を送ると、アンドレイはただ微笑んだ。その笑みが、妙に見下されている感じがして腹立たしい。
「……社交術ならば本条二宮。各国の情勢の理解ならば本条三央」
「…………」
「それぞれ個性があるだろう? 本条一華以外にもなんとかなるだろうよ」
そう、あくまで平等だ。平等に、誰にでも可能性はありうる。そう回答するのが、一番適切だろうと判断した。
エッダの答えに、アンドレイは不満を表すかのように唇を尖らせる。
「やられたなぁ……」
「ふん。そういうお前はどうなんだ、アンドレイ・ティトゥレスク」
「……本条一華が当主にならなければ意味がない。なら平等に、全国主を総入れ替えするべきだ。そう思ってるよ」
「!?」
「あ、あなたっ……!」
何を考えているの、と言いたげにアリーナはアンドレイの服の袖を掴んだ。だが彼はそんな彼女を引き寄せ、優しく髪を撫でた。まるで、自身の冷たい表情を妻に見せないようにするかのように。
「だってそうだろ? 前の代で総入れ替えするべきだった。だらだらと延ばし続けた結果が現状だろうし……俺は今回で最後にしたいね。本条一華が当主にならなければ、俺はそう進言するつもりだよ」
「お前……」
アンドレイの言う全国主の総入れ替えとは、五大権の総入れ替えとは訳が違う。そもそも国主とは、各国の裏の世界内で選ばれた家系が就く決まりになっている。アンドレイは一華が国主に就かなかった場合、各国の国主の入れ替えを進言するというのだ。
そんな事をされては、裏の世界が傾いてしまう。勿論、そこで挫けてしまうようでは、これからも国主としてこの座に居座り続ける事は出来ないだろうが。
鋭く光る緑の双眸に寒気を覚えながら、エッダは正面から彼を睨み付けた。後ろに控えているレギーナも震えて動けないらしい。アンドレイはそんなエッダ達をよそに、アリーナを解放して普段通りの笑みを浮かべた。
「そういう事。継承戦の結果にはケチつけないけど、これくらいはさせてもらうよ」
それじゃあ、とアンドレイはアリーナの手を引いて足早に去っていってしまった。エッダとレギーナの静かな呼吸音だけが響く廊下に、新たな影が現れた。
フランス国主、マティス・サンジェルマンだ。彼の従者、カミーユ・フォンテーヌも同様に、静かに姿を現す。
「……騒がしいね……廊下で不用意に立ち話などするものではないよ……」
「聞いていたのか……ならば話は早い。マティス・サンジェルマン。お前はどう思う」
「……はて……どうでもいい事ですね……。ね、カミーユ」
「はい。我が主は己の力で上位に入れる御方。総入れ替え如きで揺らぐ御方ではありませんから」
「カミーユ・フォンテーヌ! 私を侮辱するのか!?」
カミーユの言い方では、まるでエッダが総入れ替えに怯えているように聞こえる。挑発するような物言いに苛立ちを隠せず、エッダは声を荒げた。彼女の剣幕にも微動だにせず、マティスは人差し指を自身の唇に当てた。
「……お静かに……美しくありませんよ……いついかなる時でも……優雅に美しく淑やかに……」
「さっき大奥でツボっていたのは何処のどいつだ」
「……はて、そんな事ありましたでしょうか……」
「少なくとも私の記憶にはございません、マティス様」
「もういい! お前達を相手にした私が馬鹿だった!」
行くぞ、とレギーナに呼びかけその場を去る。レギーナは「は、ひゃいっ!」と噛みながら返事をして、エッダの後を小走りでついて来た。
ただでさえ寄っている眉根をさらに寄せて、エッダは苛立ちを隠す事なく歯ぎしりする。
「クソッ! どいつもこいつも人を苛立たせる天才か!」
一人吐き捨てるように言ったエッダの後姿を、マティスは静かに見つめていた。その姿すらも洗練されていて、美しいものだった。




