第百二十一話 助けに来たぜ
――――それは、年内最後の国主会議が終わった翌日。一華がアーサーとエレナを救いに広島へ赴いている時の出来事だった。
二人の男女が、街の時計塔の下で待ち合わせをしていた。
一人はほの暗い緑の髪をした男性だ。どこか不機嫌そうに眉を寄せており、苛立ちを隠そうともせずに溜息をつく。
そんな男性に脅えている様子の、緩くウェーブがかかった金髪の女性。黄土色の瞳で、ちらりと様子を窺っている。
やがて、男が声を発した。
〈おい、これでコーヒーでも買ってこい〉
〈……はい〉
財布を手渡されて、女性は近くのコンビニへと足を運ぶ。
日本語は苦手だ。女性の母は日本人だが、幼い頃から日常会話はすべてフランス語だった。簡単な挨拶程度しか分からないので、コーヒー一つ購入するのにも手間取ってしまう。
なんとか買えたので、急いで男性の元へ戻る。
女性の手元から奪い取るようにして、コーヒーの蓋を開けて口をつける。瞬間、男性は顔を顰めた。
〈おい、砂糖は? 何度言えば分かるんだよ。本当に使えない女だな〉
〈……申し訳御座いません……〉
そうだ、男性はコーヒーを飲む時、砂糖をいれていた。すっかり忘れていた、と女性は顔を青くさせながら謝罪の言葉を述べる。
〈私が悪かったですわ。ですから往来で怒鳴るのは――――〉
〈うるさいっ!!〉
〈ッ、〉
けれど言葉を遮って、平手で頬を叩かれた。周囲にいた人が何事かと視線を向けてくるが、男性はお構いなしに責め立ててくる。
〈お前如きが俺に指図するな! 見た目だけの女のくせに!〉
もう一度、と手を振り上げるのが見えた。咄嗟に目を閉じると、聞き慣れない声がした。
「おいおい、白昼堂々DVって馬鹿なのか?」
〈なっ、何だお前は!? 手を離せ!〉
男性の驚いたような声に、ふと目を開ける。振り上げた男性の腕を、しっかりと掴んでいる少年の姿が映った。群青色の髪に、トパーズのような黄色の瞳をしている。
〈俺を誰だと思っている! つーか痛いんだよ! 離せこの野郎!!〉
「ん、その声……あー!!」
〈な、何だ!? 急に大声出しやがって!〉
「じゃあ……この子が……あーあーあー。面影あるわ、あるある」
少年に見つめられて、女性は思わず後退った。その飄々とした態度と声には、どこか聞き覚えがあったが、はっきりと思い出す事は出来ない。
〈何をぶつぶつ言ってんだ! フランス語か英語で話しやがれ!〉
〈うるせぇ、黙れ〉
〈ぐあっ!?〉
男性の手を離し、少年は迷う素振りもなく男性の顔面を殴りつけてしまった。
〈!〉
デジャブを感じた。呆然と殴られた男性を見下ろしていると、少年がこちらに手を差し伸べて――――。
〈おいで、助けに来たぜ〉
と、口にした。
瞬間、思い出す。
〈! まさか、あの時の……〉
先日、とある要人の誕生日パーティーに参加した時に、今のように女性を助けてくれた殿方である、と。あの時はお互いに目元を隠すマスクを着用していたので、想像よりも若い顔立ちの彼の事を思い出すのに時間がかかってしまった。
また会えるなんて、と女性が顔を綻ばせた瞬間、何かを察知した少年が女性の腕を引っ張って抱き寄せた。
なんて強引な、と目を見開いた次の瞬間、女性の立っていたところに青みの強い黒髪の男性が現れた。
〈っ……!?〉
黒髪の男性は、倒れている自身の主と女性達を交互に見つめて、
〈マジで……何があったんだよ〉
と呟く。
〈ジャゾン! 早くあの男を始末しろ!〉
〈はいはい〉
ジャゾン、と呼ばれた黒髪の男性は、殴られた頬を擦っている主を軽くいなしてから、懐へ手を伸ばした。彼の出方を伺いながら、
〈あー……この男の従者ね。お前も見覚えあるわ〉
女性を抱き寄せる腕に力を込めながら言った。
〈人をものみてぇに扱うガキがイキってんじゃねぇよ、バーカ〉
べっ、と下を出しながら挑発されて、緑髪の男性は顔を歪めて激昂する。
〈誰がバカだ! ジャゾン、絶対逃がすなよ! ジョゼット、お前もだ! ただで済むと思うなよ!!〉
鋭い桃紫色の瞳で睨まれ、女性――――ジョゼットは小さく息を飲んだ。
恐怖で固まっていると、ジョゼットを抱き締めたまま、群青色の髪をした少年が小さく口にする。ジョゼットを安心させてくれる、優しい声で。
〈俺についてきて〉
〈は……はい……〉
ゆっくりと頷くと、少年は即座にジョゼットの手を取って駆け出した。
〈待てっ!〉
「そこ! 大人しくしなさい! 警察だ!」
二人を追おうと駆け出すが、騒ぎを聞きつけた警官の姿を見た瞬間、男性もジャゾンも動きを止めた。遠巻きに事を見ていた通行人の誰かが通報したのだろう。
〈チッ。俺が対処するから、お前はあの二人を追え〉
〈……いや、ここは大人しくしていた方がいい、グラシアン。顔は覚えた、問題ない〉
面倒な事になったな、とほの暗い緑髪の男性――――グラシアンは群青色の髪をした少年とジョゼットが走り去っていった方向を睨みつけていた。
繁華街を走り抜けしばらくした頃、ジョゼットは後方を振り返ってみる。けれども、グラシアンもジャゾンも追ってきてはいなかった。それに気付いたのは少年も同様で、ペースを緩める。
一度立ち止まって周りを確認するも、やはり二人の気配はない。ほっ、と息をついてから、ジョゼットは少年を見つめた。
改めて見ると、面影がある。
イタリア国主・ステファーノの誕生日パーティーに参加した時、ジョゼットの叫びを聞きつけて〈絶対に助ける〉と言ってくれたひとと同じ髪色に、綺麗なトパーズのような瞳をしている。
極めつけは、ジョゼットの事を知っているかのように振舞い、助けてくれた事だ。
〈あの、貴方は……以前パーティーでお会いした方ですか?〉
おそるおそる問いかけると、少年はにっ、と笑って〈あ、覚えててくれたんだ〉と口にする。
〈本当は俺が向こうに行こうと思ってたんだけど……こうして会えてよかった〉
その瞬間、ジョゼットの鼓動が強く脈打つ。
〈あ……、ありがとうございます! あの、お名前を教えて頂けませんか? 私、ジョゼット・サンジェルマンと申します〉
〈俺は本条七緒。よろしく、ジョゼットさん〉
本条。それは、裏の世界の事を知る者ならば、誰でも知っている名前だ。
本条家の、七緒という名の少年がどういう人物かは、以前少しだけ聞いた事がある。かなり要注意人物だと認識していたが、ジョゼットは頭にあった情報をかき消した。
〈七緒様……〉
自分を助け出してくれたこのひとが、悪いひとのはずがない。
ジョゼットは、心拍数が上がるのを感じながら、そのひとの名を口にした。
※※※※
ジョゼットと一緒に本条家の屋敷へと戻ってきた七緒は、裏口からこっそりと自身の部屋に彼女を案内した。一華が不在という事もあり、突然の来訪者は追い返される可能性があると思ったからだ。
和室がもの珍しいのか、ジョゼットはきょろきょろと七緒の部屋を見渡す。そんな彼女に座って待っているように伝えて、七緒は急いでキッチンへ向かった。
近くにいた使用人の女性に、「腕をぶつけたから冷やすものがほしい」と嘘を言って氷嚢を受け取り、再び急いで自室へと戻る。
〈ほい。とりあえず、頬冷やしとかないと。赤くなってる〉
〈ありがとうございます〉
先程、男性に殴られた頬に氷嚢をあてがうと、ジョゼットは気持ちよさそうに目を細めた。
けれどもしばらくすると、不安げに眉を下げて問うてきた。
〈あの、お邪魔してしまってよかったのですか?〉
〈大丈夫だよ。迂闊にアイツ等も入って来れないだろうし。ちょっち休んでいきなよ〉
〈……では、お言葉に甘えて〉
そうは言うものの、ジョゼットの表情は晴れない。申し訳なさも湧き上がっているようだが、何よりあの二人が追いかけてくるのではと脅えているのだろう。
〈なぁジョゼットさん。いくつか聞いてもいいかな〉
対策を練るにも、彼女の事やあの男達の事について知っておきたい、と七緒はジョゼットに声をかけた。
〈答えられる範囲であれば……〉と言ってくれたので、七緒は早速、気になっていた事を順番に投げかける。
〈サンジェルマン、って言ってたよな。もしかして……マティスさんの娘?〉
〈……はい。私は、サンジェルマン家当主、マティスの娘です〉
ジョゼットは美しい金の髪をしている。優雅な所作や、丁寧な言葉遣いも、父であるマティスにそっくりだと七緒は思っていた。
やはりそうか、と静かに頷いてから、次の質問に移る。
〈あの男はジョゼットさんの旦那……と、その従者であってる?〉
〈正式には、まだ婚約者ですが……そうですね。同棲もしていますし、幼い頃からの約束でしたから。婚約者の名前はグラシアン・ロベール。従者はジャゾン・メルシエです〉
〈うぅん……どっちも聞いた事ねぇな……〉
〈ロベール家は、防御魔法術に長けた家なんです。先代英国国主のチャーリーさんの奥様が、グラシアン様の叔母にあたる方だと聞いた事があります〉
〈ふぅん……なるほどね〉
先代英国国主も顔が浮かんでこないが、裏の世界の名家の中でも力があるのだと想像はついた。少なくとも、従者を雇うだけの金銭があるのだから。
〈ステファーノさんの誕生日パーティーに行った時、ジョゼットさんは助けを求めてたよな。さっきみたいに、グラシアンに殴られる事は多かったの?〉
〈……そう、ですね……〉
恐る恐るといった様子で、ジョゼットは頷く。
けれどもすぐに、なんでもない事のように笑みを貼り付けた。
〈でも、政略結婚ですから。グラシアン様だって、次期ロベール家当主ですし……何かと当たりたくなる事もあるかと思います。受け止める事も、妻の役目だと……覚悟していましたから……〉
〈関係なくない?〉
政略結婚は、家同士のためのものであって、本人達の意思は関係ない。
ジョゼットはサンジェルマン家の娘として、政略結婚を受け入れる準備もしていたのだろう。婚約者の暴力や精神的支配を我慢して、我慢して。
けれどもう、限界に近かった。
だからこそ、パーティーの時に声をあげたのだと七緒は思った。
一方的に支配されるなんて、妻の役割でもなんでもない。虚をつかれたように目を見開くジョゼットに、七緒はまっすぐ言い放った。
〈ストレス与えてくる当人じゃなくて、関係ない人に当たるとか、一番ダセェじゃん。クズのやる事だよ〉
七緒には恋人も、婚約者もいない。感情論で解決出来る問題ではないだろうし、どうしようも出来ないからこそジョゼットも苦しんでいる。
それでも、七緒は断言した。
〈ジョゼットさんが受け止める必要ないと思う〉
彼女が、一方的な支配に苦しんでいるのは間違っている。
その瞬間、ジョゼットの目から涙がこぼれた。気付いた彼女は慌てて手の甲で拭い、声を震わせながら言った。
〈す、すみません……まさか、そんなふうに言って頂けるとは思ってなくて……ありがとうございます、七緒様〉
────にこりと笑みを向けられた瞬間、ばくんっ、と心臓が跳ねた。
〈……ジョゼットさん。話してくれてありがとね。俺が何とかするから、任せてほしい〉
〈……はいっ……〉
彼女の力になりたい。その一心で、七緒も笑みを返した。
心の中に恋慕の情が湧き上がってくるのを感じながら。




