第百十七話 Caleb Hughes
ケイレブ・ヒューズは三十年前に、エレナ・パートリッジと出会った。
たまたま招待されたパーティーで出会った、穏やかな雰囲気を纏った可愛らしい女性だった。特に、一点の曇りもない空色の瞳が印象的で、たまらず声をかけた事をよく覚えている。
あまり社交の場には現れなかったが、頻繁に手紙のやり取りをして、数ヶ月に一度一緒に食事をして、出会って八年後にプロポーズした。エレナは涙を流しながら喜んでくれた。〈その言葉を、ずっと待っていたわ〉と。
しかし、子宝には恵まれなかった。それでもケイレブは、愛する妻と過ごす時間さえあればそれでいいと、世継ぎの事を考えないようにしていた。
そして、二十年前の夏が始まる少し前。エレナの妊娠が発覚した。
しかしその子はケイレブとの子ではなく、どこの輩とも知れない男との間に出来た子だという。
最初は浮気かとも疑ったが、エレナは襲われたのだと否定した。ケイレブに心配をかけたくなかったと、今の今まで黙っていたらしい。
何も気付いてやれなかったのだ。襲われた時、とてつもなく恐怖を抱いていたに違いない。ケイレブに知られた時の事を思うと、夜も眠れなかったに違いない。
すぐに言ってくれれば、もっと早くに知れていれば、ケイレブもエレナも傷付く事はなかったのに。
しかしきっと、エレナはそんなケイレブの気持ちを考えて、隠す事を選んだのだろう。
そしてエレナは、ある決意をケイレブにこぼした。
〈お腹の子を産みたい〉と。
〈な……何故だエレナ! その子の父親は俺じゃないんだぞ!〉
〈でも私の子よ。お願い、堕ろせなんて……殺せなんて言わないで〉
〈だが――――〉
〈お願い、ケイレブ〉
流石に愛する妻の頼みでも、ケイレブは受け入れる事が出来なかった。
エレナを苦しめた相手が後ろに見えてしまう。きっと、この子を愛する事が出来ない。エレナの子だとしても、ケイレブの子ではないのだ。
それにその子を産んでしまえば、エレナは一生、知らない男に襲われた事を忘れられなくなってしまう。それは、一番避けたい事だった。
その後何時間も説得を続けたが、エレナは折れてくれなかった。最終的には、ケイレブの方が根負けしてしまって。
〈……分かったよ。好きにするといい。だが跡継ぎには出来ない。それだけは分かってくれ〉
〈……えぇ〉
〈子どもを愛する事も出来ない〉とは、流石に口に出来なかった。ただ、耐えればいいのだ。
エレナが子を産み、育てている間も。ケイレブはただ、ヒューズ家当主として仕事をこなしていればいい。
一緒に暮らしていれば、価値観も変わってくれるはず。そんな微かな希望を抱く事で、少しでも不安を拭おうと、産まれてくる子どもに好意的になれるようにと、ケイレブはケイレブなりに準備をしてきたつもりだった。
そして一月十三日。
子どもが産まれた。名前は決めていない。
エレナが死んだ。子どもを産んでそのまま、動かなくなってしまった。
許せなかった。最愛の妻を殺した、子どもが。
エレナがいなくなってしまった時の事なんて、考えた事もなかった。共に時間を過ごして、老いるまでずっと一緒にいられると信じて疑わなかったのに。
とても、産まれてきた子を育てるなんて出来ない。エレナを苦しめた男の子ども。エレナを殺した子じゃないか。
――――傍にいられたら、殺してしまう。
そんな危機感を抱いたケイレブは、産まれたばかりの子を施設に預ける事にした。その後二十年、機械のように淡々と仕事をこなして、ただ亡きエレナの事だけを想い、過ごしてきたが――――
「『魔力視の魔眼』?」
少し前に、仕事で同席していた男が、会議の後に開催された飲み会でそう口にした。『魔力視の魔眼』はエレナが所有していたが、その後どうなったのかはあまり興味がなく、久々に聞く単語に思わず前のめりになってしまう。
ケイレブが興味津々な事を好都合と捉えたのか、男はくつくつと笑いながら頷いた。
「そう。アンタの奥さんが持っとった魔眼。それを持っとる奴を見つけたんじゃ」
魔眼は所有者が死亡した場合、血縁者に継承されると聞いた事はあった。エレナには兄弟もいなかったので、おそらく現在『魔力視の魔眼』を有しているのは、ケイレブが施設に預けた子どもだろう。
「奥さんの忘れ形見じゃ。欲しゅうないか?」
「だが、あの子はエレナの子とはいえ……どこの誰とも知らぬ野郎の子でもある」
可能であれば、関わりたくない。
それに魔眼を手に入れる、という事は、あの子の目を奪うという事だ。愛する妻が持っていた力を手に入れられる、というのは甘美な響きかもしれないが、その術をケイレブは持っていなかった。
もう、どうでもいいのだ。
そう言う代わりにぐいっ、と酒をあおっていると、男がにやりと口角を上げたのが見えた。
「それなら、言い方を変えようか」
そう前置きして、男は抑揚のない声で言い切った。
「大事な奥さん殺した子ども、天罰下してもだあれも責め立てんさ」
「────」
悪魔の囁きだ。
男の声には感情が籠っていないが、その表情はどこか愉悦に浸っているようだった。
藍紫の瞳が、鋭くギラついていた。
「手を貸しちゃろうか。儂も、アンタの気持ちはよう分かる。儂も欲しいものがある。協力して損はない思うで……精一杯、サポートさせて頂くけぇ、ね」
その後は、とんとん拍子で話が進んでいった。男の紹介で、腕のいい暗殺者を雇い、エレナの魔眼を取り戻すためにウェールズ家当主を拉致する事にも成功した。
「本当にそれでいいのか」と、心のどこかで思いながら。男や、暗殺者達の言葉には妙な説得力があって、疑問が浮かび上がるたびに「それでいい」と言われているような気がした。
あと少し。あと少しでエレナを取り戻せるというのに――――
※※※※
スマホの着信音が鳴り響いた。
男――――ケイレブは応答ボタンを押し、スマホを耳に当てがった。
『例の作戦は上手くいっとるか?』
電話の相手は、ケイレブの協力者だ。
名は確か、花愛恭介といったか。電話越しで顔は見えないというのに、脳裏に焼き付くほど印象的な藍紫の瞳に見られているかのような感覚を抱きながら、ケイレブは返答する。
「何とも言えない状況だ。それより、何なんだあの姉妹は。ぼったくられたぞ」
『そうか? 可愛いお嬢ちゃんに貢げる、って幸せな事じゃよ』
「冗談は今いらない。それより相談がある。どうやら、本条家当主まで来ているようなんだ。こちらが不利だ、何とか出来ないか」
『へぇ……なるほど。そがいな事に……』
ケイレブが現状を知らせると、恭介は考え込むかのように沈黙した。しかしそれも一瞬の事で、恭介はすぐさまいつもの軽快な声色で告げる。
『そうじゃな。儂からアドバイス出来る事は何もない。だって……』
けれども、ケイレブに告げられた内容は、想像もしていない事だった。
『アンタは、悪党じゃけえ。手を差し伸べる義理はない。』
「は……?」
ケイレブは思わず、目を見開いた。ここにきて突き放すのか、と動揺するケイレブをよそに、恭介は用意されている台詞を読み上げるかのように淡々と言い放つ。
『魔眼コレクターは、さほど珍しいものじゃない。所有権を放棄する人もたくさんいる……何より違法ではないけぇのぉ。じゃが、人様が持っとるものを奪うのは、ただの窃盗じゃろ?』
嫌な汗が、背中を伝うのが分かった。ケイレブが魔眼を所有している人間から、魔眼を奪う事を知っている者は、身内にもいないはずなのに。
第一、エレナの娘から魔眼を奪ってしまえばいい、と唆してきたのは恭介の方だ。それまでの件を知っている者はいないはず。そうたかを括っていたケイレブは、嵌められたのか、と怒りをにじませる。
「お前、何故知っている……」
『逆になして知られとらん思うとったんじゃ? 儂は何でも知っとる。……ケイレブ・ヒューズ殿。皆やっとる、需要がある、なんて言い訳は聞かん。なんせ、今年は皆まとめて、よろしゅうない手口を使ったコレクターを大掃除するけぇのぉ』
大掃除。その単語を強調した恭介は、責め立てるようにケイレブに語りかけてくる。
『アンタは、命さえとらなけりゃいい、なんて思っちょるようじゃが……そういう事じゃあない。裏の世界にこそ規律は必要じゃ。規律がないのなら、儂等が公正に調査し、判断し、判決を下す』
湧き上がっていた怒りが、焦りに変わっていく。
ケイレブがある事実に辿り着いた頃、恭介は高らかに言い放った。
『悪党滅殺・世界平和。アンタは、理想の世界に邪魔な存在じゃ。』
「お……お前っ、まさか『協会』の――――」
花愛恭介という男の正体を口にする事は出来なかった。
突如、ガンッ!! とケイレブの後頭部に、感じた事のない強い衝撃が走ったからだ。
「がっ、あぁぁあっ!?!?」
ぐらりと視界が揺れて、ケイレブはその場に倒れ込んだ。その際に、手にしていたスマホを落としてしまう。
後頭部が痛い。反射的に手で抑えると、ぬるりとした液体が指先に触れた。それと同時に、ケイレブの視界が赤く染まっていく。間違いない、何者かに殴られて出血している。
誰だ、誰がやったんだ、とぼやける視界で振り向くと、そこには見知った顔があった。
「お電話中失礼。もう、ぼったくりだなんて酷いわ。ちゃんと、相応のお仕事をしたじゃないの」
『ソプラノ』だった。手にしている金槌には血液がべっとりとこべりついている。
一度聞けば忘れられない声に反応したのは、電話越しにいる恭介だった。
痛みにもがくケイレブの声を無視して、声を弾ませている。
『あ、その声『ソプラノ』ちゃん? 相変わらず可愛い声しとるのぉ。金は出すけぇ、また儂のとこにも来てくれや』
「気が向いたらね」
「な……なぜっ……!?」
にこやかに返事をする『ソプラノ』を見上げて、ケイレブは問う。消えかかっているケイレブの声を拾った『ソプラノ』は、真っ赤な唇を弓なりに曲げて笑みを浮かべる。相変わらずの美しい笑みに、ケイレブは寒気を覚えた。
「ごめんあそばせ。私、任務失敗って言葉が嫌いなの。勿論、一番はお金だけれども」
コツ、コツ、とヒールの音を響かせて、『ソプラノ』はケイレブに歩み寄る。そして、膝を折ってにこりと微笑みながら、真実を語り始めた。
「私達の依頼主は、最初から恭介さんだったの。『ケイレブ・ヒューズを始末しろ』……それが任務内容。お小遣い、たくさんくれてありがとう。ケイレブ卿のおかげで、弟妹達にもっと豊かな暮らしをさせてあげられるわ。心からの感謝を、貴方に。」
美しい声で言いきって、『ソプラノ』は手にしていた金槌を振り上げる。ケイレブはずるずると這いずって逃れようとするが、それは叶わなかった。
「ぐぁっ────」
再び訪れる強い衝撃に、ケイレブは呻く。
急速に遠のいていく意識の中で、最後に浮かんできたのは――――
〈……エ、レナ…………〉
最愛の、妻の姿だった。
「ふふっ……本当に奥さんが好きだったのね。そうやって誰かを愛する事が出来るというのは、少し羨ましいかもしれないわ。でも、同情は出来ないわねぇ……奥さんと出会う前から、貴方のやり方はよくないものだった。案外、本当に愛していたのは奥さんの眼の方だったりして」
目を細めながら、『ソプラノ』はぴくりとも動かなくなったケイレブの手を取り、優しく手の甲にキスを落とした。
『ソプラノ』が最後に、依頼人に別れの挨拶をする作法でもある。今回は建前とはいえ、依頼人を殺める事になってしまったが、『ソプラノ』は暗い表情を浮かべなかった。
開いたままになっていたケイレブの瞼をそっと閉ざしてやり、『ソプラノ』は近くに落ちていた彼のスマホを手に取った。
「それじゃあ恭介さん。依頼料、ちゃんと払ってね」
『おう。そっちも根回しと、証拠隠滅よろしゅう』
「はぁい」
念を押されたので、『ソプラノ』は早速、恭介という名の男の連絡先を完全に削除した。やりとりは全て対面か、電話で行っていたようなので、裏で手引きしていた人物がいるとは誰も思わない。
他にも消さなくてはならない証拠がいくつかあるが、それを処理出来るのは少し後になりそうだった。
廊下の奥から、複数の足音が聞こえてくる。一華達が、アーサーを救うためにここまで上がってきたのだろう。
そして、その考察は当たっていた。
部屋の惨状を目にした一華は、足をその場に止めて、動かなくなったケイレブを凝視した。
「なっ!?」
「これは……」
白羽、アクセルも続いて、部屋の前で事態を目の当たりにする。
「はぁい、ちゃんと上がってこられたでしょう? 妹貴、案内ご苦労様」
手や顔に飛び散った返り血をハンカチで拭いながら、『ソプラノ』は説明しておく。
「この人がケイレブ・ヒューズ卿よ。もう死んでいるわ。当主様なら三つ隣のお部屋よ」
「……それが、本当の依頼なのか?」
「そうよ。さっきも言ったけれど、私の口からは何も語れないわ。多分、後で知る事になるでしょうから……」
一華は、どこか納得していない様子だった。
『ソプラノ』が、何の躊躇いもなく依頼人を殺めたからだろうか。
睨むような視線を浴びながらも、『ソプラノ』は笑みを絶やさなかった。汚れたハンカチを仕舞いながら、続けて言う。
「早く行ってあげなさいよ。私と妹貴は事後処理という仕事が残っているから。貴方達の事を追ったり、邪魔したりしないわ」
「……そうか」
一華は、何も言ってこなかった。当主とはいえ、精神的に未熟な部分も残る少女にはきつい光景だったかしら、と『ソプラノ』は肩を竦める。
(まぁ、気持ちは分かるけれど)
その言葉を飲み込んで、『ソプラノ』は何でもないかのように貼り付けたままの笑みを深めて、『アルト』に声をかける。
「さ、あと少し。頑張りましょう」
「うん」
すべて片付いたら、少し休みをとろう。せっかく日本にいるのだから、温泉巡りでもしようかしら、と『ソプラノ』は想像を膨らませながら、後始末に取り掛かった。
※※※※
扉を勢いよく開けると、椅子に括りつけられたアーサーの姿が目に映った。髪が短くなっているが、憔悴している様子は見受けられなかった。
「アーサー様! ご無事ですか!?」
エレナは慌てて駆け出して、アーサーの拘束を解き始める。縄が解かれた瞬間、アーサーはエレナの胸倉に掴みかかって怒鳴りかけた。
「おっそいバカエレナ!」
「すっ、すみませんっ! ほんと……マジで遅くなってしまって……」
「バカ! バカ! ほんっとお前って奴は!!」
「すみま――――」
「何回自分を大事にしろって言ったら分かるんだよ!」
何度も謝っていたエレナが、ふと目を見開いた。
アーサーは絞り出したような声色で、けれども勢いを消さずに詰め寄る。
「お前は僕の従者で、家族なんだから……姉貴なんでしょ! なら、そんなボロボロになる前に助けを呼ぶとかしろよ! エレナが死ぬかと思って、めっちゃ怖かったんだからな……」
「アーサー様……」
そして、アーサーはぎゅっとエレナに抱き着いた。
「バカ……エレナのバカ……」
アーサーは一家の当主だが、まだ十五歳の少年だ。誘拐されれば恐怖心も抱くし、エレナが傍にいなくて不安に思っていたのだろう。
そしてエレナも、心細くて怖かったと涙していた。縋るように抱き着くアーサーの背に腕を廻して、肩を震わせていて。
「えへへ……アーサー様にバカって言われるのは嫌じゃねぇや……」
その声は、かすかに震えていた。
「……バカって言われたら怒るんだよ」
「えへへっ、すんません」
「もう……」
「帰りましょう。旦那様達も心配してます」
「……うん」
アーサーの手を取って、エレナは部屋の外で待っていてくれた一華達と合流する。
ケイレブ達の拠点を後にして、入り組んだ路地を抜けてようやく、終わったのだとエレナは実感した。




