第百十五話 来て、くれたんだ……
薄暗い部屋の中。ここはどこだろうか、と視線を巡らせる。
ベッドの上だ。本条家の屋敷にはベッドがないので、家ではないのだろう。
しかし部屋の中を見渡して気付いた事がある。部屋の間取りや家具、ここは白羽の自室ではなかっただろうか。
継承戦の期間の間は一緒に生活していたものだが、個人部屋に入った事はない。数回扉の隙間から見る程度だったので、よくよく見てからじゃないと理解が及ばなかったのだ。
(白羽さんは……)
はて、自分は何か大事な事を忘れているような気がする。しかしそれが何だったのか、ぼんやりとしていて思い出せずにいた。
鼻の奥につくような甘い香りを感じながら、一華はベッドに寝転んだ。
(なんだか疲れたな……休みもあったとはいえずっと忙しかったし、もう少し寝ててもいいよな……)
少しだけ、と一華は枕を抱き締めるようにして、顔を埋めた。
瞬間。
「人の枕で何してるんですか」
「あれ……白羽さん……?」
今の今までいなかったはずの白羽が、ベッドの縁に腰かけていた。流石に見つかってしまっては、横になっているだけ、というわけにもいかない。慌てて身体を起こして、抱き締めていた枕を元の場所に戻す。
「すまない、ちょっと疲れていたみたいだ」
「確かに、こんなにゆっくりした時間は久々ですもんね」
一華に付き添ってくれる白羽も、こうして休日ゆっくり過ごすのは久し振りらしい。
休日だという感覚はないが、今日は二人でのんびり、お茶でも飲みながら過ごすのだろうか……と想像していたところで、ぎゅっと白羽に抱き寄せられてしまった。
「こうして、一華さんをひとりじめ出来るのも久々ですね」
「なっ……!?」
途端に詰められた距離に、心臓が早鐘を打ち始める。しかしそれは本当に自分の心臓の音なのか、酷く曖昧だ。
けれどもすぐ目の前には白羽の顔があって、いつでもキスが出来てしまいそうな距離に緊張感が高まる。
「あ……ちょ……白羽さん……!?」
逃げるように身を引くと、勢いそのままにベッドにもつれ込むようにして倒れてしまった。この体制はますますまずいのではないだろうか、と顔が火照ってしまう。
白羽は差程動揺せず、むしろこのまま行為を続けるつもりらしい。
「一華さん……」
シャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していき、少しだけ顕になった鎖骨を指先でなぞった。その際に、ぞわぞわとした感覚が襲ってくる。
「わっ……あ、あの……」
そんな一華の反応を楽しむかのように、白羽は口角を上げながら手を進めた。鎖骨から首筋に向かって、つつ、と指を滑らせ、耳朶、耳の中まで触ってくる。しかも一華の反応を楽しむように、触り方を変えてくるではないか。
じわりじわりと押し寄せてくる快楽をその身に感じながらも、一華は覆いかぶさってきていた白羽の胸板を押した。
「こ、こういうのは……まだ早いんじゃないだろうか……。ほら、まだ私も当主になって日が浅いし、このタイミングだと調子に乗っていると思われそうで怖いというか……それに、まだ心の準備が出来ていないというかだな……あ、いや、断じて白羽さんが嫌だとかそういうのではなく……」
しかしそれは、びくともしない。一華が全力を出しても、白羽はぴくりとも動かなかったのだ。
そして白羽は、一華の両手をベッドに押し付けてしまった。この時も必死に抵抗しているが、ほどける様子はない。まるで、一華の力が弱まっているようではないか。
両手を押さえ付けながら、ベッドに押し倒されている。白羽は愛おしそうにこちらを見下ろして、
「期待してるくせに」
「────ッ!」
あぁ、またこの言葉だ。白羽は何故こうも一華の本音を察してしまうのだろうか。
指摘された事により、一華の顔はとうとうリンゴのように真っ赤に染ってしまって。あまりの恥ずかしさに、言葉を繋ぐ事も出来なかった。
もごもごと口を動かしている一華を見下ろしながら、白羽はにこりと笑みを浮かべる。穏やかで優しい、綺麗な瞳で一華を見ている。
「ね、一華さん」
そのまま、ゆっくりと顔が近づいてくる。
「愛してます」
そして唇が重なる寸前で、一華の意識は覚醒した。
※※※※
「あ、一華さん。目が覚めましたか?」
目の前に、白羽の顔があった。サングラス越しに見えた瞳は、どこか不安そうだったが、一華は数回目を瞬いて、
「ぅ……うわぁぁぁっ!?」
「痛ぁっ!?」
白羽を突き飛ばしてしまった。
どんっ、と一華の力に負け、白羽は勢いよく数メートルほどふっ飛ばされたではないか。先程まで見ていた光景の中では、一華の力はゼロに等しかったというのに。
「力が戻ってる! ……あれ、現実!? すまん白羽さん、記憶が混濁して……怪我はないか?」
「まぁ、一応鍛えているので」
「そ、そうか……」
慌てて白羽に駆け寄ると、思ったより大事なかったらしい。服についた土埃を払いながら、白羽はゆっくりと立ち上がる。
という事は、あれは夢だったのか。
安堵した反面、夢で残念だと思う気持ちを抱いた、その時だった。
「あらなぁに、もしかしてエッチな夢でも見てたのかしら?」
耳元で、涼やかながらもどこか色気のある声が聞こえてきた。
「『ソプラノ』!?」
そうだ、一華は突如辺りから噴き出したガスを吸い込んで、意識を失っていたのだ。彼女が縄でぐるぐる巻きに拘束されているのを見るに、決着はついたらしい。少し離れたところには、同様に縛られた『アルト』の姿も見えた。
一華に名を呼ばれると、『ソプラノ』はにこにこと効果音のつきそうな愛らしい笑顔を貼り付ける。
「はぁい。それで? 夢の中でサングラスの彼にどんな事されたのかしらぁ」
「な、何もない! 夢の事なんてもう忘れてしまったよ」
「あらあらぁ、照れてるの? 可愛いじゃなぁい」
照れている。図星だった。
一華は色事にめっぽう耐性がない。知識があるとすれば、八緒から借りた少女漫画から得たものくらいだ。
勿論、男女が愛し合って致す行為も知ってはいるが、中身についてはボヤッとしか分かっていない。
好きな人と密着して、押し倒されたというのは、夢であっても一華には刺激が強かった。そういう話を真顔で語れる一華ではないのだ。
薄らと赤く染った頬を隠すように『ソプラノ』から背を向けて、何事もなかったかのようにしらを切る。
しかし『ソプラノ』はまだいじりたりないらしい。ニマニマと目を細めて、囁くように続ける。
「恥ずかしがる事ないわ。当主様とはいえ、貴方も女の子だもの。とくにそういうの、気になっちゃうお年頃でしょう?」
「だから、違うと言って――――」
「想像した事ある? 彼の服の下」
強気に否定しかけて、『ソプラノ』の問い掛けに反応してしまった。それが、間違いだったのだろう。
「きっと、たくましいのでしょうねぇ」
からかうように、『ソプラノ』は一華の耳元で囁いた。
「…………………………………………」
――――想像した事は、ないと言えば嘘になる。しかし『ソプラノ』が想像しているようないやらしい意味ではなく、目に見えて鍛えられた腹筋等を想像していたのであって、断じてそういう意味での想像をした事は、(ないと言えば嘘になるが)ないのだ。
……という支離滅裂な言い訳を心の中で浮かべるが、言葉として口から出てくる事はなかった。代わりに、言い逃れが出来ないほどに赤くなった顔が全てを物語っていた。
赤面しながら無言を貫く一華の反応は、間違いなく図星だと『ソプラノ』は確信している。
「きゃぁーっかわいい! ねぇねぇもっと教えてよ〜」
これ以上からかわれたらどうなるのだろう……、と耳を塞ぎたくなったところで、一連の流れを少し離れた場所から静観していたジュリオが『ソプラノ』の首根っこを掴んで、一華と突き放してくれた。
「はい、セクハラはそこまで」
「いやん優しく扱って」
「優し過ぎるくらいですよ。一華様、体調の方は如何ですか。応急処置になりますが、鼻も手当てしておきましたよ」
「あぁ。何ともないよ。ありがとう」
『ソプラノ』を軽くあしらったジュリオは、一華の身の安否を問うてきた。そろそろ、意識もちゃんと覚醒してきたし、眠る前の事も鮮明に思い出せている。
そういえば、鼻が折れているかもしれないんだった、と一華は確認するように触れてから気が付いた。
「いたっ……」
「触っちゃ駄目ですよ」
骨折は何度か経験があるが、まさか鼻をやるとは思わなかった。ガーゼが張られているせいか、かなり気になってしまう。
その様子を見ていた『ソプラノ』が、眉尻を下げながら言った。
「改めて見ると、酷い有様ねぇ。片目を隠した貴方。私の太腿のポーチに鎮痛薬が入っているの。飲ませてあげて」
「信用出来ませんね」
「まぁ、私だってそこまで鬼じゃないわ。ほら、女の子ってお顔も大事でしょう? それに、痛い事だって極力避けたいはずだわ。当主様、お決めになって」
一華はしばらく考える。
本音を言うと、かなり痛い。鼻血は止まったようだが、痛みが酷いのだ。
しかしジュリオが警戒しているように、敵の暗殺者から貰った薬を信用しきれない部分もある。
『ソプラノ』の表情からは、心意が読み取れない。もしかしたら、ただの善意かもしれない。これ以上考えても無意味かな、と一華は手を差し出した。
「……もらえますか」
「一華様……」
いいんですか、とジュリオは薄く目を見開いた。「毒だとしても大体は耐性があるからな」と返しつつ、一華は考える。
(まぁ、本当にただの鎮痛薬かは怪しいところだが……)
「よく効くわ。約束する」
にっこり、と『ソプラノ』が笑みを深める。やはり怪しい表情だ。
鎮痛薬を受け取ったはいいが、少し躊躇ってしまう。
手の平に収まるほどのサイズの小瓶の中に入った透明の液体。一華は思い切って、栓を開けて口元に近付けた。
その時、ふわり、と甘い香りが漂ってくる。先程の催眠ガスに近い特徴的な匂いだ。
「……やっぱり、甘い匂いがするな」
くい、と思い切って飲み干すと、どろりとした甘さが口の中に広がった。
そして、意識を失っていた際に見た夢のおかげもあって、一華は思い出す事が出来た。オーストリア国主、ザスキアが警告してくれたあの話を――――
「思い出した事があるんだ。『ソプラノ』……さん。貴方、数年前からフェロモン香水や媚薬の製作販売をしているんじゃないか?」
「あら、知っていたのね」
一華が問うと、『ソプラノ』は嬉しそうに頷いた。
やはりそうだ。ザスキアが言っていた、特徴的な甘い匂いのする薬。ある人物にしか作れない特殊な調合法を用いているらしく、高値でやり取りされているという噂があった。その、作り手が、『ソプラノ』だったのだろう。
「正解よ。大儲け、とはいかないけれど、副業としてはいい感じなの。買ってくれた事があるの? やっぱり彼と楽しむため?」
「違うっ! 耐性をつけるためだ!」
アクセルに説明しようとした時もそうだったが、あらぬ誤解を生んでいるような気がする。あくまで、身体に害のある可能性がある薬への耐性をつける訓練のために購入してもらっていただけなのに。
一華が強めに否定すると、『ソプラノ』はからかうようにくすくすと笑った。
「えぇ~残念。本条家当主御用達、なんて肩書きがついたら、売れ行きが倍増するかと思ったのに」
「そんな肩書き、つけさせてたまるか!」
「それより、そろそろ効いてきたんじゃないかしら。痛みは引いた?」
ふと、『ソプラノ』に問われて一華は目を開く。たしかに、薬を飲むまで強く感じていた痛みが引いている。どうやら、本当にただの鎮痛薬だったようだ。
「……あぁ、助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
敵とはいえ、一応は礼を言っておかねば。
本格的な治療は帰ってからになるだろうが、痛みがないだけでもかなりマシだ。
ほっ、と息を吐き出していると、
「うぅっ……」
小さな、呻き声のようなものが聞こえてきた。
今の声は、と反応した一華は、慌てて声の主の元へと向かう。
アクセルに撃たれた足の手当てをされていたエレナが、ゆっくりと目を開けた。空色の瞳はまだどこか濁りが残っており、拘束しているとはいえ、彼女の力では解かれてしまうかもしれない、と緊張感が高まる。
「エレナさん、私達が分かりますか?」
「…………」
ジュリオが問いかけると、エレナは順番にじっくりと視線を巡らせた。味方であろうと襲いかかってくる『狂犬』でない事を祈りながら、一華はごくりと生唾を飲み込む。
「ジュリオさん……と、アクセルさん……。それから……一華様に、白羽さん……。あと、知らない女の人が二人……」
「はい、正解です」
全員の事を認識した。間違いなく、今の意識は一華がよく知るエレナ・ガードナーのそれらしい。ほっと胸をなで下ろしながら、エレナの拘束を解き始める。
エレナは記憶が曖昧になっているようで、きょろきょろと辺りを見渡しながら、その場に立ち上がった。
「何でここに……なんかすっげぇ足がいてぇ……一華様も、顔どうなさったんです? いや……これも夢か?」
「すべて現実ですよ。チャーリー様より命令を受けて、貴方の援護に参りました」
「援護……?」
しばらくの沈黙。そして確認するかのように「味方、なんだよな……?」と呟くように問う。
「そうですよ。一緒に、アーサーさんを助けに行きましょう」
「……………………」
瞬間、ぶわっ、とエレナの両目から涙が溢れ出てきた。それは留まる事を知らず、ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。
「そっか……来て、くれたんだ……」
手の甲で乱雑に拭っているが、涙が止まる事はなかった。一華がハンカチを差し出すと、エレナはそのまま一華の手を掴んで、縋るように彼女の方へと寄せられる。
「何日も走ってるのに、アーサー様見つかんねぇし……生きてるかも分かんなくて……」
そう言葉を紡ぐエレナの声色は、どんどん弱々しくなっていく。否、抑えていたものが溢れ出したのだろう。普段の口調に戻っていても、声は震えていて覇気がない。
本当に、攫われたアーサーの事が心配だったのだろう。知っている一華達がいる事、一華達がエレナに協力するために来た事を知って、余計に感情が抑えられなかったに違いない。
「俺……どうしたらいいか分かんなくて……寂しかったし、怖かったし、こんな気持ちも初めてで……」
「もう大丈夫だ。私達がいるから、安心してくれ」
少しでも早く落ち着けるように、空いている手でエレナの背を摩ってやる。一華よりも身長があるし、鍛えられた体躯の持ち主である彼女だが、今はこの場にいる誰よりも小さく見えた。




