第百十四話 『皆が使っているから』と、侮らないように
男は、手元にあるスイッチと、モニターに映し出された監視カメラの映像を交互に見て、『ソプラノ』という暗殺者の説明していた言葉を思い出していた。
『卿にはこのスイッチを渡しておくわ。地図にアルファベットが書かれているでしょう? それと同じボタンを押すと、仕掛けておいたトラップが発動する仕組みになっているの。どんなトラップか、って? 私特製の催眠ガスよ。使えば、数十分は確実に眠っているわ。その隙に、目を奪うなり好きになさい。まぁ、自分で近付く度胸があるなら、だけど』
癪に障る言い方に一瞬眉を顰めた男だったが、『ソプラノ』がそっと手を握ってきたので思わず身を引いてしまう。手にスイッチを持たせてきたかと思いきや、にっこりと笑みを深めて囁く。
『ピンチ、もしくはチャンスだ、って思った時に使って。卿ならタイミングを間違えない、って信じているわ』
きっと、言葉の選び方が上手いのだと思う。男はそう思う事にして、『ソプラノ』に頷きを返した。
そして現在。
トラップを発動させた男は、カメラの映像をまじまじと見つめる。『ソプラノ』の説明した通りだとすれば、催眠ガスが散布されているのだろう。真白い煙に包まれていて、カメラからでは現状を把握出来ないでいた。
〈くそ、煙でよく見えないな……範囲を考えると、他の奴等のところにも届いているはずだが……〉
薬が効いている間に、目的の魔眼を回収しておきたいというのが本音だ。
しかし、もしも催眠ガスのトラップを回避していたら?
男が姿を現すのは危険だ。ここは『コーラス』の二人に任せるのが賢明な判断だろう。『ソプラノ』が挑発的な口振りで言っていたのも、煙で状況が見えなくなる事態を考慮しての事だったのかもしれない。
〈……待つしかない、か〉
〈なるほどね。あのお姉さん達なら、自力で抜け出して目を回収して帰ってくる。迷わせるだけじゃなかったなんてね〉
隣で男の事を見つめていたアーサーが、嘲笑交じりに呟いた。
〈さんざん金を持っていかれたんだ。このくらいの仕事はこなしてもらわないと困る〉
〈清々しいぼったくりだったよね。若干可哀想だと思ったもん。改めて確認させてもらうけど、魔眼さえ手に入れば逃がしてくれるんだよね〉
〈あぁ〉
『魔力視の魔眼』と『停止の魔眼』さえ手に入れば、この少女の装いをした少年に用はない。もともと殺すつもりはない。ゆえに、どれだけ口うるさく要求を出されても、けして感情的にならないように気を配っていた。
あと少しだ。あと少しで、愛しの彼女に会える。
悦びに浸っていると、アーサーが問い掛けてきた。
〈ねぇ、どうしてこんな大胆な事したの? 僕はウェールズ家当主だ。誘拐騒ぎなんて起こして、無事でいられると思ってるの?〉
〈……策はある。当然、お前に話すつもりはないがな〉
魔眼さえ手に入れば、あとは逃げるだけだ。逃亡の手筈も整っているし、何より信頼出来る協力者がいるのだから。
〈大人しくしておけ〉
そう言い残して、男は部屋を後にする。
〈……エレナ……〉
それは男の呟きだったのか、アーサーの呟きだったのか。小さく発せられた、愛する者の名を呼ぶ声は、静かに消えた。
※※※※
「媚薬?」
一華は今し方出てきた言葉を、そのまま反芻した。
目の前のソファーに浅く腰かけた、真白い帽子に真白いワンピースを纏った高身長の女性。癖一つない、腰の下まである長い黒髪は、毛先まで手入れが届いているようだった。
夜中にすれ違うとやや恐怖感を抱きそうな姿だが帽子の影から見える顔はとても穏やかで美しい。
彼女はオーストリア国主、ザスキア・ツェッテル。対面式で選んだ話題は、なんと「媚薬」という前代未聞の内容だった。
「そう。想像の通りの代物ですわ。男女兼用、もしくは男性用、女性用と幅広く増えてきていますわね」
しかし想像していた内容とは違い、かなり深刻な話だったようで、つらつらと言葉を並べている本人の表情は至って真剣だ。
「覚えておいてほしいのは、それが時に毒になる、という事ですわ」
「どんな薬も、使用量を誤れば毒となる。聞いた事はあるが、何故今それを……」
対面式で話す内容は、もっと他にあるだろうに。本条家の情報を探ろうとする者もいたし、自身のアピールに時間を使う者もいた。
五大権は例外としても、ザスキアのようにそれまで関わりのなかった人物からの話題とは思えない。
一華が疑問を露わにすると、どうしても知っておいてほしい、と言わんばかりにザスキアは言った。
「毒物の使用を得意としている者の間では、今流行っているからです」
「そ、そうなのか」
「えぇ。数年前から、フェロモン香水が流行っていたのですが……何でもその香水や薬は、ある特定の人物しか生成が出来ず、高値で取引されていたと聞きました。特徴は、危険なほど甘い匂いがする、との事です」
その話ならば、風の噂程度で聞いた事がある。しかしそれは、本当に一部の人間の間で流行っていただけで、一華達に実害はなかったし、そんな報告もなかったはずだ。
チラッと盗み見る限り、泉も白羽も思い当たる節はないらしい。これは、注意して聞いておかなくてはならない内容だ、と一華はザスキアの言葉を余さず拾うべく集中する。
「最初は嗜好品として出回っていましたわ。まぁ、表の世界でも売られていますからね。ですが、中には非常に強い興奮作用を起こす種類もあります。筋肉が痙攣したり、酷い場合には簡単に死に至る代物ですわ。まぁ、それは元々毒性の高いものから作られていたので、当然の反応といえばそれまでなのですけれど……」
そこでザスキアは一旦言葉を止めて、嵌めていた手袋を外した。真白い肌だが、隠されていた指先は紫色に変色していて、爪も真っ黒に染まっている。嫌でもおどろおどろしさが伝わってきたが、それよりも驚かされたのがその後だった。
ザスキアがテーブルの上に置かれていた、水の入ったグラスに、人差し指の先を漬け込んだ。第一関節位まで沈めてから、指を離した。
もしかして液体に何かしたのだろうか、と前のめりになって経過を見守っていると、ピシッとグラスにヒビが入った。そして次の瞬間にはパリンッ! と音を立てて原形を無くしてしまったではないか。中に入っていた水は、不自然に泡立っているところもあるが、テーブルの上に溢れてしまっている。
そして段々と、明るいベージュのテーブルが水に触れた瞬間、黒紫に変色していく。しかも触ったところだけでないようで、じわりじわりとテーブル全体を腐らさんという勢いであった。
「水に、あたくしの手から毒を送りました。毒の濃度に耐えられずグラスが割れ、こぼれた水が触れたものを腐らせてゆく。もしも、あれを飲んでいたとすれば……いかがでしょう」
ゾッ、と背筋が凍り、嫌な汗が伝うのが分かる。後ろに控えている白羽や泉も、静かに息を飲んだ。
「今のはあたくしの体内で生成された毒でしたが、害のあるものは数多く存在します。これから、パーティーや会食に参加する機会も多くなってくるでしょう。その時、自分の身を守れるように覚えておいて欲しかったのですわ」
充分に恐怖心を植え付けた事を確認してから、ザスキアはそっと手袋を嵌め直す。もう真っ黒な爪も、紫に変色した指先も見えなくなってしまった。
「一華様は本能がお強いようですし、些細な変化にもすぐに気付かれるでしょう。ですが、念には念を入れておいてください」
ザスキアは、重要な事を教えてくれた。例えそれが広く知れ渡っている物でも、一歩間違えば命取りになると。すっかり黒く腐ってしまったテーブルに目を向ければ、その状況の深刻さがなお一層強調されている。
昔、誰かから教わった『自分の飲み物から目を離してはいけない』という言葉の意味を、知る事となったのだ。
「『皆が使っているから』と、侮らないように」
再度念を押されて、一華はぐっと強く頷いた。
「そうそう。一華様は毒への耐性をつけるためにと、訓練なさっているそうですね。先程言っていた、流行りの媚薬をプレゼントいたします。もちろん、訓練以外にも……お好きなように使ってくださいまし」
「ありがとうございます……?」
一体、どんな顔をして受け取ればいいのやら。
にこにこと笑みを浮かべるザスキアに苦笑いを返して、一華は受け取ったばかりの箱を見下ろした。




