第百十一話 ちょっと遊びましょう
カメラの映像を見る限り、エレナはまだここに辿り着く気配もない。同じところをぐるぐると回っているようだが、その事に気付いているかも怪しいところだ。
横目で彼女の様子を確認してから、アーサーは目の前に座っている男に話しかける。
〈ねぇ。お腹減ったんだけど〉
〈我慢しろ〉
〈もう一週間、ティータイムも出来てない。ご飯はまずいものばっかり。水分ももっととらせろってんだ。こちとら成長期だぞ〉
女装しているとはいえ、心は紳士だ。人前で腹を鳴らしたくもないし、食事は基本的に美味しいものを頂きたい。
〈あーあ。大事な人質が死んじゃってもいいのかなー〉
〈ずいぶんと元気な人質ね〉
と、女の声がした。高いのに、頭の中にすとんと落ちてくる涼やかな声だ。清廉さの中に妖艶さを兼ね備えた、一度聞けば忘れられないような声の持ち主は、部屋の入口にもたれかかって立っていた。
〈卿、電話が鳴っていたわよ。ダメじゃない、携帯はちゃんと携帯しないと〉
〈……そいつを見張っていろ〉
アーサーの目の前に座っていた男は部屋を出ていってしまったが、入れ替わるようにして目の前に女がやってきた。
桃色の美しい髪に、特徴的な青緑の瞳。胸元が大きく空いたスリットドレスを身に纏ったその女は、
〈さて、可愛らしいお坊ちゃん。私と話をしましょうか〉
と、切り出した。
〈前に名乗ったけれどもう一度。私の名前は『ソプラノ』。見ての通りセクシー美女、十人中百人が振り返る美女。というかもはや美女〉
〈うるせぇよブス〉
聞いてもいない事をよく喋る女は『ソプラノ』というらしい。おそらくはコードネームなのだが、これまでに見た事も聞いた事も会った事もない。
一通り自分が美しい、という事を語った『ソプラノ』は、髪をさらりと揺らしながら本題へと移る。
〈『魔力視の魔眼』を持つ狂犬ちゃんは、貴方を助け出そうと飲まず食わずで頑張っているわ。でも私達は仕事の都合上、狂犬ちゃんをここに近寄らせないために、結界を張っている〉
やはり、エレナが路地で迷っていたのはこの女達のせいだったのか、とアーサーは唇を結んだ。
〈卿が言った通り、目当ては『魔力視の魔眼』と『停止の魔眼』。後者を持つ彼がまだ近くに来ていないし、それまでは狂犬ちゃんも迷わせたままよ。可哀想だけれどもね。心配なのは分かるけれど、もう少し大人しくしててくれると嬉しいわ〉
『ソプラノ』の話を聞きながら、アーサーは再度監視カメラの映像を見上げる。
すると、一番上の画面に四人の人影が見えた。間違いない、一華と白羽、そしてアクセルとジュリオだ。アーサーの視線の先に気付いた『ソプラノ』は、声を弾ませて画面に顔を寄せた。
〈やぁ〜ん! いい男が三人も! こっちの娘もかっこいい〜! ムラムラしてきちゃうじゃなぁい〉
〈やめときなよ、全員危ない人だから〉
〈ねぇ、誰オススメ? ちなみにタイプは筋肉質でたくましい御方〉
〈しねぇって〉
〈おい、子どもに低俗な話を聞かせるな〉
と、頬を赤らめて腰をくねらせていた『ソプラノ』に、いつの間にか戻ってきていた男がそっと牽制をかけた。流石に引いているらしい。
〈あら、卿。ごめんあそばせ。私、幼い頃からあだ名は『セクハラ姉貴』ですの〉
〈最悪だな〉
本当に最悪である。ここで初めて、アーサーは男の意見に同意した。
しかしここは静かに、彼等の話に耳を傾ける事に専念する。
〈そこに映っているサングラスをかけた男が、『停止の魔眼』を有している。片目を隠した男が『機械視の魔眼』、隣の無愛想な男が『透視の魔眼』を持っているらしい〉
〈あらあら、豊作じゃない。全て狩るの?〉
〈……いや、目標は変えない。他二人はおまけとして考えろ〉
〈ふふっ。賢明な判断ね〉
魔眼コレクターと聞いていたので、もっと強欲な男かと思いきや違ったようだ。あくまで目的はエレナと白羽の有している二つの魔眼らしい。
何故そこまで、その二つにこだわるのか。会話の流れを汲み取っても理解は及ばなかった。
〈お前は『アルト』と共に、この四人を潰せ。連れてくるのは一条白羽だけで構わない〉
〈うぅ〜ん……重労働でやだぁ〜〉
なんと、『ソプラノ』はこの男に雇われている身のはずだ。雇い主に反抗した、それもくだらない理由だ。暗殺者等の仕事は、基本的に前金を手渡す事になっていると父から聞いた。つまり、この『ソプラノ』という女は、すでに男から大金を受け取っている、という事になる。
仕事が終わるまで、この女の主は男のはずだ。それなのに〈重労働だから嫌だ〉と、はっきり言いきったのだ。それでも仕事人か、と呆れたくもなる。
〈手篭めにされたら寝返っちゃうかもぉ〉
まさか、さらに金をせしめるつもりなのか。じっ、と男に視線を送る『ソプラノ』。
男は何か言いたげに口を開きかけたが、思いとどまったかのように口を閉ざしてしまった。そして、男は溜息混じりに『ソプラノ』の要求を承諾する。
〈……金額を上乗せしよう。二百万〉
〈五百万欲しいなぁ〉
――――この女完全にナメてるじゃねぇか。
思わず口に出そうになった言葉である。
〈…………四百万〉
――――お前も乗せられるなよ。
これも、思わず口に出そうになった言葉である。
四百万、追加で支払われる事になって、『ソプラノ』は大層喜んでいる様子だ。ぱぁっ、と顔を輝かせ、男の手を取ってぴょんぴょん飛び跳ねる。その際に豊満な胸が揺れる。とても揺れていた。
〈はぁい。やっぱり世の中お金! ね、パパ!〉
〈パパじゃねぇわ〉
〈行ってきまぁす!〉
弾んだ足取りのまま、『ソプラノ』は部屋を後にしていく。アーサーと男を残した室内は、気まずい静寂に包まれていた。
チラッと横目で男の顔を伺うと、流石に追加料金を取られるとは思っていなかったらしい。その表情はどこか呆気に取られているようだった。同時に、〈何故承諾したんだ自分は〉と驚いているようでもあって。
アーサーを誘拐した敵とはいえ、なんだか可哀想に思えてくる。
〈……依頼する相手、間違えたんじゃない?〉
アーサーがやんわりとそう告げると、
〈思ったよ……〉
と、どこか落ち込んだ様子の男の声が返ってきた。
※※※※
入り組んだ路地通りを進んでいくと、遠くから靴音のような硬い音が一華の耳に届いた。
「足音……」
そしてそれは、隣にいた白羽も気が付いていたらしい。
「エレナさんでしょうか?」
「いえ、足音は二人分あります。それも、まっすぐこちらに向かってきます」
自我を失いつつあるエレナが、集団行動など出来るとは思えない。アーサーを取り戻した、という連絡も来ていない以上、エレナはまだ一人で周辺をさ迷っているはずだ。
しかし、聞こえてくる足音は確かに二つ。足取りから察するに、迷い込んだ一般人でもないし、業者でもない。まっすぐ、こちらに向かってきているとすれば――――
「はぁい。日本語でいいかしらぁ」
「……姉貴。油断は禁物」
「大丈夫よ妹貴。弁えているもの」
曲がり角から奇襲をかける事もなく、軽い、ゆるっとした挨拶をしてから、二人の美女は並んでこちらを見据えてきた。
「こんにちは、私は『ソプラノ』。こっちは妹の『アルト』。よろしくねぇ」
『ソプラノ』に『アルト』。聞いた事のない名だが、おそらくはコードネームだろう。
彼女達の存在を知らないのは、一華だけだったらしい。白羽達は即座に銃に手を伸ばし、戦闘態勢をとった。『ソプラノ』と『アルト』に戦意はないらしいが、油断は出来ない相手なのだろう。
「『コーラス』の姉妹組……」
「『コーラス』?」
やはり聞いた事のない名前だ。ぽつりと呟いた白羽の口から出た単語を反芻すると、説明してくれた。
「『霞』同様、金で何でも請け負う四姉弟です。それぞれ厄介な能力を持っていると聞いています」
「ですが、雇い主の方はセンスがありませんね」
白羽の説明に続いて、ジュリオはそう述べた。本人を前にしてよく言えたものだ、と一華は内心戸惑ったものだが、煽りも作戦の一つかもしれない、と動向を伺う。
「『コーラス』は、どこの組織よりも欲に忠実。金を積めばころりと鞍替えする事で有名ですからね」
成程、確かにセンスはなさそうだ。
とはいえ、裏の世界において暗殺組織や掃除屋は『金で何でも請け負う』というキャッチフレーズがついているものがほとんどなので、最終的には金額の大きい方へ味方する。それは、一華にでも理解出来る流れだ。
しかしジュリオが言うには、『コーラス』という組織はそのモットーが飛び抜けているらしい。そんな風に知られてしまっては、彼女達の仕事にも支障が出るだろうに。
「具体的に、いくら貰ったのでしょう」
「えぇっと……総額六千万くらい?」
「もう少し巻き上げておきたい」
嘘だろ、と一華は目を剥いた。暗殺者を雇うのにそんなにかかるものなのか、と。その暗殺者集団に援助している本条家は一体いくら払っているのだろうか。想像するだけで寒気がしてきそうだ。
だが、今はそれよりも重要な事がある。あくまで表情は動かさず、一華は一歩前に出て問い掛けた。
「アーサーさんはどこにいる」
「どこかにいるわよ〜」
「では、エレナさんはどこにいるだろうか」
「どこかにいる」
やはり、答えてはくれないようだ。纏っている雰囲気こそ柔らかいものだが、彼女達もプロ。そう易々と情報は与えてくれないが……、
「……いくらくらいで教えてくれる?」
ダメもとで聞いてみると、『ソプラノ』の声色が明るくなった。
「居場所を教えるだけなら、一千万で手を打つわ!」
「いっ!?」
「ぼったくりですね……」
「ここまでくると清々しい気もします」
白羽達も、その金額に驚きを隠せないらしい。ぼったくりの見本市ではないか。
当然、一千万を今この場で用意出来る術もない。
「生憎と手持ちがないな。他に何かないだろうか」
「じゃあ……セッ――――」
「金以外では請け負わない。諦めろ」
「もう、妹貴はサバサバしすぎ。もっと柔軟に、得になる事を考えましょうよ」
「うるさいクソビッチ」
やはり、必要なのは金のようだ。相手の出方が分からない以上、この和やかな雰囲気のまま何とかしたいものだが。
と、一華は気付いた。アーサーの居場所が分からなくとも、この道さえ通してくれれば突破出来るはずだ。
一華は肩から下げていた鞄を開けて、「緊急事態の時に使え」と渡されていたあれを探す。
「一華さん……それは……?」
一華が手にしていたものを見るなり、白羽はぎょっと目を剥いた。
「痛い出費だが仕方がない。事は急を要するからな」
「だからって……それはまずいですよ!」
白羽が焦るのも当然である。一華が鞄から取り出したもの――――それは、札束だったのだから。
分厚さから換算すると百万円ほどになる。勿論、普段からそのような即金を持ち歩いている事はないし、使う事もないのだが、一刻も早くエレナと合流し、アーサーを救い出さなくてはならないのだ。手段は選んでいられない。
「『ソプラノ』さん……だったか。やや少ないが、これで通してはくれないだろうか」
「うーん……いいわよ~。通しちゃう!」
「穏便に解決出来て嬉しいよ」
よし、なんとかなりそうだ。
『ソプラノ』と握手を交わしていると、一華の後ろで、
「ちょっと将来が心配になりますね」
「当主様って、そういうところありますよね……」
「やっぱ、皆さんのところもそうなんですか……」
そんな会話が聞こえてきた。
断じて、金遣いが荒いとかそういうのではないはずだ。いたたまれなくなりながらも、白羽等の方を振り返る。
「皆さん、急ぎましょう」
逃げるように(逃げなくてはならなかったが)、一華はそう呼びかけて三人を連れて路地の奥へと駆け足で進み始める。
(気付かれるのも時間の問題だ。距離を離しつつエレナさんと合流しないと!)
※※※※
手渡されたばかりの札束に視線を落として、『ソプラノ』はにんまりと口角を上げた。
「この厚み……百万円はあるかしら。まぁ、今回の依頼料に比べればはした金だけれど、貰えないよりかはいいわよね」
ボーナスだ。この任務が終わったら飲みに行こう。札束を握りしめながらそんな想像を膨らませているらしい姉に、『アルト』はじっとりと目を細めた。
怪しい。
いくら本条家当主とはいえ、何故都合よく百万円の札束を出せたのだろうか。それも、財布や封筒を介していなかった。怪しさ満点である。
「……姉貴。ちゃんと数えてみろ」
思わぬ収入が入って姉は大喜びだが、確認はしておいた方がいいような気がした。諭すようにそう言うと、『ソプラノ』は声を弾ませたまま数え始める。
「それもそうねぇ。いち、にぃ、さ――――」
札束を指で捲って数えて三つ目で、『ソプラノ』は思わず手の動きを止めてしまった。
紙である。
一万円紙幣のサイズにカットして、誤魔化しが効くようにか側面には紙幣の色が塗られていたが、それ以外は真っ白な紙だったのだ。
本物の紙幣は最初の二枚と、最後の一枚だけ。あとは全部、価値のない紙。百万円あると思っていたものは、実際三万円しかなかった。
やはり、『アルト』の目は正しかった。“女の子がそんな事をするはずがない”とは思ったものの、相手は裏の世界トップの本条家当主。警戒して当然の相手だ。
「そんな事だろうと思った。即金持ち歩いてる時点で察しなよ。馬鹿姉貴」
「…………」
心底呆れてしまって、つい言ってしまう。すぐに「言い過ぎたかも」と気付いて、『アルト』は息を飲む。
「あ……ごめん、言い過ぎた。……姉貴?」
いつもなら笑っている姉が、何も答えない。流石に落ち込んでいるのだろうか、と『アルト』は『ソプラノ』の顔を覗き込んだ。
しかしその時見えた『ソプラノ』の目はいつも通りだった。美しく、華やかで、見るもの全てを魅了しかねない瞳。甘い匂いを鼻に感じながらも、『アルト』は思わず距離を取ってしまう。
「……いいえ、貴方の言う通りだわ。けれどもね」
いつも通りの表情ではいるが、内心とても穏やかではなかったのだろう。甘い匂いに乗せられて、確かな怒りと殺意が感じられた。
「信用を失う事をしちゃあいけないわ。あの娘には、たっぷりと教えてあげなくっちゃならなくてよ」
『ソプラノ』はちゃっかり本物の三万円を回収して、残りの紙を捨ててしまう。
そして袖のところに隠していた金槌を取り出して、くるくると回して遊び始めた。まるで、これからの標的に懇親の一撃を食らわせる準備といわんばかりに。
「戦う理由が出来てよかった。……任務開始時刻までまだ一時間以上あるし、ちょっと遊びましょう、妹貴」
やはり相当怒っていたようだ。カツカツ、とヒールの音を響かせながら、『ソプラノ』は真っ直ぐに、一華達が歩いていった方向を辿った。
「キレちゃった。……苦手なんだけどなぁ」
取り残された『アルト』も意を決して、姉の後を追う。彼女もまた、袖に隠していたハンマーを手にして。




