第百九話 Elena Gardener
どのくらい時間が経っただろうか。
「はい、あーん」
「……………………」
夕食をスプーンですくい上げ口元に運ばれ、それを拒否するべく唇を固く閉ざしてから、どのくらい時間が経っただろうか。
現在、アーサーに食事をとらせようとしているのは、昼間に会った女性とは別の少女だった。
オレンジに近い茶髪を前下がりボブに切り揃えた、青と緑でグラデーションがかった三白眼の瞳。口元と体型を隠すようなぶかぶかのコートを着ているが、そこから覗く肢体はかなり細い。
何より特徴的だったのは、大きな黒いリボンがついたカチューシャだ。顔を近付けられると、リボンが当たりそうになる。
「ほら、口を開けろ」
アーサーがずっと口を噤んだまま、食事を拒んでいる事に苛立ちを感じ始めたらしい少女は、ムッと唇を尖らせた。
しかし、アーサーはそれ以上に不満を抱いている。縛られているので自由に身動きは取れないので、顔を背けて少女から逃れる。
「この年であーんされても嬉しくないんだけど。縄外してくれる?」
「駄目。縄解いたら逃げるだろ」
「チッ」
だからといって、この少女から「あーん」をされるいわれはない。アーサーは顔を背けたまま舌打ちするが、少女が引く様子もなく……。
「嫌なら姉貴を呼ぶけど」
という言葉を受けて、アーサーは思わずたじろいでしまった。
「…………」
そして、思い出す。誘拐されてからずっと、姉貴と呼ばれている女性に「あーん」をされた時の事を。
「はぁい、お口を開けて? それとも、口移しがよろしくて? 私の唇を堪能するチャンスよ」なんて言葉を並べながら、ぐいぐいとアーサーの口に食べ物を運んでくるのだ。
綺麗な女性だし、正直いい匂いもするな、なんて思っていたが、あそこまでされると逆に萎えるというもの。からかわれているのが目に見えていて、アーサーにとっては煩わしくもあったのだ。
姉貴と呼ばれている女性からより、淡々と食事させようとしてくる少女の方が、まだマシかもしれない。
「…………ん……」
そう決断したアーサーは、渋々差し出されていた食事を口にした。何かの野菜らしいが、味付けがされていなくて、独特の苦味だけが口の中に広がる。
「やっぱり美味しくない」
「文句言うな」
むっ、と唇を尖らせながら、少女は言い放った。
「安心しろ。お前が大人しくしていれば、依頼主が警戒する事もない。こっそり説明してやった通り、私達は『大掃除会』のためにここへ来ているんだ」
「分かってるよ。でも、僕の安全は保証されていても、エレナは違うでしょ」
『大掃除会』とは、そういうものだ。父親から少しだけ聞かされた程度の知識と、少女から聞かされた話でしか推察出来ないが、少なくともアーサーが殺されるような事はないだろう。
しかしそれは、アーサーの話であり、彼を助け出そうと必死になっているエレナは別だ。監視カメラの映像を見る限り、かなり消耗している様子。不安は募る一方だった。
少女も、映し出されているカメラの映像を見上げながら言う。
「『狂犬のエレナ』か……部下の心配をするとは、いい主だ────」
「その二つ名で呼ぶな」
アーサーが低い声でそう言うと、少女は不思議そうな表情を浮かべながら、視線をアーサーに戻した。
「エレナは僕の……」
言いかけて、アーサーは口を閉ざしてしまう。
「…………」
アーサーはエレナを家族のように思っているが、彼女はそうではない。アーサーの従者として育てられ、従者でなくては『エレナ・ガードナー』という一人の人間として生きられない。
たとえ心の中でエレナを家族のように思っていても、それを口にする事は出来ないのだ。
「……僕の、何?」
突然黙り込んだアーサーを不審に思ったのだろう、少女は首を傾げながら問う。
「……お前に言う義理はないよね。それより食わせるなら早くしてくれる?」
「横暴……」
結局は、無理矢理話を逸らすしか出来なかった。口元に運ばれる食事を淡々と流し込むようにして、アーサーはカメラの映像越しにエレナを見つめた。
※※※※
遠くから、声が聞こえていた。
それは、エレナ・ガードナーがまだ名のない子どもだった頃の記憶だ。
物心ついた頃には、自分は一人、路地裏で蹲っていた。寒くて、その日を生きているのかも分からない。本能に従って、食べられるものを探す。
ごみを漁り、拾って、奪って。一日一日を乗り越えてきた。
その中で、大人は敵だと確信した。
近寄るな、と物を投げられる。かと思いきや、捕まえようと追いかけてくる。おぼろげだが、そんな毎日が当たり前だった。
似たような境遇の子ども達が、次々消えていく。どうしていなくなったのかは分からなかったが、「捕まったら終わりだ」と身の危険を感じて、ともかく捕まらないように必死だったのを覚えている。
そのために、何人のひとを殺めたのか。
覚えていなかったが、相手が動かなくなればこちらの勝ち。そう認識していた。
いつしか『狂犬』と呼ばれるようになっていたが、それが自分の事を指すのだと知ったのは、かなり後の事である。
今から十年前。転機が訪れた。
拠点としている路地裏の奥に、二人の男が現れた。
一人は、帽子を被っていた。薄らと、金色の髪が見える。
〈――――なぁ、本当にここにいるのか? 例の『狂犬』は〉
〈応とも。間違いない〉
そしてもう一人は、サングラスをかけた黒髪の男だった。
二人共、皺一つない綺麗なスーツを着ている。おそらく、金持ちなのだろう。
そんな二人が、何故こんなところにいるのかは分からないが、いい予感はしなかった。
今までにも、何人もこの路地へやって来て、自分を捕まえようとした。先日も、返り討ちにしたばかりだ。
〈捕獲は僕がやる。君は引っ込んでいなよ〉
〈そうかい。相変わらずなようで何よりだ〉
やはり、捕まえる気だ。下手に動かれる前に、先に仕留めてしまおう。
即座に決断を下して、勢いよく地を蹴った。狙うのは帽子を被った男だ。
〈上からくるぞ〉
〈分かっているさ〉
けれど、二人には気配を悟られていたらしい。ぱちっ、と帽子を被った男と目が合った。青と紫が混じった、美しい目だった。いつか見た、宝石というもののようで、一瞬だけ怯みそうになる。
〈単調な攻撃だな、アレを使うまでもない〉
見惚れていると、帽子を被った男が手にしていたステッキをかざした。瞬間、バチンッ! と頭に衝撃が走って、意識を失った。
目を覚ました時、思うように身体を動かす事が出来なかった。不思議に思って視線を動かすと、逃げられないように支柱に括り付けられている。
顔を上げると、先程の男二人がこちらを見下ろしていた。攻撃を受け、捕まったらしい。
〈放しやがれこの野郎!!〉
かろうじて動かせる足をじたばたとさせて、男達を睨む。けれど、どちらも動じる様子はなかった。帽子を被った男に至っては、おかしそうに笑っている。
〈元気な事だ。ガキのくせに僕の攻撃を食らってぴんぴんしてやがる〉
〈坊主、今暴れたら骨が折れるぞ。大人しくしてような。あ、ビスケットは好きか?〉
サングラスをかけた男が、ジャケットのポケットに手を伸ばした。何が出てくるんだ、と警戒したが、男が見せたのは小さな箱の中に入った、甘い匂いのする食べ物だった。
〈な、何だそれ……〉
〈俺のおやつ。腹が満たされたら少しは大人しくなるだろ。ほれ〉
一つ差し出されたので、おそるおそる食べてみる。サクサクとしていて、ほんのりと甘い。ぱぁっ、と顔を輝かせて、サングラスの男を見上げた。
〈うっ……美味い!! お前いい奴だな!〉
食べ物をくれる人はいい人だ。自分の中での基準はそれだった。
帽子を被った男が、〈何ちゃっかりポイント稼いでるわけ?〉と目を細めていたが、サングラスの男は頭を撫でて、ビスケットをもう一枚くれる。やっぱり、いい人だ。
〈おやつ一つで懐くなんて可愛いもんじゃないか。ちゃんと子どもらしい一面もあって安心したぞ。坊主、名前は何だ?〉
〈さぁ? んなもんねぇよ〉
〈じゃあ、お父さんとお母さんは?〉
〈なんだそれ?〉
〈そうか、分かんねぇか。教えてくれてありがとな。それ全部食べるといい〉
〈やったー!!〉
質問の意図は分からなかったが、お腹を満たせるのなら何でもいいや、と差し出されたビスケットを頬張る。
〈やっぱりついて来て正解だったな。お前に任せていたら、こうはいかなかっただろう〉
〈はんっ、言っておけ。ジャスティス、お前は外で待ってるユリシーズとアメリアと合流しとけ〉
〈一人で大丈夫なのか?〉
〈僕を誰だと思ってるわけ? 余裕さ〉
二人の会話を聞く限り、他にも誰かいるらしい。極度の空腹状態から抜け出した今、普段よりかは冷静になれていた。
〈おっさん、行っちまうのか?〉
帽子を被った男と残されるのは嫌だった。行かないでくれ、と見上げるが、ジャスティス、と呼ばれたサングラスの男は、
〈用事が出来ちまってな。すぐ会えるから、こっちのおっさんで我慢してくれ〉
と困ったように笑いながら言った。
〈仕方ねぇな〉
どのみち、拘束されている以上逃げる事も叶わない。諦めて大人しく言う事を聞くか、と溜息をついた。
〈ねぇ、何なの君達。僕まだおっさんとか言われる年齢じゃないんだけど〉
〈俺もだっての〉
二人はそう愚痴をこぼしながら、いくつか言葉を交わしていた。ジャスティスが去っていってから、帽子を被った男に視線を向ける。
〈なぁおっさん〉
〈だから、僕はおっさんじゃないし。チャーリー様とお呼び〉
〈わ、分かった……?〉
チャーリー、というのが帽子を被った男の名前らしい。覚えられるか不安だな、と思いながらも、とりあえず返事をしておく。
〈お、意外に物分かりはいいじゃないの。さては賢い方だな、お前〉
〈さぁ……。でも、俺はアンタに負けた。これからどうなるのかも分かんねぇし、ひとまず様子を見ておくんだよ〉
〈そう。まぁ、話が通じるならいいや。僕とジャスティスは、君を保護しに来たんだよ〉
〈ほご……?〉
〈ちょっと目を見せろ〉
チャーリーに言われて、顔を上げる。すると、ぐいっ、と目を開かせられる。
〈……やっぱり、魔眼持ちだな〉
〈まがん……?〉
〈特別な力だよ。僕は、君と取引がしたくてここに来たのさ〉
そっと手を離して、チャーリーは縄を解き始める。抵抗しない、と分かってくれたようだ。
〈必要なものは全部与えてあげよう。その代わり、僕の元で働きなさい〉
〈ヤダ〉
〈……まぁ、最初からオーケーが貰えるとは思っていなかったさ。こほん……今よりずっといい暮らしが出来るぜ〉
〈アンタの元で働くってのがヤダね〉
このチャーリーという男に関して、いい印象を抱いていない。どうせ働くというのなら、ジャスティスの方がいい。
〈可愛くねぇクソガキだなぁオイ。そんなにジャスティスの方がいいって言うのかよ〉
〈うん〉
即答すると、チャーリーは眉をつり上げて苛立ちをあらわにした。
〈ハァー!? ムカつくんですけどー!? もういい、何が何でも僕がしつけてやるんだからな! いくぞほら!〉
ぐいっ、と手を引かれて、路地を後にする。ここへ来る事は、二度となかった。
チャーリーに連れられて、ジャスティスと合流する。他にも男が一人と、女が一人いたが、会話をする事はなかった。車に乗せられて、ある屋敷に連れてこられた。いわく、チャーリーの住んでいる場所らしい。とても大きくて、ずっと見上げていると首が痛くなりそうだった。
チャーリーに〈こっちに来い〉と言われて、おそるおそる足を踏み入れる。中も広い。初めて見る光景に目が廻りそうだった。
〈アビゲイル〉
〈あら、おかえりなさい〉
〈コイツ、綺麗にしてやって〉
〈…………〉
慌てて出迎えに来たらしい黒髪の女は、じっとこちらを見つめていた。名前はアビゲイル、というらしい。
よくよく見ると、チャーリーと似た瞳をしている。しかしその表情は優しく、チャーリーとは似ても似つかなかった。
数秒、こちらを見つめていたアビゲイルは、ゆっくりと視線をチャーリーに移す。
〈チャーリーの隠し子……?〉
〈違う。んなわけないでしょ。事情は後で説明するから、綺麗にしてやって。ゲストルームで待ってるから〉
〈分かったわ〉
おいで、と今度はアビゲイルに手を引かれて、屋敷の奥へと移動する。チャーリーどころか、ジャスティスとも離れてしまった。これから何をされるのか想像もつかないが、不思議と恐怖心は浮かんでこない。
ある部屋に入ると、アビゲイルが手招きして近くにくるように指示を出した。
〈ばんざーい、って出来る?〉
〈ん〉
〈えぇ、えぇ、上手だわ。…………あら〉
服を脱がすと、アビゲイルは驚いたように目を見開いた。そして、確認するように聞いてくる。
〈貴方、女の子だったのね〉
〈? そうだけど……〉
性別なんて気にした事はあまりなかったが、自分は女だ。その事実を知るなり、アビゲイルはにこにこと顔を綻ばせる。
〈まぁ……それじゃあ、おめかししなくちゃね〉
ドキドキ、と心臓が音を立てていた。鏡で見た自分の姿が、まるで別人のようだったからだ。アビゲイルに連れられて、また別の部屋に連れてこられる。
コンコン、と扉を叩いて、アビゲイルは部屋に入る。
〈遅かったな、アビゲイル〉
〈ふふっ、チャーリー達を驚かせたくて。じゃじゃーんっ!〉
アビゲイルが拍手をしながら、ひらひらとした布がたくさんついた服を着た自分をお披露目する。ちくちくと視線を感じる、少し恥ずかしかった。
〈ん? 女の子だったのか?〉
〈嘘でしょ。名前何にしようか考えてたの全部無駄になったわ〉
似合っているぞ、と褒めてくれるジャスティスの傍らで、チャーリーは何かを考えこんでいる。しばらくして、思いついたように指を鳴らした。
〈……あ。エレナ、でどうだ〉
〈何が?〉
〈お前の名前だよ〉
〈……いいんじゃねぇのか?〉
名前はないし、別に何でもいい。短い名前なら覚えられるだろう、と首を縦に振った。
〈じゃあ決定な。今日からここで暮らせ〉
今日から、自分は『エレナ』という名前らしい。
この時は、何も感じなかった。ただ、これまでとは違う環境になって、利用されるんだろうな。と他人事のように感じていただけだった。




