第百二話 どんな悪事にも手を出しますよ
「……………………」
蝶花から、あからさまな殺気が伝わってくる。しかし『イージ』は動じる事もなく(むしろ嬉々として)、怒りに塗れた表情を浮かべている蝶花の肩に手を置いて問うた。
「守秘義務はもうないから、詳細も教えてやろうか?」
どんな返答が来るだろうか。
それとも、罵声でも浴びせられるのだろうか。
何にしても、この件に関して『イージ』は面白半分で行動しているので、わくわくが治まらなかった。
そしてあわよくば、『イージ』等の知らない情報が得られるかもしれない。怒りで我を忘れるがいい、とこっそり口の端を持ち上げていると、鬱陶しそうに蝶花は『イージ』の手を払い除けた。
「結構です。奴等の話を聞くと気が狂いそうになるので」
帰りますよ、と後ろで静観していた喜和子に声をかけ、蝶花は歩き始めてしまう。すっかり、元通りに片付いた図書室に用事はないのだろう、そして、『イージ』にももう用事はないのだ。
一番つまらない返答だったな、と『イージ』は肩を竦めながら、蝶花の背に向かって口を開く。
「アンタ達も、何をそんなに拘ってんだか。なに、表の世界の人間に好きな女でも寝盗られたわけ?」
ぴたり、と蝶花の動きが止まった。
「…………」
「……え、マジなの……?」
こればっかりは、『イージ』も予想外である。ただの挑発、からかうつもりで言った言葉だ。
しかし蝶花は図星をつかれたかのように、その場に立ち止まってしまったのだ。彼の表情こそ見えないが、その後ろ姿は先程よりも小さく見えた。
しかしすぐさま姿勢を正して、蝶花はふん、と鼻で笑う。
「……まさか。それは、貴方の妄想というやつですよ」
そして、ゆっくりと振り返った。
青緑の瞳には、光がなかった。虚ろな瞳に『イージ』の姿を映して。にこり、とこれまた感情の籠っていない笑みを張り付けて、
「それではノースロップ先生、次にお会いしたときは……殺します」
と口にした。
「物騒な事を言いますね、二条先生」
とはいえ、学校で蝶花と会うのも、これで最後だ。『イージ』は言いつけられていた任務を達成したし、学校の監視は他の者が引き継いで行うと聞いた。
体育教師、フレディ・ノースロップとしての仕事はもう終わりなのだ。
最後に同僚として言ってやるか、と『イージ』は蝶花に語りかける。
「なぁニジョウ・チョウカ。オレも教師辞めるし、ついでにアンタも辞めちまいなよ。それが、何も知らない一般人への配慮ってもんだ。用が済んだら、当たり障りのないように去っていく。アンタは執着しすぎなんだよ」
いつか、自分自身も滅ぼしちまうぞ、と続けると、蝶花はおかしそうに笑う。
「何者でもない暗殺者に、何が分かる? 私の目的は、嫌いな人をいじめて終わるものではないのですよ。百枝様の時のような、安定した裏の世界を取り戻す。そのためならば、どんな悪事にも手を出しますよ」
結局、最初から最後まで何も変わらない男だった。
蝶花と喜和子はそのまま図書室を後にしてしまったし、これでもう学校に人はいないだろう、と『イージ』は安堵の溜息をついた。
そして、『イージ』は静まり返った空間の中で一人呟く。
「……各条家も落ちたもんだな。忠誠心もクソもねぇ」
あれが、裏の世界のトップの傍にいる人間なのか。彼の侮蔑が、何物でもない暗殺者だけに向けられたものならば、『イージ』等もこうして動く事はなかった。
堂々と主に牙を向いている分、まだ素直なのかもしれないが、だからこそ注意して動向を見守らなくてはならない。
それは、『イージ』の仕事ではないが。
「あぁぁ疲れた……。さて、痕跡を消して、オレも帰りますか」
ぐい、と両腕を伸ばしながら、『イージ』は最後の仕上げに取りかかる。彼が仕事を終えたのは、空が白み始める頃だった。
※※※※
今日も一華は学校に登校する。一週間、毎日登校するなんて本当に久し振りだ。遅刻も早退もなく、授業も全て出席し、真面目に授業を受けている。まるで優等生のようだな、と心の中で冗談めかして笑っていると、違和感に気付いた。
一華が違和感を抱いたのは、校門を通り過ぎた時だった。まるで、体育館に入った時に感じたもののようだが、不快感はない。
その場に立ち止まって周りを見渡してみても、一華と同じ気配を感じた者はいなかったようだ。皆、友人と仲睦まじく会話をしながら、参考書に視線を落としながら、それぞれ校舎内に入っていく。
気のせいではないと思うが、とりあえず一華も教室へ向かわねば、と歩き始める。
そろそろ、一華が登校してくる事に物珍しさを感じなくなったらしい。教室に入る際、クラスメイトからの視線も感じなくなった。
自分の席について、教科書の整理をしていると、
「本条さん、おはよう」
と姫愛が挨拶をしてくれる。顔色も良さげで、いつものように元気いっぱい、といったふうだったが、心配なので一応聞いておく。
「おはよう。体調は大丈夫か?」
「うん! すっきり目覚めたよ!」
「それはよかった」
本当に、何事もなくてよかった。
ほっ、と息をついていると、例のトリオが一華の背後にやってくる気配が感じ取れた。
今日こそは、と三人が声をかけてくる前に振り向くと、「ぎゃっ!?」「ヤベッ!」「何故バレた!?」と動揺していた。
……そんなに驚く事か? と思ったが、一華は「三人もおはよう」とだけ言っておく。
「おはようっす本条さん!」
「目の下にくま出来てるけど、もしや寝不足かい?」
「寝不足は美容の大敵だぞっ!」
目の下にくまが出来ている、その指摘に一華は思わず目元に触れた。今朝も鏡を見た時、たしかに薄らとくまが出来ているのは分かっていた。
昨夜、眠りについたのは三時頃だったので、たしかに寝不足である。コンシーラーを塗って隠していたのに、バレてしまったらしい。
「まぁな。それにしても、相変わらず賑やかだな」
「元気だけが取り柄なんで!」
それはそれで如何なものなのだろうか、と一華と姫愛は苦笑いを浮かべた。
その後も、一華の席の近くで騒ぎ続ける三人。姫愛に注意されては拗ねたように言い訳を口にするのを聞き流しながら、一華は準備を進める。
そしてふと、視線を一華の隣の席に移した。
机が、なかった。
「………………」
おかしい。一華の隣には、たしかに誰かがいたはずだ。昨日の夜も、その誰かと一緒にいたはずなのに。
────何をしていたんだっけ?
一華の寝不足も、それが原因のはずなのに。頭の中からぽっかりと、記憶を抜かれてしまったかのようだ。
「どうしたの?」
呆然としている一華を不審に思ったらしい。姫愛が心配そうに、一華の顔を覗き込んでくる。
「いや……私の隣に、誰かいなかったか?」
一華の質問に、姫愛は、
「何言ってるの、本条さん」と、おかしそうに小さく笑いながら言った。
「本条さんの隣の席は、ずっとあいてたじゃない」
最初から、誰もいなかったらしい。
言われてみれば、そうかもしれない。
一華の思い違いか。
「……そう、だったよな。すまない、記憶違いだったようだ」
そういうのあるよね、と姫愛と笑っていると、HRを知らせるチャイムが鳴り響く。姫愛達が自分の席に戻っていくのを見送ってから、机の上に置いていたスクールバッグを横にかけようとして────
「…………?」
机の側面につけられているフックに、何かが挟まっていた。
手紙だった。フックの隙間にねじ込まれていたせいでかなり皺が寄っているが、封筒の右下に『7』と記されている。
一華は手紙を机の下に隠して、封を破り中の便箋を取り出した。そして、担任の教師にバレないように、こっそりと手紙を読み始める。
『拝啓、本条家当主様へ。
本日より一週間、学校に結界を張る事になりました。人的被害はありませんが、私の存在をなかった事にするためのものです。
一週間程でしたが、当主様の近くで活動出来て光栄でした。此度の騒動の黒幕であった『アーチ・ロット』については、こちらでも調査を進めて参ります。どうか、お気をつけ下さいませ。 『ナージ』』
その文章を目にした途端、ぽっかりと穴の空いていた一華の記憶が、鮮明に蘇ってきた。
一華の隣に座っていたのは、光井姫子という偽名で潜入していた『霞』幹部の『ナージ』で。先月頃から学校に結界が張られており、被害を防ぐべく共に戦っていたのだ。
全て、思い出した。
一華が忘れていたのは、『霞』が証拠隠滅のために張った結界のせいだったのだ。これで納得がいった、と一華は手紙をしまって、スクールバッグの中に押し込む。こちらも痕跡を残さないように、帰ったら処分しなくては。そう言われているような気がした。
(まぁ、そうなってしまうよな……)
一華も忘れているのだから、学校の教職員も、生徒達も、光井姫子という生徒の事を覚えていない。
あんなに仲良さげにしていた姫愛も、忘れてしまったのだ。何もなかったかのように、光井姫子という存在が消えてしまっている。
それが、表の世界の人間達にとって最善なのかもしれないが、一華はやるせない溜息をついてしまった。
視線を動かして、姫愛の後ろ姿を見つめる。
彼女は知らないが、昨日まで。短い間だったが、生き別れた妹がこの教室にいたのだ。その事実をもしも知ったならば、姫愛は戸惑うかもしれないが、きっと喜ぶだろう。
確証もないのに、「あの子は私の妹だ、って思った」と語る子だ。きっと、すぐに受け入れてしまうのだろう。
けれども、それは叶わないのだ。
『ナージ』は裏の世界の掃除屋に所属している。死を迎えるその時まで、組織から解放される事はない。つまり、姫愛の妹として彼女に会う事は叶わないのだ。
『ナージ』の決意を、一華の感情で砕いてしまってはいけない。ぐっ、と唇を結んで、湧き上がる感情を飲み込んだ。
────きっと、大丈夫だ。二人は、いつかきっと出会えるだろう。友達として、そして姉妹として。
そんな、微かな希望を勝手に抱いて。




