第百一話 見過ごせないってわけ
姫愛と話をしていると、住んでいるというアパートに到着したらしい。ぴたりと姫愛が足を止めた。
「暗いお話なのに聞いてくれてありがとう。また学校で会おうね」
「あぁ。数日は自分の身体を労わってな」
「分かってる。送る、って言ってくれて安心した。本条さんも気を付けてね」
「あぁ、ありがとう」
部屋に入るところを見届けたら一華も帰ろう、と思った矢先。
「光野さん」
「うん?」
一華は思わず、姫愛を呼び止めてしまった。
自分でも、何故彼女を呼んでしまったのか分からない。
姫愛は、一華が何かを言うまで、静かに待ってくれている。早く、何か口にしなければ、と焦った結果、
「…………また明日」
そんなありきたりな事しか口に出来なかった。それなのに、姫愛はにこりと笑みを浮かべて、
「うん、また明日!」
と手を振ってくれる。一華も手を振り返し、彼女が部屋に入ったのを確認してから踵を返した。
しばらく歩いていると、後ろから駆け足気味に近付いてくる足音が聞こえた。一華と姫愛をこっそりつけていた泉だ。
「お疲れ様でした。御屋敷まで送ります」
「今日は、私の我儘に付き合ってくれてありがとうございます。二条さんがいてくれて安心しました」
泉も武道の心得があるとはいえ、基本的には補佐役だ。白羽が不在、という理由があるとはいえ、彼に頼むのは少し躊躇われた。
泉に頼んだのは、学校の外で見張りをしていてもらう事だけだったが、何事もなかったらしい。特に、何かを報告してくる様子はなかった。
「話が聞こえてきたので、こちらでも『アーチ・ロット』という者について調べてみました」
と、泉が口火を切る。
一華が姫愛を送っている間に調べてくれたのだろう。その仕事の速さに、「もう調べたのか……?」と声を出して驚いてしまった。
「はい、手は空いていましたからね。『アーチ・ロット』は『霞』の元幹部、現在は組織を抜けて追われる身となっていますが……十年以上逃亡を続けています」
「脱退の理由は?」
「そこまでは……。フリーとして活動する事もありますが、基本的には特定の誰かと一緒にいるようです。長期契約となると、相当な金額になるはずですが……」
特定の者と長期契約を結んで仕事をする者は多いと、以前聞いた事がある。
いわく、従者の真似事をさせながら、同時に護衛として傍に置くケースは、よく見られるのだという。
もしくは、何か企み事を考えていて、調査や下準備等の手足として使う場合。
とはいえ、一華は『アーチ・ロット』という人物と対面したのは初めてだ。顔も、声も、気配も、何もかもが初めて見て、聞き、感じたものだった。
「結界を張って何がしたかったのか……あの場での登場も不自然だった」
目的も、何もかもが分からない。
そもそも、『アーチ・ロット』は一華と戦う気すらない、と最初に言っていたし、様子を伺っていたとはいえ殺意が一切感じられなかった。つまり、向こうは一華の力量を測っていたわけではない。
では、わざわざ学校で結界を張った理由は何だったのか。一華への挑発か、はたまた別の目的があったのか。考えれば考えるほど、正解から遠ざかっていくような気がした。
「欲しいデータは取れた、とも言っていたが……何のデータなんだ? 私の実力? 『ナージ』さん達の実力? それとも、結界についての……」
「一華様!」
ぶつぶつと呟き続ける一華の意識を引き戻すように、泉は声を張り上げて一華の名を呼んだ。すぐ隣から聞こえてきた声に驚きつつ、一華は泉を見上げた。
「熱中しすぎです。もう少し情報を探ってみます。それから、もう一度考えましょう」
「あ……あぁ……頼みます」
泉に名前を呼ばれた事で、一華の頭の中でぐるぐると回っていたものが飛散したような気がする。もう、先程のような集中力は戻ってこないだろう。
どっちにしろ、考えるには情報が少なすぎる。一旦、『アーチ・ロット』の目的、という重要な部分は考えない事にした。
するとふと、『アーチ・ロット』が口にしていた言葉を思い出す。
「きょうだい愛ほど尊いものはない、か……」
一華は少し、否、かなりの恐怖心を抱いていた。一華は二宮達兄妹の事が好きだし、大切だと思っている。
「頼って」と言われても、大好きで、守りたい存在だから、巻き込みたくないと思ってしまう。それが、一華が兄妹達に向ける愛というものだ。
しかし『アーチ・ロット』の言うそれは、もっと別の感情を彷彿とさせられた。真偽の程は定かではないが、いずれにしても背筋が凍るかと思ったものだ。
先程の事を忘れたくて、一華はふと隣を歩く泉を見上げた。
「そうだ。二条さんに話しておかないといけない事があるんだ」
「もしや、学校を辞めるか辞めないか、の話ですか?」
流石、察しがいい。
以前、泉と市子から「学校を辞めないか」と提案されていた。その場では答えを濁してしまったが、実を言うと一華の心は最初から決まっている。
「あぁ。…………」
いざ言うとなると、息が詰まったかのように声が出せなかった。
「…………」
何十分にも感じられる長い沈黙。その間、泉は何も言わずに待ってくれている。
姫愛の時のように、焦って言える言葉ではない。一華は一度深く息を吐き出してから、口を開いた。
「……辞めたく、ない」
「…………」
呟くかのように小さな声に、泉は反応を示さなかった。もしかして聞こえていなかったのかもしれない、と思い始めた頃「どうしてですか?」と疑問を投げかけられる。
「どうして、って……それは……。……仕事は優先的にやるし、出された課題もちゃんとこなすと約束する。学校行事に参加出来なくてもいい。けれど……」
今年は体育祭にも、文化祭にも、修学旅行にも行けなかった。あと一年チャンスがあるといっても、周りは受験シーズン真っ只中で、かえって邪魔に思われてしまうかもしれない。
一華とて、学校を辞めて仕事一本に集中した方が効率もよくなるし、命を狙われる危険性も低くなるだろう。
しかし、それでも――――
「少しでもいいから、華の女子高生でありたい」
女子高生、という肩書きに縋っていたかったのかもしれない。一華も、どこにでもいる普通の女の子だという証が。
それを持っているがために、周りの人達に迷惑をかけてしまうかもしれない。自らを危険に晒している事にもなりかねないのに、一華はそう願ってしまった。
「…………」
泉はしばらく沈黙していた。やはり、無理な話だったのだろうか、と一華がやり場のない視線を彷徨わせていると、
「可愛い事を仰いますね」
と、泉は口にした。
「かわっ!? ど、どこがだ!?」
泉から「可愛い」と言われたのは初めてだったので、妙に気恥しさを覚えてしまう。一瞬にしてかっ、と頬が熱くなり、思わず彼を見上げた。
「可愛い我儘ではありませんか。何をそんなに緊張しているんですか」
「それは……色んな人に迷惑をかけるだろうし……」
「迷惑だと思った事はありませんよ」
泉は、断固として言いきった。
「先日は辞めた方がいいと進言しましたが、選択するのは一華様自身です。一華様が華の女子高生でありたいというなら、それでも構いません。私は貴方の秘書として、全力でサポートさせて頂くまでです」
「二条さん……」
泉は、一華の父の代から秘書を務めているベテランでもある。一華の父は、機械的と言われるほどに合理性を求めていた、と聞かされていた。
それは当主として理想の人だったのかもしれない。父を知る泉だからこそ、一華の我儘を「それは当主として相応しくない」と一蹴されるのではないか、と不安に思っていたのだ。
けれども泉は、「それでいい」と言ってくれた。自分の意思が尊重された事が、とても嬉しくて。
「……ありがとう」
礼を言う時も、何だか気恥ずかしくて、視線を合わせる事が出来なかった。
「大事なのは、一華様自身の意思です。とはいえ、大丈夫なのですか? 休む暇がなくなってしまいますよ」
「それは二条さんにも言える事だろうに……。ただ、頑張るよ」
頑張るしかない。ただただ、見えない道の先を突き進むしかないのだ。少なくとも学校に行きたい、という意思が尊重されたのだから、楽しみはある。
「出来て当然……やらなくちゃいけないんだ。だから頑張る。頑張る事と我慢する事には慣れているからな」
自分に言い聞かせるように、一華は告げる。私なら出来る、と笑みを貼り付ければ、泉は溜息をこぼして、一華の頭を撫で回した。
「まったく……華の女子高生は、もっと別の事を口にしていますよ。面倒臭い、とかダルい、とかね」
泉は、困ったように笑っていた。まるで、一華の言葉に納得がいかなかったかのように。
……それは、一華に華の女子高生らしく「ダルい」と言え、という事なのだろうか。
「……私に言えと?」
「さぁ、どうでしょう」
泉は、おかしそうに笑った。心のどこかでは、一華が「ダルい」と口にするのを期待していたかのように。
今のところ言う予定はないが、いつかすらりと口に出来る日がくるだろうか。そんな事を頭の片隅で考えながら、一華も釣られるように笑みを浮かべた。
※※※※
『ナージ』が体育館の鍵を開ける際、鍵が置かれている職員室から盗み出すのではなく、ピッキングでこじ開けたのには理由があった。
時刻は深夜二時近く、大半の人間は眠りについている時間帯だ。深夜の学校にいる人間は、結界の解除という目的を有した一華達。
そして、忘れ物を取りに来たという姫愛。
────だけではなかった。
戦闘の爪痕が残る図書室内に、二つの人影があった。二人は他の教職員が退勤した後で職員室に侵入し、ことが終わるのをずっと待っていたのだ。
本棚がひっくり返っている。並べられていた本が床に散らばり、一部では足の踏み場もないほど、悲惨な状況だった。
現場の惨状を目の当たりにした一人が、わざとらしい溜息をこぼしながら肩を竦める。
「この荒れよう……明日は早朝から会議ですかねぇ〜」
「『痕跡を消しておけ』と言ってくだされば、そうしますよ」
わざとらしい男の声に返事をしたのは、清涼感のある透き通った声をした女性だった。嫌味な言い回しをした男に呆れているのか、女性もまた溜息をつきながら、手にしていた杖を翳す。
杖にはめ込まれている魔法石が淡い光を帯びる。すると、倒れていた本棚がひとりでに立ち上がり、散らばっていた本が元にあった場所へと戻っていった。
「そうですか。物分りのいい人は嫌いじゃありませんよぉ〜」
女性に、後始末をさせるのが目的だったらしい。男は図書室が片付いていくさまを眺めていたが、ふと気配を感じて視線を外した。
「それにしても驚きましたねぇ〜。まさか貴方まで、こちらの世界の人間だったとは……」
そう言いながら、男は振り返る。
図書室の入口すぐにある受付のテーブルに腰掛けている人影。それは、すでに退勤したはずの体育教師、フレディ・ノースロップだった。
「ねぇ、フレディ・ノースロップ先生? いや……『霞』幹部の『イージ』さん、とお呼びすればよろしいですかぁ〜?」
男は嘲笑を浮かべながら、フレディ・ノースロップ──――として音城学院に先立って潜入していた『イージ』を見下ろした。
正体を見破られたのはいつだろうか、と『イージ』は考える。答えはすぐに見つかった。男が、一華を人気のない教室に呼び出していた、あの日だ。
いつもの癖で、気配を消してしまっていた。『ナージ』や『3D』にも、ひいては暗殺を専門としている者には同様の癖があるのだろうが、人に接近する時、会話を盗み聞きする時には、特に気配を消す努力をしてしまう。
暗殺者としては必要なスキルだが、今回の場合は、フレディ・ノースロップは暗殺者である、と裏付けてしまったようだ。
バレているのだから、いまさら取り繕う気もない。
「話に聞いていた通りの男だな……陰湿極まりねぇわ。ニジョウ・チョウカ」
『イージ』も目を細めながら、男を見上げる。そして図書室の修復を終え、蝶花の後ろに立っている女性に視線を移した。
「アンタは……モンガオカ・キワコ、だっけ?」
「…………」
「沈黙は肯定なり、ってね。まぁいいよ。アンタが今ここにいる、って事は、アンタもイチカ様の敵なんでしょ」
「……さぁ、どうでしょうね。少なくとも、私はお父様と、魔法術士の味方です」
「ほらね、完全にイチカ様の敵」
父親が誰の事を指しているのかはさておき、一華は魔法術士ではない。どころか、魔力すら有していない。つまり、門ヶ丘喜和子という女性は、その時点で一華の敵である、と確定していたも同然だった。
とはいえ、彼女に敵がたくさんいる事は周知の事実でもある。本条家当主には、味方も多いが、同時に敵も多い。
特に驚きもしないので、『イージ』はそれまでと同様に、おちゃらけた口振りのまま話を続ける。
「そんなイチカ様の通う学校だ。問題が起きてからでは遅いからな。組織としても、それは見過ごせないってわけ」
「金で動く貴方達がそれを言いますかぁ? 第一、こちらの依頼を蹴った事、根に持ってますからねぇ〜?」
蝶花が、首を傾げながらこちらを睨めつけてくる。彼の指摘に、『イージ』はわざとらしく言ってやった。
「あぁ、何だっけ。『綾谷数予と本条一華を殺した後、瀬波銀治を殺してほしい』とかいうやつだったっけ?」
もう、何年前になるのだろうか。
蝶花は『霞』へ依頼をしてきたのだ。『イージ』が述べた、そのままの内容を。
「しょーがねぇじゃん。あの後、アンタ達から貰った額よりも多い金額を払ってくれる依頼者が現れたんだからさ」
「ふぅん。それ、誰なんです?」
「…………」
依頼者はどちらも死んでいるので、守秘義務はないに等しい。なら、『イージ』を見下してくるこの男に、真実を一つ教えてやってもいいのではないだろうか。それは間違いなく、蝶花にとって苛立つ事だろうが、『イージ』には関係のない話だ。
それに、蝶花が怒っているところを見たい。そんな小さな好奇心に従って、『イージ』は机の上から下りて、蝶花に歩み寄る。
そして、告げてやるのだ。
「アンタが大嫌いなアヤタニ・カズヨとセナミ・ギンジだよ」
自分が払った額よりも大金を積んだ依頼主の正体。それは綾谷数予と瀬波銀治であったのだ。誰よりも嫌っている二人が、蝶花の企みを察知し、『霞』に重ねて依頼するなんて。
『イージ』が告げた真実を耳にした喜和子は薄らと目を見開くだけに留まっていた。しかし蝶花の顔には、激しい怒りが浮かび上がっている。
そんな彼の耳元に口を寄せて、『イージ』は追い打ちをかけるように言ってやる。
「ざ ま あ み ろ」
と。




