第百話 人の事情に口を挟むな
一華のクラスメイトの光野姫愛が、ぐったりとした様子でそこにいた。気絶しているだけのようだが、一般人である彼女がこの場にいる事は、一華達にとって大変まずい状況であった。
一般人を巻き込んではならない。
裏の世界の暗黙のルール、そして侵してはならない領域だとされているが、学校という場に結界を仕掛ける『アーチ・ロット』がそんな気遣いをするとは到底思えない。
「忘れ物でもあったのでしょうか。学校の前でうろうろしていたので、捕まえておきました」
「光野さんを離せっ!」
駆け出そうとする『ナージ』を、一華は慌てて引き留める。
「『ナージ』さん、落ち着いてください!」
姫愛を助けたい気持ちは、一華も一緒だ。本音を言えば、すぐにでも駆け出して行きたいが、『アーチ・ロット』の実力が分からない以上、迂闊に動くのは危険だった。
加えて、『ナージ』の焦り方が異様なのだ。いつもなら周りの制止を聞かずに行動する一華が、制止する側に回るほどに。
「落ち着いていられません! 彼女は一般人です。裏の世界の事なんて、何も知らなくていいような、とっても優しいいい子で……」
「やっぱり、あの顔はそうだと思いました。実力は申し分ないが、未熟の部分が難点ですね、本当に」
慌てる『ナージ』の様子を見た『アーチ・ロット』が、にやりと口の端を持ち上げる。
「どうです? 生き別れた姉を人質に取られた気分は」
そして『アーチ・ロット』から語られた言葉に、一華は思わず目を見開いた。
「生き別れた姉……って……」
「……『アーチ・ロット』の言う通りです。姫愛さんは……私の、血の繋がった姉なんです」
「!」
――――『霞』の者達は、名前も、性別も、戸籍も何もない。全てを失い、消し去った者達。
そもそも、組織に身を置く時点で何も知らない事が多い『霞』の者達だが、自身の事を覚えている構成員も存在する。
『ナージ』も、その一人だ。
『ナージ』自身は、家族の事を覚えていない。けれども、ある時「自分の家族は誰なのだろう」と思い至り、好奇心でこっそり調べてしまったのだ。
その時に、知ってしまった。
「光野姫愛」という名前の姉がいるという事を。
実際に会うのは、音城学院に潜入した時が初めてだった。明るい人だった、賢い人だった、優しい人だった。彼女が自身の姉なのか、と実感が湧いてきて、内心ではとても舞い上がってしまっていた。
姫愛は妹がいる事も知らないだろうし、何より裏の世界で生きている『ナージ』の事を知られたくない。
――――姫愛は、表の世界で幸せに暮らすべきだ。だから、こんなところで人質に取られるなんて、あっていいはずがない。
『ナージ』はそんな思いを抱いていた。引き止める一華の手を振りほどこうとしていた彼女だが、だんだんと抵抗する力を緩めて、一華に語り聞かせてくれる。
「姫愛さんは、何も知りません。私の存在も、妹がいたという事すらも」
姫愛が知るはずがない。知っていたとしても、妹が自身と同じクラスで、級友として隣にいたとは夢にも思わないだろう。
「私は裏の世界に身を置き、暗殺に専念してきました。姉が元気に生きていた事、友達になりたいからと話しかけてきてくれた事、内心、とても嬉しかった」
「それが、よくないんですよねぇ」
横から、『アーチ・ロット』が言った。
「己の感情をコントロール出来なくて何が暗殺者ですか。『喜怒哀楽』は忘れてしまえって言われただろうに」
「…………」
その通りだ、と言うように『ナージ』は項垂れた。
『霞』の者達は名前も、性別も、戸籍も、何もない。己の感情ですら、なかった事にしてしまう。
幹部クラスともなれば、それは当たり前の事なのかもしれない。『ナージ』に対してその指摘をするという事は、「一人前の暗殺者ではない」と言っているようなものだ。
――――だが、本当にそれでいいのだろうか。
「……忘れる必要はない」
少なくとも、一華はそうは思わなかった。
「それで『ナージ』さんが納得しているのなら、忘れるべきじゃない」
依頼を受けて、誰かを殺す事を生業としている『ナージ』等にとって、感情はあるだけ邪魔なものかもしれない。消して、なかった事にしてしまった方が、楽なのかもしれない。
当然、褒められた仕事ではないし、一華は肯定も否定も出来ない立場だ。
しかし、『ナージ』個人が忘れたくない、忘れられないという記憶を、無理に消す必要はあるのだろうか。
否、
「人の事情に口を挟むな」
『ナージ』の心に、他人が干渉するべきではない。
「やれやれ……当主様は何も分かっていませんね。我々裏の世界の暗殺者は、感情など持ってはいけないのですよ。任務の失敗率が上がりますからね。ましてや、『霞』は個人の存在すらも持てない異常な組織。よくこんな小娘が幹部になれたと、私以外の者でも言うでしょうね」
くすくす、と『アーチ・ロット』は肩を揺らして笑った。他の者達に認められない、という部分は『ナージ』にも心当たりがあるのか、居心地が悪そうに視線を逸らしている。
しかしそうなると、一華は疑問だった。
「そういう貴方は、随分と楽しそうじゃないか」
挑発も兼ねて「幹部としては相応しくなかったのではないか?」と続けると、『アーチ・ロット』は動じる事もなく頷く。
「えぇ、ですから個人業に転向したんですよ。気ままに仕事が出来て楽ですからね」
そして、『アーチ・ロット』はゆっくりと視線を『ナージ』に向けた。優しく語りかけるように、囁くかのように告げる。
「今の『ナージ』さんも、どうです? このまま逃げてしまえばいい。大好きなお姉さんを連れて、どこか遠くで幸せに――――」
「黙れ!!」
しかし『アーチ・ロット』の甘言を遮って、『ナージ』は叫んだ。彼女は怒りを隠す事なく、『アーチ・ロット』をまっすぐに睨みつける。
「どうでもいい。私は、今の私で満足している。姉が楽しく過ごせているのなら、それでいい。貴様のように、他者を貶めて楽しむ外道に成り下がる気はない! 私の幸せのために、姉を巻き込みたくはない!」
「それは、お姉さんを守る口実ですか?」
「貴様に教える義理はない。それよりも早く光野さんを離せ」
最後の忠告です、と低い声で伝えて、『ナージ』は静かにクナイを構えた。人質を取られている以上、安易には動かない方が得策だが、『アーチ・ロット』の背後には『ナージ』の部下がいる。
暗がりでその姿をはっきりと捉える事は出来なかったが、二人いるらしい。『アーチ・ロット』も囲まれている事に気付いたのか、短く息をついて天を仰いだ。
「……それも、一種の愛ですねぇ……」
そして、『アーチ・ロット』は恍惚とした表情で、叫ぶように言った。
「これだから……きょうだい愛ほど尊いものはないっ!!」
突然変貌した『アーチ・ロット』には一華も、『ナージ』達も驚いてしまった。
『アーチ・ロット』はというと、くすくす、と笑いながら身体を揺らして、人質としてい捕らえていた姫愛をあっさり手放した。
姫愛には意識が戻っていない。慌てて『ナージ』が姫愛を抱きかかえたのを横目で見てから、『アーチ・ロット』は窓辺に移動していた。
一瞬。目で追う事も出来なかった。一華は慌てて振り返って、刀を握り締める。
「まぁ、欲しいデータは取れましたし、今回はこれにて退散致しますよ」
「させるか!」
何故、学校に結界を張ったのか、何を目的としているのか、聞かなくてはならない事は山積みなのだ。今『アーチ・ロット』を逃してしまえば、天下の逃亡者という称号を有する彼を捕まえる事は難しくなる。
慌てて駆け出し、刀を振るう。確実に胴を狙っていた。
しかしすでに、『アーチ・ロット』の姿は消え去っていた。まるで、最初から存在していなかったかのように。
「……消えたか」
「くそっ……」
後ろで『ナージ』が悔しそうに呟く。
気配も感じられず、すでに別の場所へと移動しているのだろう。
一華は刀を鞘に収めて、上着のポケットに乱雑に突っ込んでいた竹刀袋にしまっていると、おずおずと『ナージ』が「あの……」と声をかけてきた。
「当主様、まずは光野さんを安全な場所に運びたいのですが……」
「そうだな。とりあえず、外に出られるか確認もしなくちゃならないしな」
第一に確保するべきは、姫愛の安全だ。気を失っているだけのようだが、戦闘の跡が残る図書室内にいても不都合なだけ。
事後処理も『ナージ』達の仕事内容に含まれているらしく、一華と『ナージ』は、姫愛を起こさないように校舎の外へと移動した。結局、『ナージ』の部下達の姿を目にする事は叶わなかったが、仕方がない。
正門前で姫愛を降ろした『ナージ』は、ジャケットの裏から端末を取り出して、一華に向き直った。
「では、私はこれで失礼します。『アーチ・ロット』がまだ近くにいるかもしれませんし、周辺の調査もしてきますので……。それに、一華様も従者の方が傍にいたほうが宜しいでしょう」
「分かった。本当に、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ巻き込んでしまって、すみませんでした」
では、と『ナージ』は背を向ける。
「……『ナージ』さん」
駆け足でその場を去ろうとした『ナージ』を引き止めて、一華は告げた。
「貴方は強い。頑張ってください」
「当主様……」
一華からの言葉が意外だったのか、『ナージ』は驚いたように目を見開いた。
「はいっ、頑張ります!」
『ナージ』が、笑った。
驚いた表情以外、ずっと微動だにしなかった彼女の表情が、年頃の少女のようにふわり、と動いたのだ。
その笑みは、どことなく姫愛が浮かべる笑みに酷似していて。一華は思わず息を飲んでしまった。
「あ……『レージ』さん達にもよろしく伝えておいてくれ」
「了解しました。それでは、またいつか」
「またいつか」と返すと、『ナージ』は今度こそ去っていってしまった。姿が見えなくなった頃、一華は姫愛に歩み寄る。
「光野さん、光野さん」
未だ眠り続けている姫愛の肩を揺らして、起こしてやる。少し強めに揺さぶると、姫愛はかすかに眉を動かした。
「ん……あれ、本条さん……?」
数度瞬きを繰り返して、姫愛は一華を見上げる。それからゆっくりと、辺りを見渡した。
「学校の前で倒れていたが、大丈夫か?」
「えっ、そうだったの!? たしか……一瞬ふらっとして……えっと……」
『アーチ・ロット』との接触は、覚えていないらしい。顔を見られていないどころか、気配も察知されていないとは。一般人相手とはいえ、手練の暗殺者だと実感させられる。
とはいえ、姫愛にとっては知らない方がいい事。「きっと貧血だろう」と告げて、立ち上がろうとする彼女に手を貸してやる。
「もう夜中だよ。ご家族も心配しているだろう」
「そこは大丈夫。私、家族はいないから」
「…………」
姫愛は、当たり前の事を口にするかのように淡々と述べた。ここは、何も触れない方がいいか、と一華は「そうか……」とだけ返す。
「うん。でも良かった、あのまま寝てたら風邪をひいちゃうところだった。助けてくれてありがとう、本条さん」
「どういたしまして。それにしても、こんな時間にどうしたんだ?」
「忘れ物。こっそり入ろうと思ったんだけど、おもったより柵が高くて……」
一華が飛び越えた柵は、目測でも二メートル近くある。柵以外となれば同様の高さがある壁しかないのだが、姫愛からすれば自身よりも高い柵を越えるのは厳しいものだったらしい。
そうか、と相槌を打って、「家まで送ろう。また倒れてはいけないからな」と提案する。気配から察するに、泉も近くでこの会話を聞いているようなので、後ろからこっそり着いてくるはずだ。
一華の提案を受けて、姫愛は大きな目をぱちくりと瞬いた。
「本条さんはお家の人に怒られない?」
「大丈夫だよ。連絡は入れてある」
「そっか。じゃあお願いしようかな」
姫愛の家は学校から徒歩数分のところにあるらしく、小さなアパートで一人暮らしをしているらしい。バイト先の上司に部屋を貸す、と言われたが、少しでも早く自立したいから、と断ったそうだ。そんな話をしてから、姫愛は思い出したかのように一華に問いかける。
「本条さんは、兄妹がたくさんいるんだよね」
「あぁ。八人いるよ」
「大家族だね。私も、妹がいるんだ」
「…………」
一華は思わず、口を閉ざしてしまった。
姫愛はさっき、家族はいないと口にしていた。それなのに、何故妹がいる事は知っているのか。
それは『ナージ』――――もとい、光井姫子が彼女の生き別れた妹であると知っている、という事なのか。
妹がいる、と口にした姫愛の横顔からは、真偽の程が図れない。
「そうなのか。だがさっき、家族はいないと……」
「いないよ。私は子どもの時、施設に預けられたから」
これは、一華が聞いてしまってもいい話なのだろうか。本音を言えば気になるところだが、姫愛はどこか人と距離を取ろうとしている気がする。
一華の家の事情は話せない事は当然として、彼女の事情を一方的に語らせるのは如何なものか。戸惑う一華に、姫愛はくすりと笑って言う。
「本条さんは、人の秘密とかバラさないって信じてるからね」
「……そう、か。勿論、誰にも口外しないと約束する」
まさか、姫愛にそんな信頼を寄せられているのは思わなかった。姫愛とはとても仲がいいわけではないし、学校でも会ったら言葉を交わす程度だった。言ってしまえば、一華の事をあまり知らない人だと思い込んでいたのだ。
とはいえ、姫愛の信頼を裏切る行為はしたくないし、元よりそのつもりもない。一華が頷いて言うと、姫愛は「ありがとう」と笑う。
「……私の親、酷かったんだ」
けれども、自身の身の上話をする時には、嘘のように浮かべていた笑みを消し去ってしまった。
「もう顔も覚えてないけど、たくさん暴力をふるわれたし、たくさん嫌な思いをした。それで最後は施設に預けて終わり。姫愛、って名前は可愛いけど、あの親から貰った唯一のものって考えると憂鬱だし……。預けられた施設も、酷い大人ばかりだった」
そんな、と一華は思わず発しそうになった。けれども姫愛は、悲しみも怒りも感じていないようで、まるで他人事のように話を続ける。
「私って、どこにいても邪魔な存在なんだ、って公園でぼんやりしてたらね、親を見かけたの。会いたくなかったから茂みの陰に隠れたんだけど、その時見つけたんだ。私そっくりの、小さな女の子。絶対私の妹だ、って子どもながらに確信したの。こう思うのって、ちょっと怖いかな」
「そんな事はないよ」
正直言うと、かなり怖い気もした。
真実を知っている一華としては凄い直感だ、と感心しそうにもなったが、そっくりだったとはいえ見ず知らずの子どもを自分の妹だと断言するのは、恐怖でしかない。
「よかった。話しかける事はしなかったけど、純粋に嬉しかった」
とはいえ、姫愛には姫愛なりの想いがあったのだろう。もしかすると直感ではなく、単に心の拠り所が欲しかったのかもしれない。
「どこかで、元気に生きてたらいいな……」
姫愛は、光井姫子がその妹である事を知らないようだ。一華の口から姫子の正体を告げるつもりはないので、どう返事をするべきか迷っていると、
「そうだったら、いつかきっと会えるもんね」
そう、姫愛は口角を持ち上げた。
「……そうだな。意外と、近いところにいるかもしれない」
「だといいなぁ。いろいろお喋りもしたいし、遊びにも行きたいけど……もしも妹に会えたら、一度でもいいから『お姉ちゃん』って呼ばれたいな」
「あぁ……きっと、妹さんとも会えるし、『お姉ちゃん』とも呼ばれるよ」
今回も知らずとはいえ会えたのだ。次回もチャンスがあるだろうし、その次もあるかもしれない。
少なくとも、そう希望を抱く事は許されるはずだ。姫愛も『ナージ』も、そんな希望を抱いているから、前へ進めるのだろう。
一華も、「会えるといいな」と願う。いつかきっと、そんな日がくればいいと願うのも、許されるはずだから。




