第九話 アイツは利用させてもらう
《ホテル本条》
東京のとある場所に、国主達のみ使用出来る施設がある。その名もホテル本条。本条家が所有する建物の一つだ。
七十階建ての青みがかった黒い外観のホテルはどことなく高級感が漂っている。地下にはリムジンを停める広い駐車場。国主一人につき一部屋およそ七十六平米の一室を使用出来る。
ステファーノは利用した事がないが、ジムやカジノ施設等も併設されているらしい。継承戦が開催されている間は、基本的にホテル内で過ごす事になっているが、退屈しなさそうだ。
ステファーノは部屋に到着するなり、迷う事なく外の景色が見えるソファーに腰掛ける。テーブルに置かれていた紙にいくつか書き込んで、後ろに控えていたジュリオに手渡した。
もう何十回と、このホテルに宿泊したステファーノにとっては慣れた手順と光景だった。それでも年々サービスが充実してきていると実感させられるので、日本のおもてなし精神には頭が上がらない。
この後は特に用事もない。継承戦も始まったばかりで、いきなり状況が動くとは思えなかった。ステファーノは常にドレスを身に纏っている訳ではないので、楽な服装に着替えようとジュリオに手伝ってもらいながら、ドレスを脱ぐ。
胸元にレースがあしらわれた純白のブラウスと、ラベンダー色のフレアスカートに着替え終えたところで、ジュリオが問い掛けた。
〈お飲み物をご用意します。何になさいますか?〉
〈そうね、紅茶を頼むわ〉
〈かしこまりました〉
ジュリオが紅茶を淹れる準備をしている間に、ステファーノはぼんやりと外の景色を眺める事にする。時刻はまだ十四時頃で、青い空にいくつか雲が浮かんでいる。
彼女等がいるのは六十五階。高い所が好きな彼女は、ここから見える景色が好きなのだ。よく数予を部屋に招いて、一緒に茶を飲んだものだ、と感傷に浸っていると、ステファーノのスマホが鳴り響いた。表示を見る限り、掛けてきた相手は梓豪のようだ。何か緊急の用事でもあるのかもしれない、と通話に応答してスマホを耳にあてがう。
「どうしたのかしらぁ」
『もうホテルに着いているな。準備は済んだか?』
「まぁまぁよ。召集?」
『あぁ。バレないように最上階の奥にある部屋に来い』
「えぇ~、すぐ行かなきゃ駄目なのぉ?」
これからお茶を飲むのだけど、と言うと、呆れたような溜息がスマホ越しに聞こえてきた。
『アーサーにも言われたぜ……』
「貴方は気が早いのよ。先を急ぎすぎだわ」
『だからだ。荷解きやらで他の奴等が動いていない内に集まっておきたい』
「それもそうねぇ。分かったわ」
通話を切ってジュリオに旨を伝える。紅茶の準備をしていた彼は、手を止めて部屋の鍵を持って準備を始める。行動の早い男だ。
ステファーノもハンドバッグに貴重品の類を纏めて、最上階に向かうべくさっさと準備を済ませる。一応人に見られないように、先にジュリオが、扉から顔を覗かせて廊下の様子を窺う。
〈……人の気配はありません。参りましょう〉
部屋の前にあるエレベーターに乗り、最上階へ向かう。途中で梓豪と神美が乗って来たので、不満を露わにしながら小突いてやった。
「召集したの誰よ」
「エドだよ……正確にはアクセルらしいがな」
「まぁ珍しい。という事は、メンバーはいつもの四人?」
「いや。九人だ」
九人、と聞くと多いように感じられるが、実際のところはかなり少ない。この数字は梓豪達、五大権が確実に信用出来る国主達の数なのだ。
五大権である梓豪、ステファーノ、エドヴァルド、アーサー。
加えて彼等が信頼を置くドイツ、アメリカ、ロシア、フランス、ルーマニアの国主達。それだけしかいないのだ。これは深刻な問題であり、他の誰が裏切っても可笑しくないという事だ。
そもそも何故国主達の意見が分裂しているのか。
元々、近親婚を拒否した零の時代から不穏な空気はあった。現代にもなって血統を第一に重んじているのは、国主達が古い歴史のある己の家系に誇りを持っているからだ。
近親婚でなくとも他国の国主、または従家の者と婚姻を結ぶのが筋というもの。だが零は表の世界の、有名な家系のお嬢様だった綾谷数予という女を選んだ。中には零と自身の娘を婚姻させ、地位の向上を企む者もいたのだから、不満も募るものだろう。
ステファーノ個人としては、数予と恋バナ等をして楽しんでいたし、二人が幸せなら祝ってやるのが普通だと思っている。隣にいる梓豪もまだ話が通じる方だが、基本的には血統を重んじる人だ。初めの頃は、数予の事をよく思っていなかったらしい。
そんな意見の対立が解決しないまま、零は逝去。裏の世界に認められていなかった数予は、明らかに良からぬ事を企んでいる男と再婚。いつしか、国主達の関係は分裂してしまっていたのだ。
数予とはプライベートでも会う事が多かったし、そういった悩みもたびたび聞いていた。彼女の苦しみを知っていたからこそ、ステファーノは現状を変えようと前向きに行動している。
「全く、嫌になるわねぇ。どうしてこう上手くいかないのかしら」
「人が関わると上手くいかなくなるもんだよ。そこは諦めるしかねぇ」
「分かってるわよ。あぁ、頭が痛くなりそうだわ」
継承戦が始まったからといって、裏の世界が廻らなくなる訳でもない。むしろ忙しくなるだろう、とステファーノは溜息を零す。
そこでふと、ステファーノは思い出した。
「そういえば、ファリドさんは大丈夫だったの?」
ファリド、という人は七緒の蹴った襖を切り刻んだロシア国主の名だ。彼はとある事情で、心臓に負荷が掛かると命の危険があるという。青年に一番近かったから助けに入ったようだが、彼の体調が心配だ。ステファーノが問い掛けると、梓豪はその質問が来る事を知っていたかのように答えた。
「あぁ。さっき見に行ったが、落ち着いている様子だった」
「そう……それは何よりだわ。あと、ファリドさんが庇った子って、つい先月国主になった子よね」
思い出す限り、まだ場の空気に慣れていない初々しい、若い青年だった。名はジェームズ・ジョーンズといったか。裏の世界では公用語である日本語もまだ拙く、従者共に慣れていない感じが見え見えであった。
「あぁ。申し訳ないがアイツは利用させてもらう」
「まぁ物騒な言い方」
「先代が急死したってのもあるが……まだこの世界の分裂やら何やらは把握しきれていないだろう」
「そこにつけ込んで味方にするっていう魂胆ねぇ」
味方は一人でも多い方がいい。まだ何も知らない青年を利用するのは心が痛む気もするが、彼を利用しようとしているのは梓豪達だけではない。
強力な魔眼──『掌握の魔眼』を有していると聞く。相手の真意を読み取るその能力は、アメリカ国主に仕える従者にしか持ちえない特殊な魔眼だ。
それを所有しているアメリカ国主を味方に取り入れようとする動きは、最近特に目立ってきているらしい。現にステファーノの隣に立つ梓豪が実行しようとしているのだから。ましてやジェームズは国主になってひと月ちょっとだ。
今回の継承戦の傍らで確実に味方を増やす。それが五大権の共通した目的だ。
「だが心配はあるにはある」
「なぁに?」
「ファリドさんと険悪な雰囲気にならないか、だ」
ファリドは一華の父・零が国主だった時代に五大権の一人としてその座についていた人物だ。礼儀礼節を重んじる厳格な性格で、確かな誇りを胸に三十年近く国主を務めている為、新人に絡む事も多いそう。梓豪はその際に争い事が起こる可能性を危惧しているらしい。
「考えすぎじゃない?」
「いやいやいや、冷戦状態になるかもしれねぇだろ……あ、胃が痛くなってきた……」
「あのねぇ……表の世界と裏の世界は違うの。別物なの」
表の世界の政策方針や情勢に左右されない、というのが裏の世界のルールだ。殺し、殺されの世界が当たり前の裏の世界だが、裏の世界は一般人を巻き込むのは最大の禁忌とされている。その為、国をあげての戦争が存在しない。
それは、武器の所有を認められている代わりの制限に過ぎないかもしれないが、それを管轄するのも五大権の役割だ。
事が起きる前に処理出来ていたのか、ここ数百年は目立った事件も聞いた事がない。裏の世界ではある程度平和が保たれているとステファーノは思っているが、梓豪は不安で堪らないらしい。
「そもそもファリドさんがジェームズの坊やを嫌っているなら、あの時助けにも入らなかったわよ」
ハンドバッグから扇子を取り出し、パタパタと仰ぎながらエレベーターを降りる。隣に並ぶ梓豪は未だにうぅん、と首を捻りながら唸っていた。
「だがなぁ、不安なものは不安なんだよ……」
「仮にもナンバー2でしょう? どっしり構えてなさいよ」
「もしすでに戦いが始まってたら我逃げる」
「ジュリオ、その時は拘束しなさい」
「かしこまりました」
「勘弁してくれ」
そうこう話している内に、目的地である最上階の最奥にある小会議室へと到着した。冗談交じりの会話を切り上げ、梓豪は部屋の扉を押し開ける。ステファーノも若干の緊張感を抱いてしまうが、それは必要のない事だったと思い知らされる。
〈部屋に戻ったらテーブルの上に置かれている紙の項目にチェックを入れて、それをホテルの従業員に渡すんだ〉
〈は、はい……!〉
〈それから不備があった場合は──〉
梓豪の心配をよそにロシア国主、ファリド・ラファイロヴィチ・アスタフィエフと、アメリカ国主、ジェームズ・ジョーンズはまるで親子のように会話していた。
日本語が苦手なジェームズに気を遣ってか、ファリドは英語を使用している。
「……なぁにが冷戦よ。アホらしいわね」
梓豪の心配が杞憂に終わった事に安堵しつつも、彼に対する呆れの方が勝っていたので溜息交じりに言ってやる。こちらも無駄にドキドキしてしまったではないか、と横目で伝えておく。
しかし梓豪はその視線に気付いていないようで、心底ほっとした様子で息をついていた。
「良かった……本当に良かった……」
「ほら、早くなさいよ」
ステファーノはさっさと椅子に腰掛け息をつく。梓豪はまだ胃が痛んでいるのか、腹部の辺りを擦っていた。
この場に集う国主達の中で一番立場があるのは梓豪だが、彼はプレッシャーにめっぽう弱かった。先程ステファーノに言ったように、ファリドとジェームズが険悪な雰囲気にならないかと気が気じゃなかったのだ。
昼間に行われた継承戦開幕の式でも同様だったのだが、あの場には本条家従者の泉がいたので実質梓豪の出番はなかった。だが今回は違う。梓豪の気性を知っているステファーノやエドヴァルド、アーサーがいるのはいいが、国主間の上下関係を明らかにするには彼が纏めなければならないだろう。
現在、すでに席についているのは一緒にやって来た梓豪。
ステファーノ達を呼び寄せたアクセルと打ち合わせしているらしいエドヴァルド。
従者のエレナに紅茶を淹れさせているアーサー。
英語で会話を弾ませているファリドとジェームズ。
そしてイライラとした様子で腕時計を見ては舌打ちをするドイツ国主、エッダ・ハイデルベルク。
そんな彼女に構う事なく長い髪を耳に掛ける優雅な仕草の男性、フランス国主、マティス・サンジェルマン。
九人と聞いていたが、まだ一人来ていないようだ。てっきりステファーノ達が最後かと思っていたので、きょろきょろと最後の一人の姿を再度探す。すると部屋の扉が開かれ、至極のんびりした様子で男性が入ってきた。
「あれ、俺が最後?」
「遅い! 何度遅刻すれば気が済むんだアンドレイ・ティトゥレスク!」
「怒らないでよエッダちゃん……」
苦笑いを浮かべるルーマニア国主、アンドレイ・ティトゥレスク。赤黒い髪をくるくると指に絡めながら席に着く。悪びれた様子のないアンドレイにエッダの怒りは収まらないらしく、二つ隣の席にいるアンドレイを睨む。その際、エッダの隣に座るマティスも被害を被る事になるのは言うまでもない。
「まぁでも、全員揃ったわね」
「そうだな」
ごほん、と梓豪が咳払いすると、全員の視線が彼に注目した。
「そんじゃまぁ、早速始めるとするか。時間も時間なんで早急に終わらせよう。内容は主に二つ。アクセルからの報告と……継承戦に関する情報の共有」
他にあるか、と室内を見渡す梓豪。全員が無言だったので、主導権がアクセルに渡される。
継承戦の内容はともかく、彼の報告は他の国主、従者に聞かれてはいけない内容らしい。ホテルに到着し、荷解きに時間を取られている今の内に話を済ませておかねばならない、という判断も正しかったようだ。
「それでは僭越ながら報告させて頂きます。実物は御用意出来ませんでしたが……銀治様のお部屋の畳の下で、契約書のような物を見つけました。先々代当主、本条零様。先代当主、本条数予様を殺害なさったのは、紛れもなく銀治様で御座います」
アクセルの報告に、驚きを露わにする者はいなかった。新参者であるジェームズでさえもが静かに頷ける程に、皆がどこかで察していた内容だから。
「そして……先日、御息女である一華様も狙われました」
「なんだと!?」
過剰に反応したのはエッダだった。だがすぐに我に返り、口を噤む。
エッダは大の子ども好きで、幼い一華の面倒もよく見ていたという。だからこそ、一華が襲われたと聞いて、気が気でなかったようだ。
「安心しろ。嬢ちゃんは一条の倅が保護してる。今もな」
「……そうか」
どこか安心したように、エッダは短く返した。そして「悪かった、続けてくれ」とアクセルに告げる。それを聞いてから、アクセルは再度口を開いた。
「どうやら銀治様は、反発心を抱く国主達と手を組んでいたようです」
アクセルのその報告には、誰もが驚きを隠せなかった。ステファーノにも予想しえなかったその言葉に、アクセルは補足するように続ける。
「銀治様も由緒ある瀬波家の御子息に当たります。裏の世界にも通ずる所はあるのでしょう」
「大変な事になったわねぇ。それ本当なの?」
「間違いなく」
アクセル、もしくはエドヴァルドが反発組である可能性を除けば、その情報は信頼に値する。
(でも、アクセルちゃんは銀治さんの部屋の畳の下、と場所まで明言しているし、嘘とは考えられないわよねぇ……)
疑うのであれば自身の目で確認すればいい。この場にいる者であれば不可能ではない。すでに物証が持ち去られている可能性もあるが、畳の下なんて普通であれば調べないし、アクセルの場合は『透視の魔眼』で見つけたにすぎないのだから。
彼の情報は、真実と捉えて間違いないだろう。梓豪も同じ結論に至ったらしく、
「アクセル。可能であれば神美と一緒にもう一度見てきてくれ」
と、指示を出した。
「! 畏まりました」
梓豪の娘、神美は『複製の魔眼』を持ち合わせている。元々は梓豪が所有していたが、自身に万が一の事があった時の為に、娘に継承しておいたらしい。神美の魔眼を使用すれば、アクセルが見たというその書類を複製する事が出来る。
そこまで言われて焦りの一つすら見せないという事は、信じる他ないという事でもある。つまりは、この場に集められた国主を納得させる言葉でもあった。
「そちらの書類、文面の最後にはこう記されておりました。『本条銀治が当主となった暁には――――』」
「「「!!」」」
それは、この場にいる誰もが驚愕する条件だった。




