第97話 マドリードへ
その日、アランフエスからマドリードへと続く街道は、国中の人が集まったかのような混雑ぶりだった。
感謝祭でもここまでの人手はない。
通りという通りに人々が押しかけ、興奮した面持ちでその時を待っていた。
『日本人が来たぞ!』
一人の発した叫びに群衆が沸き立つ。
ローマ教皇により、神の示された奇跡と認定された国、日本。
その日本から使節団が訪れる事になり、とうとうマドリードに到着する事となった。
彼らを一目見ようと、遠くカタルーニャから来た者もいる。
日本人を見れば幸運が訪れるとの噂が流れたのも、見物人が多く集まった理由の一つかもしれない。
南の町アランフエスを出発したとの情報は既に伝わってきている。
固唾を呑んで登場を見守る中、ただの行商人が姿を現した。
『違うじゃねぇか!』
何度となく繰り返された早とちりだった。
日本人が船を降りたセビリアから、エル・エスコリアル宮殿のあるマドリードまでは遠く、かつ行き交う人馬の数は多い。
新大陸から運ばれて来る産物も、多くがこの街道を通る。
荷馬車の列が連なる事もあり、使節団と勘違いするのも仕方がない事だった。
『来た!』
またかと思いながらも、それでもやはり目を向けてしまう。
条件反射のようになっていた。
『あれは?』
しかし今回は違った。
服装など、見た目の違う人々の列が歩んで来る。
『日本人だ!』
待ちに待った彼らの到着に観衆は大興奮、少しでも近くで見ようと人を押しのけ、騒ぎとなるのだった。
『日本の方々がマドリードに到着されたとの事です!』
『まあ!』
郊外に建つエスコリアル宮殿に到着の報告が届く。
ここにも一人、好奇心に溢れた人物がいた。
『姫、どこへ行かれようとしているのです?』
『私も日本人を見に行きたいですわ!』
フェリペ2世の娘、イサベル・クララ・エウヘニア(16)である。
国王にとって3人目の妃エリザベート・ド・ヴァロアとの間に生まれた彼女は、2歳の時に神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世と婚約したが、結婚に興味のない皇帝に放置され、エスコリアル宮殿にて父の補佐役でいる事を許されていた。
ナポリ王国、ミラノ公国、シチリア島を領土に持つ父の下には、イタリア語で書かれた書類も多数届く。
イタリア語に通じた彼女は、それらをスペイン語に訳すのが日課であった。
また、同じ母から生まれた妹カタリーナ・ミカエラ(15)は容貌優れた才女であり、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世との結婚が決まっている。
『わざわざ姫が見に行かれなくとも、彼らは宮殿にやって来ますぞ』
『それはそうだけど……』
尤もな事を言う執事の言葉に口ごもる。
『カタリーナ様は普段と変わらず、毎日のお勤めをなさっていますぞ』
『……分かりました』
出来の良い妹を引き合いに出され、イサベルは口を閉じた。
口の悪い者は、ルドルフ2世がイサベルを放っているのは、彼女の器量が気に入らないからだと吹聴しているらしい。
会った事もないのにそれはあり得ないと思うのだが、侍女達の中でもまことしやかに語られているのを耳にした事がある。
イサベルはしょんぼりし、日課を果たそうと父の執務室へと向かった。
「これがスペイン王の住むマドリード? 思ってた程でもねぇな」
幸村が辺りをキョロキョロと見回し、言った。
太陽の沈まない帝国の首都と聞き、目が飛び出るような驚きを期待していたのだが、正直に言って拍子抜けである。
「大きな建物などは確かに目を惹きますが、町の規模は大坂よりも小さい印象ですね」
信親も頷く。
家々が連なっている大坂に比べ、こじんまりとしている気がした。
「古そうな家も多いぜ」
「そうですね」
マドリードに来るまでの間、町には歴史的に有名な何々があると、どうでもいいような事ばかりをカルロスに説明されてきた。
そして辿り着いたこの町である。
成る程、歴史を感じさせる建造物は多く、広い道に沿って続く街並みは立派だ。
日本ではまずお目にかかれないような、重厚な雰囲気を醸し出している。
「それは兎も角、土埃を早く落としたいぜ」
「馬車が土を巻き上げるのでしょうね」
幸村がしかめ面をする。
通りを少し歩くだけで、白い粉を頭から浴びたように埃が付着するのだ。
『出迎えですよ』
出し抜けにカルロスが行く手を指した。
通りの先に、町の住民達とは一線を画した集団が整列し、待ち構えている。
見るからに重そうな鉄製の鎧で全身を覆い、槍らしき武器を持って通りを遮っている。
それを見て興奮したのは幸村だけではなかった。
「南蛮製の鎧か! 一つくれねぇかなぁ」
「父上にも持って帰ってあげられれば……」
戦国を生き抜く武将らしく、常に戦の事を考えているらしい。
『今日はこのままマドリードの宿に泊まり、エル・エスコリアル宮殿には明日向かう予定です』
出迎えた者と言葉を交わし、カルロスが言った。
「宮殿はこの町にねーのかよ?」
幸村が尋ねる。
『宮殿は町から少し離れた場所にあります』
こうして一行はマドリードの宿へと入った。
「何だこの騒ぎは!」
五月蠅いと信長が階下に降りて来た。
泊まった宿はスペイン政府が借り上げたホテルで、瀟洒な作りの贅沢なモノだったが、雰囲気をぶち壊すような騒音がロビーから起こり、訝しんだ者達がめいめいで様子を見に来たのであろう。
西洋の宿は既に何度か泊っているので勝手も分かり、これは何だ、どう使えばいいのだと勝二を呼び続ける事もなく、それぞれの居室で疲れを癒している中に起きた騒動である。
騒ぎの渦中でスペイン人と話している家臣を見つけ、信長が呼ぶ。
「勝二、どうなっている!」
呼ばれた勝二は信長に気付いた。
ちょっと失礼と話していた相手に謝り、事情を説明する。
「幸村君がホテルの前に集まっていた子供の一人にホテルのパンをあげたところ、何を勘違いしたのか周りの大人達によって奪い合いに発展、遂には人を殺す事態にまでなってしまったようです」
「何ぃ!?」
その言葉に驚き、勝二の隣にいた幸村を睨みつける。
「真なのか?」
何てことを仕出かしたのだと言外に込めていた。
睨まれた幸村は小さくなる。
「あんまり腹をすかしてそうだったんで……」
パンをあげたのは貧しい身なりをした子供であった。
日本人を一目見ようとホテルの前に詰めかけた者達とは距離を置き、一人ポツンと通りに座り、視点の定まらぬ目で虚空を見つめていたそうだ。
「物乞いであろう!」
信長が断じた。
セビリアでも多く目にした。
カトリックの修道院が懸命に救済していると聞いたが、間に合っていないのだろう。
「他がいる中で物をやるなと厳命した筈!」
「も、申し訳ありません!」
物乞いに食べ物を恵むなと言いたい訳ではない。
問題なのは、それを見ている者がいる場合だ。
日本人に物をもらったというだけで大変な騒ぎになるのは、通過してきた町で既に経験していた。
神に祝福された日本の物には幸運が宿っている。
そのような根も葉もない噂が立ち、殺気立って物をねだられたのはセビリアの次の町コルドバであった。
断り切れず、懐から出した鼻紙に人々が群がる姿を目の当たりにし、これはいかんと禁止令が下されたのである。
「しかしパンであろう? 熱狂とは恐ろしいモノだな……」
「冷静になれと言うだけ無駄でございましょう」
憧れのアイドルに大興奮し、骨折の痛みを忘れた友人を思い出した。
また、宗教的な熱狂の果て、見ず知らずの人々を無差別に殺したカルト集団の事件もある。
教皇の奇跡認定という事態の重さを改めて感じた。
「それで人が集まっているのか?」
「事情を聞きたいとの事です」
信長も事態を把握し、言う。
「やるなら誰も見ていない時にしろ!」
「肝に銘じます!」
軽い気持ちから大騒動になった事を深く反省した幸村だった。
マドリードの大きさ等、あくまでイメージです。




