第89話 囚われの島津
サブタイトルを変更します。
この話を囚われの島津とします。
牢屋はイメージと違い、城とは別のところに建ててあった。
考えれば町の犯罪者を城の中に閉じ込めるような事はすまい。
周りと同じ、レンガを積み上げて作った建物で、赤茶けた外壁の簡素な作りだった。
勝二はカルロスに伴われ、その建物へと足を踏み入れる。
「うっ!」
木製のぶ厚い扉を開けた途端、ツンとくるアンモニア臭が鼻を突きさした。
まるで硝石丘を彷彿とさせる悪臭である。
あるいは乗ってきた船の、建造されてから一度として掃除などされた事がないであろうトイレ室の、耐え難かった臭さだろうか。
トイレ室とはいえ便器など付いておらず、下に開いた穴に向かって用を足すのである。
海に垂れ流しという訳だ。
揺れる船では落ち着いて用を足せず、あっちに引っ掛けこっちに飛び散り、入っただけで目に染みるような部屋となっていた。
清潔好きな者には苦しい航海であり、早く陸に上がりたいと願った理由の一つでもある。
ここもかと勝二はウンザリとした。
しかし、それも仕方ないと言えば仕方がない。
この時代、囚人でなくとも清潔さとは程遠く、不潔な環境での生活を当たり前として送っていた。
不潔な環境は疫病の流行にもつながる。
ヨーロッパだけで病気が広まるのなら、正直に言ってそこまで問題視する気はないが、こう国が近くなってしまった現状、コレラといった感染症が日本に入って来るのは時間の問題だろう。
清潔に保つ事が難しい当時の船が行き来するのであるから、どうやっても防ぎようがない。
せめて手洗いの習慣だけでも普及させたいところだ。
手洗いとて馬鹿には出来ない。
史実では産科医に手洗いを徹底させる事さえ難しく、提唱した医者が迫害される事態にまで発展したのである。
それは中世近世などではなく、19世紀になっての話だ。
微生物への知識がない当時、常識を打ち破るのがどれだけ困難であったかという証左だろう。
「家久様!」
勝二が島津家久に声を掛ける。
家久は木で出来た牢屋の中で静かに正座し、瞑目していた。
自分を呼ぶ声に目を開く。
「無事に着いたか」
勝二の姿を確認し、僅かに口元を緩めた。
「我々の思慮が足りないばかりにこのような事になってしまい、誠に申し訳ありません!」
その場に膝をつき、頭を下げる。
家久は正室の子ではないとはいえ、れっきとした大名の子息である。
そんな彼が牢屋に入る事となった。
日本であれば、その責任者は良くて切腹、悪ければ国同士の戦となろう。
どうしてこんな事になったという後悔に苛まれ、勝二は彼の言葉を待った。
「臭い床に鼻を近づけんでも良い。顔を上げよ」
穏やかな声が響く。
勝二はそれに従った。
家久の顔にはっきりとした怒りの色はなく、淡々としているようだった。
寧ろ笑みを浮かべているようさえに見える。
「イングランド人を連れ帰って欲しいと頼んだのは我らだ。話の流れでこのような形となったが、それは双方合意の上であろう?」
それはその通りなので頷く。
折角の機会として訓練に充てたのは彼らの決定である。
「結果として不足していたが、万全を期したのは間違いあるまい?」
「今となっては遅すぎますが、スペイン人を乗せるべきでした」
カルロスでなくとも、事情を理解したそれなりの者を同乗させていれば良かったのである。
終わって初めて気づく事は多い。
家久も勝二の言葉に頷いた。
「思えば我も興奮しておったのだな」
冷静になってみれば、どうしてそんな事に気づかなかったのかと思う。
それだけ冒険の旅に舞い上がっていたのだろう。
海を越えて異国に行く。
島津家では明国と交易していたので、幼心に異国とはどんな風なのかと空想を巡らせたモノだ。
いつかこの目で見てやろうと思ったりもしたが、成長につれてそんな思いも忘れていた。
図らずもそれが叶い、冷静なつもりではしゃいでいたのだろう。
「幸い、誰かが傷つけられたという訳ではない。多少の不自由はあるが、揺れない床で寝れるだけでも有難いぞ」
ニヤリと笑ってみせる。
嵐に遭えば一睡も出来なかったのだから。
「それに」
冗談めかせて言う。
「西洋の牢に囚われる事など、滅多に出来る経験ではあるまい?」
「恐らく、日ノ本の中で家久様が初めてやもしれません」
「であろう?」
家臣達と顔を見合わせ、ワッハッハと笑った。
「一刻も早く牢から出られますよう、策を練っておりますので今暫くお待ち下さい」
「それは構わぬ」
「ありがとうございます」
勝二は精一杯頭を下げた。
「しかし」
「しかし?」
何か問題があるのかと家久の顔を伺う。
「床が揺れないのは心強いのだが、この臭いだけはどうにかならんか……」
閉口しているのだとぼやく。
「ただでさえなかなか喉を通らぬのが南蛮人の飯なのだ」
食事の事情は同じらしかった。
それに小便の臭さが加われば、水以外には口にする気になれそうにない。
「直ぐに人を手配して床を清掃させます」
「それは有難い。それだけでも違うだろう」
勝二はすぐさまカルロスに事情を説明する。
問題ないと頷き、部下に何事かを命じた。
その結果を家久に伝える。
「今日中には何とか出来るそうです」
「すまぬ」
それで幾分はマシになるだろう。
「家久様」
「何だ?」
気を取り直し、勝二は家久に向き合った。
「最悪の場合なのですが、イングランド人は見捨てなければならないかもしれません」
カルロスの考えを述べた。
元海賊達が問題なので、それが解決すれば終わる話ではある。
しかし、そんな勝二の説明をきっぱりと否定する。
「それは受け入れられぬ」
「え?」
取り付く島もない、そんな顔をしていた。
家久が言う。
「我らはあの者らを罰し、許した。それに今は教えを乞う立場であり、いわば師に当たる者達だ。師が罰せられようとしているのに、このまま指を咥えて見ているつもりはないぞ?」
「それは……」
その言葉に合わせ、囚われている島津兵の顔付きが変わる。
牢の空気が一気に張り詰めた。
慌てる勝二に家久が告げる。
「そうならぬよう、全力を尽くせ」
「肝に銘じておきます!」
冷や汗を流しながら勝二は牢屋を後にした。
『マドリードから早馬だと?!』
城の執務室から大声が上がる。
マニャーラは椅子から飛び上がらんばかりに驚いていた。
『馬鹿な! 早すぎる!』
到着したカルロスが報告を送り、その返事が来たのだと錯覚していた。
しかし実際はそうではなく、全く別の事だった。
『タンジェにて反乱が起きたとの事です!』
早馬からもたらされた内容を家臣が言う。
ジブラルタル海峡を挟んだアフリカ側に、元々はポルトガル領であった領地がある。
タンジェはそこにある町の一つだ。
レコンキスタでイスラムから奪い返した土地となる。
『ポルトガル人がイスラム共と手を組み、町を占拠したようです!』
『何だと?!』
聞き捨てならない報告だった。
フェリペ2世がポルトガル王を兼任した事で、それに反発する者らが各地でイザコザを起こすようになった。
しかし、カトリックの敵であるイスラムと手を結ぶとは信じ難い。
『セウタに兵を送り、タンジェを奪還せよとの陛下のご命令です!』
『目に物見せてやる!』
セウタも同じく元ポルトガル領で、軍事上の要衝として栄えてきた。
「丁度良い。我らもそのセウタとやらに向かうぞ」
「ど、どのような目的でございますか?」
反乱の報は勝二らの下にも届いた。
それを聞いた信長の呟きに勝二は面食らう。
まるで意図が掴めない。
「島津、イングランド人を伴い、反乱を蹴散らしてやれば文句も言うまい」
「な、成る程!」
その手があったかと一瞬思ったが、余りに無謀だと思い直す。
「我らは数が少な過ぎませんか?」
勝二の懸念を笑い飛ばす。
「南蛮人は元より、イスラムとやらの戦いぶりも知れる良い機会ではないか!」
そう言い放つ信長の顔には少しの曇りもなかった。
※タンジェ、セウタ位置図




