第86話 父信長
「信忠、後は任せたぞ」
「……」
信長は安土城に、息子信忠を訪ねていた。
既に織田家の家督は譲っていたが、今回の事を契機に、名実共に政治からは手を引く。
大坂城が建つ摂津の一部と堺とを領有し、水軍より昇格した海軍を統括すると共に、対外関係を一手に引き受ける事とした。
すなわち、当時における日本経済の中心地と、スペインとの交易を管理する立場である。
呼びかけに応えない息子を父親は案じた。
「どうした?」
いつもであればイラっとして怒鳴るところだが、異国へ行くという非日常に興奮しっぱなしで多少の事では怒らない。
思いつめた様子の息子が口を開く。
「父上が背負っていたのは、かくも重いモノだったのですね……。卑小なる自分の才覚では、背負いきれずに押しつぶされてしまいそうです……」
不安、それが信忠の心を占めているモノだった。
父親の出発が近付き、心は暗くなるばかりである。
今までは良かった。
偉大な父親の指示に従っていれば良かったからだ。
自分であれこれと考えるよりも、父親の判断を仰ぐ方が確実で間違いがない。
戦に行けと言われれば、勝つ事だけを考えていれば事足りた。
しかし、今はそうではない。
周辺国への根回し、商人や庄屋との駆け引き等、考えなければならない事ばかりである。
一家を率いていくとはかくも大変なのかと、今更ながらに思い至った。
ましてや織田家は天下に覇を唱えた家だ。
その決定は日本全国に影響を与える。
一つを決める事さえ重圧が半端ではない。
「ふっ」
鼻で笑われた。
信忠はそう思った。
「不出来な息子で申し訳ございませぬ……」
力不足は十分に理解している。
笑われても仕方がない。
しかし、父の言葉は思っていたモノと違った。
「見上げたモノだ」
「え?」
ひとしきり感心して口を開く。
「儂が織田家を継いだ時には、瞬く間に天下を平定出来ると自惚れておった」
「実際、天下は父上が平定されたのではございませんか」
自慢かと思ったが違うらしい。
「運が良かっただけだ」
「運ですか?」
謙遜ではないようだ。
思えば謙遜とは無縁な人だった。
「桶狭間で今川義元を討ち取れていなければ、今の儂は存在せぬ」
東海一の弓取、今川義元。
その名は寝物語で何度も耳にしている。
長年織田家と対立していた有力大名で、上洛を果たそうと自ら軍を率い、進軍してきたと聞いている。
正面からぶつかれば勝てない相手で、若き信長が取った策は奇襲であった。
「今川軍が桶狭間で行軍を止めた事までは掴んでおった。しかし、義元がどこにいるのかまでは流石に分からぬ」
それも良く知っている。
熱田神宮で必勝を祈願したとも。
「道を駆け下り、右に向かうか左に向かうかで迷うた。土砂降りの中、遠くまで見通せなかったからな」
そのお陰で敵に気付かれずに近づけたそうだ。
「間違えたら奇襲は失敗だ。行けども行けども陣が見えなかった時には、儂も終わりかと泣きそうになった程だ」
「父上がですか?!」
初めて聞く話であった。
いつになく饒舌なのは、航海が安全ではないと分かっているからかもしれない。
戦と違い天候次第である。
心持が違うのであろう。
息子の驚きを受け、信長は笑いながら言った。
「若かったからな。しかし、運良く義元を討てた。賭けに勝ったのだ」
「賭けに勝つのも実力ではございませぬか?」
運も実力のうちとは言う。
途端に信長は怒った。
「馬鹿を申せ! もう一度やっても同じ結果になるとは限らぬ!」
「そういうモノですか」
父が言うのならばそうなのだろう。
「あの時勝ったのは、天命などという御大層なモノではなく、偶々だ。偶々勝った事を誇ってどうするというのだ? 次は負けるやもしれぬのだぞ!」
「父上が負ける姿は想像がつきませんが……」
それが信忠の正直なところだ。
息子の言葉にニヤリとする。
「さもありなん。それ以降、出来るだけ危ない橋を渡らずに済むようにしてきたからな。負けそうな時には戦わず、力を温存して次の機会を待った。勝てるまで戦い続け、勝てる時に一気に勝負をつける」
「勝てるまで続ける……」
思い返せば戦ってばかりであった気もする。
よくよく考えれば、よくもまあこれだけ戦い続けられたモノだ。
普通なら蔵が空になっているだろう。
「金があればこそだ」
「成る程」
確かに織田家は豊かである。
周辺諸国と比べてもその違いは桁違いだ。
それは鉄砲の保有数で顕著だろう。
鎧兜から武器に至るまで、豊富な資金で他を圧倒している。
「しかし、私の決定が織田家の命運を左右します。間違った道を選び、それによって死ぬ者が出るかと思うと恐ろしいのです。無駄死にさせた者らに、どう償えば良いのかと……」
心配なのはそれであった。
馬鹿な自分であれば気づくべきところに気づかず、愚かな選択をしてしまうかもしれない。
自分よりも余程有能な家臣達を無駄死にさせてしまう恐怖があった。
「自惚れるでない!」
息子を叱る。
「元より失った命の身代わりなど出来ぬ。判断を誤り、無駄死にさせる事もあろう。それでもやらねばならぬ!」
そうは言うが不安は他にもあったりする。
「私が愚かなばかりに、残された者らに苦労を掛けてしまうかと思うと……」
愚策によって織田の力を削いでしまう事を恐れた。
「気負い過ぎるな。お前が気にするべきは、お前が生きている間の事だけで十分だ。死んだ後の事まで気を回す必要はない」
「しかし……」
それは無責任に思われた。
不服そうな息子に問う。
「お前は一人では何も出来ぬ幼子と申すか? そのように育てた覚えはないつもりだが」
「い、いえ!」
慌てて否定する。
その返事を受け、諭すように言う。
「気負い過ぎるな。何も知らぬ赤子を残すのではない。残された者は残された者らでやっていくのだからな。現にそれだけの者らばかりであろう?」
「は、はい!」
能力のある者は、次代を担う筈の中にも多い。
ようやく安心した信忠であった。
「この世は夢幻の如くして、生死の定めなどあずかり知らぬ。我らは生ある限り、目の前の事に、ただ励めば良いのだ」
「承知致しました!」
敦盛の一節を拝借し、自身の考えを述べた。
前話でカルロスの存在を忘れていました。
彼は日本におり、勝二の屋敷に滞在しています。




