第61話 箱根
「極楽極楽」
「何言ってんだ?」
気持ち良さそうに呟く勝二を重秀が訝しんだ。
「いい湯を更に楽しむ方法です」
「へぇ」
弥助と幸村が感心したような顔をし、二人で口を揃える。
「極楽極楽」
「いや、まあ、いい湯だけどよ……」
のほほんとしている三人に重秀は呆れ、ふと視線を上げた。
山あいにある湯舟からは緑豊かな山々しか見えない。
世俗の煩わしさから隔絶した静謐さで、浄土はここかとさえ感じる。
折角の温泉だなと思い直し、今は心行くまで楽しもうと決意した。
「極楽極楽」
口にすると確かに極楽にいるような気分である。
日々の疲れが湯気と共に消えていく、そんな感じがした。
「極楽極楽」
今度は四人で呟いた。
一行は氏政の勧めで箱根の木賀温泉に来ていた。
箱根七湯の一つであり、その歴史は古い。
源頼朝の家臣である木賀吉成が戦で負傷した際、白狐に導かれてこの湯を見つけたという。
湯で傷を治し、平家との合戦で活躍したそうだ。
後、頼朝よりこの地を賜り、地名が木賀となった。
泉質はアルカリ性単純温泉で、切り傷や神経痛、冷え性に効果がある。
木賀は北条家の直轄となっており、勝二らの他に湯を満喫している者はいない。
「オラ達がご一緒してもええだか?」
お陽と新たに加わった文三がオロオロした顔で言った。
特に文三にとっては生きた心地がしないようである。
木賀温泉は氏政の家族しか来れない特別な湯である事は、小田原の民であれば十二分に知っており、そんなところに自分が入って罰せられないのかと恐れを抱いていた。
スペインから来た作物の種は栽培法と共に篤農家達に引き取られ、代わりに引き渡されたのが農家の倅、文三だった。
しっかり学んで来いと親達に言われ、訳も分からずにここにいる。
「折角の温泉ですし、皆で楽しまないと。それに我らは家族も同然、文三さんだけ入浴を許可しないとの特別扱いはしませんよ」
「それは特別とは言わないだよ」
「問答は無用です。ここはお風呂、お風呂ならば入るのが礼儀です」
「何を言ってるのか分かんねぇだ……」
異議は認められなかった。
文三は諦め、恐る恐る湯に浸かる。
「ええ湯だども……」
絶妙な湯加減にも拘わらず、緊張するばかりだ。
「極楽極楽」
先客らの呟きがまるで念仏のように聞こえてくる。
お陽も意を決したのか、着ていた衣服を脱いで肩まで湯に浸かった。
その湯は心までもほぐしてくれるようで、悩むのがバカらしくなってくる。
「極楽極楽」
二人して皆に続いた。
「盛清さんも入りませんか?」
「いえ、主を守る為には見張り役も必要ですので」
温泉の外で控えていた盛清が答える。
猿飛佐助探しは空振りに終わり、既に合流していた。
しつこく誘うのも自分本位であろう。
盛清の意志に任せた。
「温泉、最高だったね!」
箱根の湯を堪能し、上機嫌で弥助が叫んだ。
そんな弥助を見て男達が囁き合う。
「あいつの何は何なんだ?」
「馬かと思ったぜ」
「馬は言い過ぎですよ」
お陽には聞こえないよう、ヒソヒソと話す。
そんなお陽は脱いだ衣服を纏い、濡れた髪を丹念に布で拭き取り、乾かしている。
重秀が勝二を見つめ、ニヤニヤした顔で言う。
「風呂上りの女は色っぽいよな」
「ええ、まあ」
否定はしない。
混浴にもドキリとしたが、努めて考えないようにしていた。
「お陽を連れて帰っても大丈夫なのか?」
「何をした訳でもありませんし、それはこれからも同じですよ」
からかう口調に抗議する。
それなりの地位にあれば側室を持つのが普通の時代であるが、特段持ちたいとも思わなかった。
その辺りは現代的な意識が残っているのかもしれない。
「それよりも大将、体の調子はどうだ?」
重秀が真剣な顔に戻り、尋ねた。
大坂に帰るのはそれ次第である。
「有り難い事に随分と良くなりました」
「来て正解だったな」
勝二の答えにホッとしたように言った。
「もしかしたら体を温める事で、体内の住血吸虫が苦しんでいるのかもしれませんね」
「ほう?」
下痢が和らぎ、体のだるさも軽減している。
「体温を上げると病気に対抗する力が強くなると言います。湯治は体内に寄生する虫にも効果があるのかもしれないですね」
「たとえそうでも、住血吸虫に苦しんでるのは貧しい農民ばかりだったじゃねぇか。そんな貧乏人が湯治になんて行ける訳がねぇよ」
「そ、それは確かに……」
重秀の言う通りであった。
箱根に来るまでもなく甲斐にも温泉はあるが、長期間宿に泊まる湯治は貧乏人には出来ない相談だ。
「費用をどうするか、ですか……」
勝二は考え込んだ。
「たとえ健康保険的な仕組みを作り上げても、貧しい者ならば同じ事だろうし……」
相互扶助をするにも時代が早過ぎるだろう。
「やはり信長様にお願いして」
「頼み過ぎない方がいい」
「え?」
勝二の呟きを重秀が遮った。
「あの信長が損得を無視して貧乏人を助けるとは思えねぇな。となると見返りが必要だが、何を差し出せるんだ?」
「それは……」
あると言えばあるが、信長が満足するとも限らない。
「正直、大将のしてきた事を勘定すれば甲斐の病人を救うくらい屁でもねぇだろうさ。でもな、相手はあの第六天魔王と嘯く奴だぜ? どんな無理難題を押し付けられるか分かったもんじゃねぇさ」
「成る程……」
確かにそれは言えていよう。
信長は慈善家などではなく、戦国の世を生き抜く武将なのだから。
「となると自分で稼ぐ道を探すしかありませんか……」
「とりあえず幸村、盛清、お陽、文三も増えてんだぜ?」
「それもそうですね」
仕事はきつかったが気楽であった独身時代とは違い、今は複数の生活を支えなければならなくなった。
これまでのようにホイホイと情報を出すべきではないのかもしれない。
今回の農具にしても、商売につなげようとすればいくらでも出来よう。
「唐箕や千把扱きを宗久さんに売りつけますか」
「甲斐での出来事は既に報告として送られてるだろ」
ぐうの音も出ない。
勝二も意外であったのだが、この時代でも情報は驚く程の速さで周囲へと伝わっていた。
「となると……」
勝二は考える。
今の自分で出来る事は何なのか。
そして何をすべきか。
「今回、病気に苦しんで分かりました。やはり健康が一番です」
「違ぇねぇ」
更に勝二は考える。
病気への不安、それは治療する術を持たないからだ。
知識も欠如し、徒に恐怖だけを増幅させてしまうのである。
誤った情報が正されないので迷信が蔓延り、正しい対策も取られない。
「教育には時間が必要ですし……」
一応、自分の持っている病気への知識は、この時代でも役に立つと思う。
医療関係の情報をまとめ、責任ある人に任せれば良いのかもしれない。
自分でやれば確実ではあるが、信長はそれを許さないだろうし、人に物を教えるのは不得手だ。
「盛清さん」
「ははっ」
律儀に身辺を警護している筈の盛清を呼ぶ。
間髪入れずに返事があった。
「三ツ者を可能な限り大坂に呼んで下さい」
「それは構いませんが、一体何をなさるのですか?」
そのような命令は、彼らを率いるようになってから初めてである。
「全国に薬を売り歩く商売を始めようと思います」
「薬を?!」
「そりゃあ名案だぜ!」
富山の薬売りの真似事をしようと思った。
病気への恐怖は薬がないのと、あっても高くて買えないせいである。
漢方薬や伝統治療への知識なら多少はあるので、それを活かせるであろう。
それに三ツ者は諸国を巡り、各地の事情に通じている。
薬売りには適任だ。
「早く大坂に帰る為にも湯治に専念せねば」
勝二は固く心に決めた。
そして体調の快復を見定め、大坂へ向かう商人の船へと乗り込んだ。




