第55話 ヨーロッパの事情
スペイン、マドリード。
『陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう』
エル・エスコリアル宮殿にて、一人の男がフェリペ2世に膝を付いていた。
血色の良い顔に豊かな口ひげを蓄え、ふくよかな体格を華美にならない程度の上品な衣装で包んでいる。
個人の過剰な装飾を好まない彼に合わせ、敢えてそうしているのだろう。
男は、着飾ろうと思えばいくらでも出来る身分だった。
『サン・ミゲル商会の頭取が直々にお出ましとは、如何なる要件だ?」
スペインでは知らない者のいない大商会を切り盛りするその男、パブロ・サルバドールに尋ねた。
彼は新大陸からもたらされる産物を扱い、巨万の富を築いている。
王族とも親交が深く、フェリペ自身とも遠い血縁関係にあった。
忙しくスペイン国中を動き回り、頻繁に隣国にも赴いているそうで、宮殿の執務室に籠っている彼とは真逆である。
時々ではあるが社交界でも顔を合わせるので、直々に訪ねて来るのは珍しかった。
『日本の産物を是非とも我が商会で取り扱わせて頂きたく、参りました』
回りくどい話を嫌う国王に対し、単刀直入に来訪の目的を説明する。
その答えに納得した。
『カルロスのもたらした品物はそれほどの物だったか』
『仰せの通りです』
前回カルロスが持って帰った日本の品々は、王家の者だけではなく貴族にも好評だった。
見事な色艶をした食器類、細部まで装飾の施された工芸品、使い方は分からないものの、鮮やかな刺繍のされた衣服などなど、その質の高さに驚く者が多かった。
希少価値のある物を手に入れられれば社交界で大きな顔が出来る。
秘かにフェリペに交渉を持ちかける貴族が続出していた。
『フランスの社交界でも評判は上々でございました』
『ほう?』
それは初耳である。
とはいえ、それ程の意外性はない。
向こうで人気の物はスペインでも人気となるし、逆もまたしかりだ。
『新大陸の産物だけでは不足か?』
毒を隠す事なく言う。
スペイン帝国の黄金時代に当たり、サン・ミゲル商会も飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
これ以上儲けてどうするのだと言いたいのだろう。
熱心なカトリック信者であるフェリペに取り、貪欲は悪徳である。
『商いは日々移ろっております。今の儲けは明日の負債となるやも知れず、一つところに留まっている訳には参りません』
『ふむ』
言い訳めいた空気を感じさせず、パブロは言った。
その通りではあるなとフェリペは頷いた。
パブロが続ける。
『それに我が商会が帝国の繁栄に寄与している割合は、少ないモノではないと自負しております』
『それは否定せんが』
やんわりとした批判であった。
9年前、オスマン帝国との間で起きたレパントの海戦でも、サン・ミゲル商会は莫大な臨時徴税に応じ、スペイン海軍の勝利に貢献している。
そこを突かれると痛いので話を変えた。
『日本は近いぞ? 商会の船で直接行けば良いのではないか?』
『ご冗談を。海賊船は未だ跋扈しております。みすみす積荷を失う訳には参りません』
『成る程』
それまで、新大陸に向かう船は資金を募り、危険を冒して航海に出ていた。
航海で得られた財宝や物品などを売り払い、出資者はその中から配当金を得るのだが、サン・ミゲル商会はその関係性の中で商売をしていたのである。
成功するか分からないモノに投資はせず、危険な航海は命知らずな者達に任せ、届いた品物だけで商いを行うのだ。
とは言え、直接船を出せればそれに越した事はない。
冒険者への支払い額も大きく、それを省ければ儲けは更に多くなろう。
日本は新大陸よりもずっと近い位置にあり、航海の安全性は高くなったのだから。
『海賊船を一掃して頂けましたら改めて考えますが……』
控え目にパブロが言った。
イングランドは私掠船を認めており、その根絶は困難だと理解している。
『海賊船対策は急務だ。日本側と協力し、根絶を目指す』
『誠でございますか?』
そこで初めて驚いた顔をした。
日本の軍事力については正確な情報がなく、錯綜している。
しかし、国王がそう言うのだから期待しても良いだろう。
『吉報をお持ちしております』
『そうだな。その方の願いも前向きに考えておこう』
『ありがとうございます』
パブロは宮殿を後にした。
『陛下は何と?』
『前向きに考えておくと』
彼の帰りを待っていたのはフェルナンド・アルバ公爵、スペインの将軍である。
先代カール5世から王家に仕え、多数の新教徒を異端審問にかけて処刑してきた。
『日本との交易を我が国で独占出来れば、その儲けは莫大となろう。それをお前の商会が担えば、他の者に任せるよりは余程国庫に入る額が多くなる』
齢73にしてなお意気軒高である。
アルバ公爵とパブロの付き合いは長い。
サン・ミゲル商会の躍進は、彼の力添えがあって成った部分がある。
また、商会から莫大な援助を受けているからこそ、公爵の影響力は今も大きい。
『いっそ日本をカトリック国にしてしまえば良いのだ!』
『それは良い考えですな』
友人の思いつきにパブロは賛意を示す。
新大陸でもそうやってスペインの支配地を増やしてきた。
『我がスペインはカトリックの保護者。我らを仰ぎ見て、彼らが持つ宝物を喜んで捧げるだろう』
『楽しみですな』
二人は互いの顔を見合わせ、笑った。
『それには教皇の決断が必要になるな』
『法王庁には既に手を打っております』
『流石だ』
公爵はパブロの深慮を褒めた。
『本当に行くのか?』
小船に荷を積み込んでいる友人の身を案じ、男が尋ねた。
彼が挑もうとしている冒険は正気の沙汰とは思えない。
海はまだまだ荒れており、その小船で乗り越えるのは無謀に感じる。
しかし、男の心配は全く届いていなかった。
『ああ』
船上の人物はそう短く答え、黙々と手を動かしていく。
決意の固さに男は諦め、作業を手伝った。
『助かったよ、ありがとう』
二人作業は効率が良く、予定よりも早く積み込みを終えられた。
友人の感謝に男は肩をすくめる。
死地への船出を早めた気がして居心地が悪い。
こうなっては必ずや成功して欲しいと思った。
『西の果て、現れた日本に約束の地を見つけられる事を祈るよ』
港で見送る男の言葉に、船の上から笑顔で応える。
『その日本からイングランドに客が来たというではないか。我がアイルランドの未来の為、必ずや成功させてみせる!』
そう言い残し、船を出した。
風があり波は荒い。
たちまちのうちに船は高波に姿を消す。
見送る男はアッと息を呑んだが、波が去れば船は再び現れた。
男は船が西の水平線に消えるまで、ずっとその場に立ち尽くのだった。
『女王陛下』
自室で物憂げな表情を浮かべていた彼女に、大蔵卿ウィリアム・セシルが呼び掛けた。
このところ、心ここにあらずな状態が続いている。
彼はその理由に気付いていたが、敢えて深くは考えない事にしていた。
時間が解決するであろうし、下手に突っついて藪蛇になっては不味い。
しかし執務に影響があっても宜しくないので、決断を仰ぐべき事項がある時には声を掛けざるを得ない。
出来れば放っておきたかった。
『何です?』
座った椅子から視線を動かす事もせず、女王は背中越しに答えた。
面倒だと感じているのがヒシヒシと伝わる。
大蔵卿は鉄の意志で言葉を続けた。
『樺太と呼ばれる島に我が国の拠点を築くべきかと存じ上げます』
『からふと?』
聞き慣れぬ島の名前に女王は一瞬だけ興味を引いたようだ。
しかし、それも直ぐに消え失せる。
再び沈黙が場を支配した。
ウィリアムは仕方ないと裏技を出す。
『実は景綱様のご助言にございます』
『何ですって?!』
眠りこけていた猫が驚きで飛び起きたように、エリザベスの体が椅子から躍る。
ガバッという音が聞こえるような勢いでウィリアムに振り向いた。
『景綱様が何です?』
先程までの無関心ぶりはどこへやら、目を生き生きとさせて質問してくる。
ウィリアムは内心で盛大に溜息を付きながら、これも王国の為だと割り切り、説明していく。
『樺太とは日本と共に現れました、アメリカ大陸と我が国とを結ぶ途上に浮かぶ島の事です。景綱様が仰るには、アイヌと呼ばれる蛮族が支配するだけの島なので、女王陛下が命令しさえすれば征服は容易いだろうとの事です』
『まあ!』
女王はその言葉に頬を染めて喜んだ。
何に喜んでいるのかは敢えて詮索しない。
『樺太は、我がイングランドがアメリカ大陸に進出するのに、誠に都合の良い場所に位置します』
アメリカ大陸への進出の試みは、この時代以前にも行われている。
しかし、冬の厳しさや航海の不安定さなどから恒常的な入植とはならず、散発的なモノに過ぎなかった。
この度、日本列島が大西洋の真ん中に出現した事により、これまでとは大きく条件が違っている。
今こそ進出を進めるべきだとウィリアムは思った。
『スペインが日本の有力者と同盟を結んだ今、このままではアメリカ北部の入植でも後れを取ってしまいます。景綱様もその事を危惧されておりました』
『そうなのですか?! ならば早速取り掛かるのです!』
女王の決断は早かった。
いつもこの調子ならありがたいと思ったが、一方で危うい状態でもある。
景綱の名を出すのは便利だが、使い方を誤れば国を危険に晒す事になりかねない。
ウィリアムの危惧を知らず、女王はまるで恋する乙女のような顔で尋ねる。
『それで景綱様はいずこへ?』
『若君と共にロンドンを巡るとの事です』
『仰って下されば私が案内しましたのに!』
悔しそうにエリザベスは言った。
『女王陛下、あの者らはいずれ自身の国に帰ります。情けをお掛けなさりませんようにお願い致します』
『お黙り! そんな事は百も承知です!』
長年に渡り女王を支えてきた男の忠告であったが、女王の怒りを買うだけに終わる。
『客人を持て成すのは主の務め。あの方達は言葉に不自由しているのですから、なおの事です! 本当であれば手取り足取り、この国での生活をお手伝いしたいくらいですのに!』
処女王エリザベス、47歳にして恋をしていた。
パブロ・サルバドール、サン・ミゲル商会は架空の存在です。
フェルナンド・アルバ公爵は当時のスペイン貴族ですが、名前だけ借りました。
エリザベス女王に関しましては、物語という事でお許し頂ければと思います。




