第5話 長崎とルイス・フロイス
『計算した位置に陸地です!』
『まさか本当に?!』
陸地を発見との見張り台からの報告に勝二は思わずガッツポーズをした。
通常であれば那覇から長崎へ向かう場合、北北東からやや北寄りを目指して進む。
今回はそれより約23度東より、北北東から北東の間に向かって進路を取ってもらった。
※イメージ
本来であれば那覇から北東に進めば島々の間を通り抜け、九州もかすらない筈なのだが、何故か目の前には大きな陸地が見える。
『見えているのは長崎ですか?』
勝二は帆柱の上の見張りに声を張り上げた。
陸地があっても長崎でなければ意味がない。
熊本や鹿児島では計算とは違い、仮説が否定されてしまう。
『もう少し近づかねぇとはっきりとは言えねぇが、まず長崎で間違いないと思うぜ!』
負けじと見張りが怒鳴り返した。
長崎には何度か来ており、島影の見え方を覚えている。
見覚えのある山並みが広がっていた。
それを聞いた乗組員の間にどよめきが上がる。
『まさか本当にここが大西洋だと?』
ヴァリニャーノは依然、半信半疑である。
神への信仰篤い彼にとり、周りの者達のように軽々しく奇跡だと口にする事は憚られた。
勝二が補足する。
『ここが大西洋かは確定しておりません。日本の島々がその向きを変えただけかもしれませんし、もしかしたら地球が向きを変えたのかもしれません。また、ハバナからやって来た彼らも、バミューダ・トライアングルに捕まって太平洋に彷徨い込んだだけかもしれませんから』
『何だね、そのバミューダ・トライアングルとは?』
意味の分かりかねる説明をされて更に困惑する。
『航海における難所の意味です』
『そうなのかね』
冗談で言ったので曖昧にして誤魔化した。
仮に大西洋から彷徨い込んだとしても、不思議な出来事には違いあるまい。
『しかし、もしもここが本当に大西洋ならば大変な事だよ』
ヴァリニャーノは考え込む。
事実であったら手を打たねばならない事が多すぎた。
『すぐに教皇様に連絡せねばならん』
それは第一にやらねばならない事だ。
ローマ教皇に仕えるのがイエズス会である。
『これが奇跡なのかどうか、教皇様に判断してもらわねばなるまい』
日本が大西洋に移動したこの事実をどう解釈すべきなのか、卑小な自分が下して良いとは思えない。
そして、その結果によって今後の採るべき道が違う気がする。
『全ては神の思し召しなのだろうが……』
それだけは確かであった。
『長崎に着いたらどうされるのですか?』
勝二が予定を尋ねた。
日本に帰っても身寄りのない、どこの誰でもない勝二である。
信長に会おうにも、伝手がなければ国内を移動する事さえも難しそうだ。
宣教師として基盤を築いている彼らに付いていくのが、取りうる最善の方法に思えた。
史実で謁見に向かう事は分かっている。
『日本赴任は事前に伝えてある。まずは仲間達と話し合うつもりだ』
正直ヴァリニャーノ自身、周りで起きた事が突飛過ぎて頭が全く付いていけてない。
教皇に連絡を取る事以外には思いつかなかった。
『長崎にはどなたがおられるのですか?』
『日本での滞在期間の長いフロイス神父がいる筈だが……』
勝二らの話題となっていたルイス・フロイスはイエズス会の宣教師である。
ポルトガルのリスボンに生まれた彼は、インドのゴアでイエズス会士としての教育を受けている際、日本へ布教に行く寸前のフランシスコ・ザビエルと出会い、大きな感銘を受けた。
自分も日本へ行きたいと思うようになり、1563年、念願であった日本の地を踏んでいる。
31歳の時だ。
以降、熱心に日本語を学びつつ、風変りに感じる日本の礼儀作法なども身につけ、イエスの教えを広めていった。
1569年、布教活動の保護などを求めて将軍足利義昭を訪ね、二条城の建築現場で、彼の後ろ盾であった織田信長と対面している。
上洛を果たして全国にその名を轟かせていた信長であったが、自ら建築現場に立ち、作業についてアレコレと指揮するなど、フロイスの持っていた日本における当主像を打ち破る人物だった。
また、酒に酔って女にちょっかいを掛けた男の態度に激怒し、腰の刀を抜いて一刀の下に斬り殺す、激烈な感情の持ち主でもあった。
しかし、フロイスやキリスト教には好意的で、快く布教を許可してくれた。
どうやら仏門の僧侶達の腐敗ぶりに嫌気がさしていたらしい。
信仰を広めるという大義を持ち、遠く海を越えてやって来たフロイスに、新しい宗教の在り方を見出したようだ。
とはいえ、彼に神の素晴らしさや示された教えについて語ろうとも、全く聞く耳を持ってはくれない。
あまつさえ、進出した地の民を支配しやすくする為だろうとまで言い出す始末。
勘違いだと慌てて否定したものの、神についてはすっかりと興味を失ったようで、質問はフロイスが持参した地球儀や時計など、西洋の進んだ学問や技術についてであった。
そのような空振りも積み重ねながら、日本での布教活動を続けていった。
そんなフロイスの目下の懸念は、自分の上司でもある日本布教区長、フランシスコ・カブラルである。
強い西洋人優越主義者である彼は、日本の文化や風習を劣ったモノと評価、日本人を低劣な人種と見做していた。
派遣された宣教師達が、日本の文化に染まる事や日本語の習得を強く否定、前任者コスメ・デ・トーレスの方針であった、日本の価値観を取り入れて布教に活かす適応主義を撤回している。
また、日本人にラテン語などを教える事も禁止し、前任者が進めていた日本人司祭育成の道も閉じた。
日本人の持つ資質を高く評価していたフロイスにとり、この布教区長は悩みの種である。
巡察師として日本に来るヴァリニャーノに、布教区長をどうにかしてもらわねば、日本での布教活動がままならないと訴える事を考えていた。
彼がマカオに到着したという手紙を受け取っている。
日数的に、もうすぐ到着する筈だと考えて長崎にて待機していた。
ヴァリニャーノに伝えねばならない事は、カブラルの事に加えて太陽の進む位置が変わるという天変地異の事だ。
ある日突然朝日の昇る方角が変わり、夕日の沈む位置が変化した。
どうした事だと不思議に思い、その意味を仲間内で話し合っていると、日頃から自分達の存在を快く思っていなかった僧侶達が、その原因を我ら宣教師達の布教活動に求め、民衆の間に広めていると耳に入ってきた。
邪教を流布せんとする行為に大日如来が怒り、警告の意味を込めて黄道(地球から見て太陽が天を進む道)を変えたと言うのだ。
一笑に付したかったが、かと言ってそれを否定する根拠も持たない。
聖書にも記されていない出来事であるし、何が起きているのか、何故起きたのか、原因も理由も皆目見当が付かなかった。
不安がる民衆が扇動に乗せられ、宣教師の排斥運動に繋がりつつあるという憂慮すべき情報が寄せられていた。
信徒も心配そうな顔で集まってくれていた。
しかし、それを解消する方策はある。
この度の天変地異の理由を説明する機会を、知己を得ていた信長が提供してくれたのだ。
理由について知見を持つ者を安土城に招き、己の考えを広く訴える場である。
好意なのか試すつもりなのか、信長から直々に手紙が送られてきた。
一向宗の僧侶が既に名乗りを上げている事は聞いている。
彼らはカトリックの布教と、それを許した信長の政策にその原因を求めるであろうが、真っ向からそれを否定出来れば解決する筈だ。
裁定者は合理主義者の信長であるから、綻びの一切ない、理屈だった説明を出来れば納得させられると思う。
けれども問題は、その理屈がまるで思いつかない事だった。
神の起こした奇跡と口にするのは簡単であるが、その奇跡は何故かと信長に問われる事は明白である。
僧侶達に対抗し、彼らの頑なな態度こそが原因だと言い募れば論戦に負けはしないだろうが、肝心の信長は落胆するであろう。
西洋の科学はこんなモノかと見限り、布教そのものを禁止してしまいかねない。
民衆を安んじる事に腐心する為政者にとり、それで民衆の不満が解消するのであれば、布教の許可を取り消す事くらいは何でもない。
日本におけるカトリックの危機が目前に迫っているように思われた。
悩むフロイスの前に水平線から数隻の船が現れた。
故郷ポルトガルの船と隣国スペインの船である。
珍しい事もあるものだと訝しむ。
1529年に結ばれたサラゴサ条約により、長崎はポルトガルの勢力圏となった。
スペインの船が長崎に立ち寄る事は、緊急時でもなければない筈である。
しかも並走しているなど考えられない。
自分の知らない異常事態が起きているのだと戦慄した。
ガレオン船が沖に停泊し、乗員は小舟に乗り換えて長崎の港に上陸した。
1579年7月の事である。
その中にイエズス会士の服装をした男を見つけ、フロイスはホッとして声を掛けた。
『失礼ですが、貴方はブラザー・ヴァリニャーノですか?』
『そうだが、では君がブラザー・フロイスかね?』
二人に面識はないが、会への報告という形で連絡は取っていた。
『初めまして、ルイス・フロイスです。ようこそおいで下さいました』
『東インド管区の巡察にやって来た、アレッサンドロ・ヴァリニャーノだ。宜しく頼む』
双方共に気が急いでいたが、通り一遍の挨拶を交わす。
『では早速だがブラザー・フロイス。今すぐこの地に集まれるイエズス会士を呼んで欲しい』
『どういう事ですか?』
訳が分からず問い返す。
ヴァリニャーノはそれには答えず質問した。
『ブラザー・フロイス、ここ最近大変な出来事が起きた筈だが?』
『もしかして?!』
驚いた顔のフロイスにヴァリニャーノは天を指さす。
『やはりここでもそうなのだな。そう、アレだ』
容赦なく照りつける太陽を示した。
こうして九州に滞在するイエズス会士が急遽集められ、会議が開かれた。
議題は直近に起きた天変地異の事である。
ヴァリニャーノは自身が体験してきた事と、勝二の仮説を説明する。
集まった誰もが度肝を抜かれたが、北極星の角度や太陽の方角という、観測された数値から導き出されたその仮説を、明確に否定出来る論拠は持たない。
そして仮説を補強する為、数名がスペイン船に乗ってヨーロッパに戻る事を求めた。
急ぎ教皇にこの事を報告し、イエズス会の総長に今後の事を相談する目的である。
また、大西洋に突如現れたこの国の事情を、スペインを始めとしたヨーロッパ各国に説明し、無益な争いが起きないように取り計らう事を目指す。
日本の国力は侮りがたく、他の国や地域に接するように力で出れば反発を受ける事は必至で、寧ろそれ以上の事を心配せねばならなくなるだろう。
下手をすれば、侵略を受ける側になるのはヨーロッパの方かもしれない。
平和的な関係が結べるよう、各国に働きかける事を求めた。
そしてヴァリニャーノ自身は、畿内を平定しつつある織田信長に謁見する事を決める。
フロイスから報告のあった、この天変地異を説明しに来いとの誘いを受けてだ。
カトリックへの誹謗中傷を解消し、併せて日本人への説明も兼ねている。
出来れば本当にヨーロッパが直ぐ近くなのか、確認してから謁見に臨みたかったが、今は時間を掛けるべきではないだろう。
早々にも長崎を発ち、信長の居るという安土城に向かうべきだと考えた。
※スペインのガレオン船