第41話 甲斐の宿業、住血吸虫
そうこうしている内に信長が帰ってきた。
その顔は心なしか、血の気が引いているように見える。
何事かと諸侯らの注目が集まる中、おもむろに口を開いた。
「各々方に見てもらいたいモノがある」
「それは何ですかな?」
盟友家康が気安さを感じさせる声色で応えた。
目で感謝を伝え、続ける。
「甲斐を任せた者から早馬が届いた。何でも、甲斐には積聚の腸満に罹った者が蔓延しているとの事。その病人を一人こちらに送ったので、何の病か見て欲しいそうだ」
「積聚の腸満ですと?」
その言葉に氏政が反応した。
積聚の腸満とは病気によってお腹が膨れてしまう症状を指す。
「北条殿、何か心当たりがおありか?」
「噂でしか聞いた事はないのだが、甲斐には不可思議な病があると……」
信長の思った通りであった。
甲斐の国は氏政の支配地域と接しているので、何か知っているのではと考えたのだ。
「どのような病か耳にしておられるか?」
「いや、そこまでは……」
奇妙な病があるらしいとだけ知っていた。
無論、信長もそれについて追及するような真似はしない。
今もその地にいる一益でさえ、病の正体が分からずにいるのだから。
「その患者が城に着いたのだ。先ほど儂も確認したがさっぱり分からぬ。各々方の地で似た病があればと思い、確認願いたい」
「成る程」
諸侯らが納得した中、顕如だけが眉を寄せる。
その意味を正確に察したのか、信長が言う。
「先に言っておくが、他人にうつる心配はないから安心めされよ」
「ふむ」
顕如は、してやられたという顔をした。
「叔父上、これは?!」
「惨いな……」
輿に乗せられ、その者はやって来た。
手入れされずにボサボサの髪を長く伸ばし、目の下には深い隈を刻み、頬は痩せこけアバラの浮き出た胸部をはだけさせ、手足は細くて今にも折れそうな枯れた木の枝のようである。
何よりの特徴は、六道で言う餓鬼のような、大きく大きく膨らんだそのお腹であった。
初め、その者を城で迎えた信長は、長島の一向宗徒が思い起こされて冷や汗をかいた。
長島の戦いは、それだけ嫌な記憶である。
何より頭にこびりついているのが、餓死寸前であった門徒達の目だ。
痩せこけ、歩くのもやっとでありながら、目だけが異常に輝いていた彼ら。
その姿が目の前で臥せっている者と重なる。
約束を反故にして根切りに及んだ際、裏切りに怒った彼らは褌姿で突撃してきたのだ。
餓死寸前である筈なのに、鬼気迫る彼らの攻撃は凄まじく、兄の信広や弟の秀成といった、多くの織田一族を一度に失う事になった。
その痛手は大きく、彼の領内経営に深刻な打撃を与えた。
寝そべり、自分を見つめるその者。
あの時の門徒と同じように、目だけが異様にぎらついている。
突如、ガバッと起き上がり、隠し持っていた刀を抜いて、鬼の形相で自分に切りかかって来る妄想に襲われた。
しかしそれも一瞬だけで、妄想から醒めてみれば、その者は変わらず寝込んだままである。
甲斐を押さえている一益が、この者を慌てて送りつけてきた理由が分かった。
戦いの後、長島を支配したのはその一益である。
自分と同じような悪夢に襲われたのだろう。
根切りの呪いが今頃になり、自分達に襲ってきたのだと思ったのかもしれない。
「この病の詳細を知る者も一緒だ」
蘭丸に連れられ、もう一人の男が部屋へと入って来る。
入った途端、まずは内装の豪華さに驚き、キョロキョロとせわしなく周りを見ていたかと思うと、自分を見つめる者達に気付き、あんぐりと口を開けていた。
「蘭丸、説明させよ」
「分かりました」
信長の命を受け、蘭丸がその男に話を促した。
蘭丸の言葉に我に返ったのか、慌ててその場に膝をつき、頭を下げる。
畏まって頭を上げようとしない男に根負けしたのか、そのままで良いから話して欲しいと言うのだった。
「お恐れながら申し上げます!」
男は時折声を詰まらせながら、村の状況を語り始めた。
「かように、一度腹の膨れた者は二度とは快復せず、このまま衰弱して死んでしまうのです!」
涙を浮かべ、悲痛な胸の内を吐露する。
それを横で聞いている筈の者は、身じろぎ一つする事なく天井を見つめていた。
「叔父上……」
「まさか、な……」
男の説明を聞き終え、輝元と隆景が何やら小声で話した。
病の事もあるが、二人の会話が気になる勝二であった。
そんな風に油断している中、だしぬけに名前を呼ばれて飛び上がる。
「勝二!」
「な、何でしょう?」
信長であった。
鋭い目で勝二を睨んでいる。
「貴様、何を隠している?」
「な、何の事でしょう?」
どの事を言っているのかと思い、ドキリとした。
「この病を知っておるな?」
そっちかと安心したが、それはそれ、これはこれとして答える。
「私は医者ではないので確かな事は言えません!」
「やはり知っておるのではないか!」
その答えに驚く諸侯であった。
「心当たりの病はありますが、調べてみないと本当かどうかは」
「さっさと言え!」
「はい!」
信長に一喝されて知っている事を話し始めた。
「これは多分、住血吸虫による感染症だと思います」
「住血吸虫だと?」
無論、誰も聞いた事のない病名である。
呆然としているのは説明に来た男であった。
「川の水に住む寄生虫、小さな虫が体内に入り込み、血液の中で増殖して体に悪影響を及ぼす厄介な病気です」
「体の中で虫が増えるだと?!」
「虫が川の水に住んでおるのか?!」
諸侯らは腹の膨れた者を見やる。
体の中で虫が増えるという、その意味するところにゾッとした。
「して、治るのか?」
そこが一番重要であろう。
信長の問いに、村人の男は縋りつくような目で勝二を見上げた。
この病についての言い伝えは、小さな頃から繰り返し何度も聞かされて育ってきている。
甲府盆地に生まれた者の宿命、小作農民の生業病と言われ、原因も分からず効果のある治療法もなく、一度発症すれば死んでいくだけだと誰もが覚悟し、諦めていた。
それがどうだ。
しっかりとした名前のある病気だと知り、理屈は全く理解出来ないものの、病気に罹る原因も分かっているらしい。
男にとって勝二の説明は、暗闇に差し込んだ光明その物であった。
一方の勝二は言葉に詰まる。
信長の問いに答える事が出来ないでいた。
それは知らないからではなく、この場で言うには余りに忍びないから、だった。
「どうした?」
信長が疑問に思い、先を促す。
しかし、躊躇われた。
村人らの近くに控えている蘭丸に視線を送る。
その意図を察し、主に申し出た。
「お館様」
「何だ?」
「この者達は長旅で疲れているでしょうから、ここは一旦下がらせては如何でしょう?」
「ふむ、そうだな」
甲斐からの遠い距離を旅してきた筈である。
それもそうだと思い、休む事を許した。
勝二はホッとする。
残酷な事実を本人に聞かせずに済んだと安心した。
「お待ち下せぇ!」
と、それに待ったを掛ける者が現れた。
誰だと思えば住血吸虫に苦しんでいる当の本人であった。
臥せったまま、気力を振り絞って発した声である。
叫んだだけで疲れたのか、痩せた胸を荒く上下させている。
しかし、首だけを動かし勝二をしっかと見据え、懇願した。
「覚悟は出来ております。教えて下せぇ」
その目は、これまで何度も目撃してきた、己の死を受け入れた者のそれだった。
医療品の欠乏した難民キャンプで、貧しさから満足のいく治療を受けられないスラムで、絶望と苦痛の中死んでいく事を余儀なくされた者達の、最期の誇りとも言えた。
そんな矜持を前に、事実を誤魔化す事は誠実ではないだろう。
「住血吸虫症を治療する薬は、今のところありません」
死の宣告に等しい言葉を、勝二はその者の目を見ながら言った。
「して、北条殿が噂でしか聞いた事のない病を、どうして貴様がその原因までも知っておるのだ?」
村人らが部屋を去り、何となく言葉憚られる中、気にする事なく信長が問うた。
勝二は淡々と答える。
「異国でも同じ病があるからです」
「何?」
それは自分が経験してきた記憶である。
「アフリカでも問題となっておりました」
「ほう? そうなのか?」
住血吸虫症は、タイムスリップ前のアフリカを始め、世界で広く問題となっていた病気であった。
淡水産巻貝を中間宿主とし、哺乳類を最終宿主にしている寄生虫で、感染者の糞便が川に流れ込むと虫の卵が環境へと広がっていく。
※住血吸虫の生活環
故に、下水道の整っていない地域や、川の水を直接に利用する者達に感染を引き起こしやすい。
勝二は、感染者を多く出している、貧しい家庭の多い地域の病院に依頼され、治療薬を手に入れて届けた際、症状に苦しむ患者の姿を見ていた。
住血吸虫は世界で初めて日本人がその病理を解明し、国内からの撲滅を達成した
病気でもある。
「どうすれば良い?」
一益が早馬を送ってきたのも、それが目的だった。
とかく支配者が変われば統治方法も変わり、その地に住む既得権益者は反発しやすい。
民衆の不安を煽って反乱を起こさせ、権益の増大に腐心するのだ。
しかし、もしも新しい領主が、住民に広く知られた厄介な病気を治せたらどうなるか?
その功績に人望は鰻登りであろう。
慎重さが求められる領地支配に対し、並々ならぬ効果を発揮するのである。
甲斐を任された一益もそれを期待し、新参者の知識に賭けたのだ。
そんな期待を知らぬ勝二は、知っている予防方法を述べる。
「まずは川の水に、不用意に触らない事が第一です。普通、井戸水には住血吸虫はおりませんから、炊事洗濯には井戸水を用い、川で泳ぐ行為や川で体を洗う事を禁止します」
中間宿主のいない環境では住血吸虫も育つ事が出来ない。
宿主となる巻貝が生息しておらず、汚染されない限り、井戸水は基本的に安全である。
一方の湧き水は、いくら綺麗に見えても、途中でどのような汚染が為されているか分からないので、安心して使う事は出来ない。
「川の水は水田で使うのであるから、稲作をしている限り無理であろう?」
疑問に思った氏政が尋ねた。
その通りである。
現代であれば防水の手袋や長靴など感染を防ぐ手段はあるが、当時にそのような物などない。
「稲作を止め、畑のみにすれば病の拡大は防げます」
「それはそうだが!」
勝二もそれが無茶な提案である事は分かっている。
米は兵糧として備蓄せねばならない重要物資であるし、何より食って旨い。
領主として、米を作らないという選択肢は取れない。
「お願いがございます!」
何を思ったか、勝二は信長に頭を下げて申し出た。
「何だ、申せ」
「四街道の整備には、その村の者達を雇う事は出来ませんでしょうか?」
「何?」
どういう繋がりだと尋ねた。
「この病気は一度や二度くらい川に浸かったからとて、あの者のようになる事はありません。長年に渡り川の水に浸かり続けていた為、あのように重症化するのです。それは同じ地域に住む、裕福な家には病人が出ないという、村人の証言からも推し量れます」
「確かにそう言っておったな」
村人の言葉を思い出し、信長は言った。
「貧しい家は湿田しか使う事が出来ないとありました。湿田は収穫時期になっても水が引かず、住血吸虫のいる水と接する時間が増えます。泥が深ければ体を洗う面積は増え、必然的に川に浸かるのも長くなるという訳です」
「成る程」
納得出来る説明であった。
泥が深い田は、腰まで浸かって作業する必要がある。
「川から離れれば確実に病気を防ぐ事が可能です!」
「代わりの食い扶持に街道の整備という訳か」
「ご明察、その通りです!」
今で言う出稼ぎに近い。
「街道の整備に賃金を支払い、その中から年貢を徴収するのです!」
「ほう?」
公共工事と言えようか。
「国を結ぶ街道には丈夫な道が必要となります。特定の集団に任せて技術を高めれば、質も効率も高くなると思います」
「成る程」
やればやるだけ熟練していき、巧みになろう。
信長はその提案に頷いた。
それを肯定だと思い、喜びかける。
「では」
「駄目だ」
「え?」
しかし、信長の答えは却下であった。
「武田の残党が紛れ込まぬとも限らぬ。そのような者らをわざわざ国の中に招き入れる必要はあるまいし、同盟を組んだ諸侯らの下に送る訳にもいくまい」
「そ、それは……」
当然過ぎる警戒であった。
「他に何かないのか?」
未練がましい勝二を他所に、信長は別の案を求めた。
仕方なしに頭を切り替え、思いついた事を口にする。
「確実に病を出さない方法に、村を捨てるという選択肢もございますが……」
「村を捨てる、か」
信長は興味がなさそうに呟いた。
先祖伝来の土地を捨てる決定など、下したところで反発しか生まないだろう。
「村を捨ててどこに行かせるつもりだ? 残念ながら我らにそこまでの余裕はないぞ?」
ともあれ、気になった事を尋ねた。
どれだけの人数か分からないが、家を用意するだけでも大きな負担である。
「北条でも難しいな」
「右に同じ」
「村ごととなると厳しい気がするぞ」
「毛利は山が多いですし……」
労働力はどこでも欲しいが、住まわせるとなると話は変わる。
移り住んだ当面は年貢を免除せねばならないし、元から住む者らとの衝突も増える。
そう簡単にはいかない。
「そ、そうなると……」
国内が駄目となると、後は国外に目を向けるしかない。
勝二は自分の知識の中に、打ってつけの地がある事を知っていた。
「実はカリブ海のスペイン領では、サトウキビ栽培に多くの労働力を必要としています。過酷な労働ですが、病に苦しむよりましかと思いますが……」
スペイン人の持ち込んだ病気で原住民は激減し、アフリカから連れて行った黒人奴隷の数はまだまだ少ない。
スペインは本国からの移民を募集していたが、余りの過酷さに多くが逃げ帰っていた。
数千人単位で今すぐ受け入れ可能な場所と言えば、そこくらいしか思いつかない。
病気の蔓延した地と過酷な労働の待っている異国の地。
どちらに住むのが幸せなのか分からないが、他には考えつかなかった。
そんな勝二に対し、何か思いついたのか氏政が言う。
「いっそカナダとやらに送り込めば良いと思うのだが?」
「え?」
勝二は氏政が何を言ってるのか分からなかった。
「成る程、村ごと送り込んで鉄を掘らせれば良い!」
「村を捨てて新しい村を作らせる訳ですな!」
「名案です!」
何やら諸侯だけで盛り上がっている。
「いえ、あの、北米にはネイティブのアメリカン、元々住んでいる人達が沢山住んでますし、鉱山があるのは内陸部です。5年や10年、いえ100年は見積もらないといけない遠大な計画になると思います。思いつきだけでは余りに無謀と存じますが……」
「そうか、まさに天下百年の計という訳だな!」
勝二の諭すような指摘も意に介さない。
「天候の変化で作物が減るのであれば、人減らしを兼ねてサトウキビ畑に送れば解決するぞ!」
「それは良い!」
どんどんと話が進んでいく。
「それは禁止した奴隷その物だと思いますが……」
「何を言う! 年季奉公であれば問題なかろう!」
期間限定の労働だと言いたいらしい。
尚も言い募ろうとする勝二を制し、信長は言った。
「いずれ全てを手に入れるのだ。今のうちから人を送り、現地の事情を調べさせておくに越した事はあるまい」
「草ですな」
現地に溶け込み、来たるべき時を待つ者を草と言う。
今風に言えばスリーパーセルであろうか。
「勝二よ、まずは甲斐に行け!」
「私が、ですか?」
思ってもみない命令に戸惑う。
「カナダの鉄山開発を条件に、街道の整備を任せよう!」
「交換条件ですか……」
そんな未来を村人に飲ませるなど、気が滅入る交渉となりそうである。
「あいや、暫く!」
声を出したのは隆景であった。
「実は毛利にも同じ病があるのです!」
「何ですって?!」
一同びっくりな告白であった。
日本を遠く離れ、アイルランドの西に浮かぶ小さな小さな島、シュケリッグ・ヴィヒル。
アイルランドではキリスト教が伝来するよりも遥か以前、西方の果てに天国があるとのケルトの信仰が根付いていた。
ポートマギーの西の海にある絶海の孤島シュケリッグ・ヴィヒルは、先祖伝来の風習を保つ者達の信仰を集め、数名の修道士が岩を積んで孤島に庵を築き、祈りの生活を送っていた。
冬の海は荒れがちで、波が穏やかになるのは数える程しかない。
今日も厚い雲が空に垂れ込め、庵の外には小雪がちらついている。
身を切る寒さの中、静かな祈りを捧げている筈のその島で、数日前から熱い討論が巻き起こっていた。
『アイルランドの西の果てに島が現れたのか?!』
『神の示された奇跡だと?!』
その驚くべきニュースは、物資を運ぶ船からもたらされた。
伝承にある天国が、神の思し召しで自分達の前に出現したのではないかと思った。
庵に開いた窓から西を見つめる。
相変わらず何もない、冬の大海だけが広がっていた。
と、厚く立ち込めた雲から一筋の光が差す。
西の方向を真っ直ぐと示す、神の導きに思えた。
長い黙考の果て、一人の修道士が決意する。
『西を目指そう』
庵から見える大海は、白波を大きく立てて荒れている。
夏を待ち、船を出そうと誓った。
イメージにある『住血吸虫の生活環』は、Wikipediaにある『住血吸虫』の項目から引っ張って来ました。
著者:original image by the Centers for Disease Control and Prevention (CDC),
translation by Hisagi




