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第36話 勝二の新婚生活

 「勝二様」

 「あ、はい」


 妻お市の呼びかけに夫勝二は我に返った。

 信長の大坂行きに従って新居を移し、勘当された体のお市が尾張より嫁いできたのは、大坂の町にも雪がちらつき始めた最近の事である。

 織田家から厄介払いされたというのが、家臣団や世間に向けた表向きの理由なので、輿入れの列は至って簡素であった。

 しかし、大坂の民にも第六天魔王信長の悪名は轟いており、その妹にして戦国一の美人との呼び声高いお市の大坂入りは、人々の耳目を最大限に集める出来事だった。

 テレビもラジオもない当時、全国にその名を知られた有名人など限られる。

 娯楽の少ない人々にとり、話題のお市を一目見ようとして集まるそのエネルギーは、初詣の明治神宮を知る勝二も驚いた程だ。

 悪名高い信長ではあったが、織田軍の規律は厳しく、本願寺との戦においても市井の者達が徒に犠牲とはなっていない事もあり、民は安心してお市見物に殺到した。

 この人だかりに何か物を売れたらと他人事のように思ったのは、元商社マンのさがであろうか。 

 尤も、二人の新居を用意してくれた宗久は、抜かりなく商売の機会としているようだった。


 「今朝も舟を見ておられるのですか?」

 「ええ、まぁ」

 

 妻の質問にぎこちなく応える。

 タイムスリップ前を含めて結婚は初めてであり、妻とどう接して良いのか未だ掴めていない。

 というより、女性と親しくする事自体に慣れていなかった。

 業務で接する場合は特に意識する事はなかったのだが、プライベートではまるで駄目である。

 そんな男がいきなり結婚し、妻の存在に戸惑うのも無理はないだろう。

 勝二にとって不幸中の幸いは、現代的な価値観とは無縁の時代だという事だ。

 事業の成功を祝うパーティーで、女性に対してスマートな振る舞いが出来ず、同僚達に陰で馬鹿にされたモノだったが、ここでは問題視される事はないだろう。

 とは言え、この時代における夫のあるべき振る舞い方も知らない。

 それはそれで問題になりそうだ。

 

 「舟を見て何か分かるのですか?」

 「それはもう! 毎日違いますので、そこから読み取れる事はいくらでもありますよ!」

 「例えば、どのような?」

 「それはですね!」


 お市の質問は自分の得意分野に関する事柄であり、こういう時には俄然張り切ってしまう。

 女性の前で張り切り過ぎて何度も失敗してきた事を忘れ、勝二はここから眺める景色から読み取れる事を話していった。

 

 二人の前には、手足がかじかむ寒さにも関わらず、小舟が多数行き交う淀川の豊かな流れが見える。

 新居は川を見下ろす高台の中ほどに、大坂城を見上げる位置にあった。

 本願寺の根城であった石山城は大坂城とその名前を変え、信長の居城となっている。

 大坂城は、舟のまま京都まで上れる淀川沿いの交通の要衝であり、蝦夷地と各地とを結ぶ交易路の、中心地となるべき重要な拠点だ。

 無傷で手に入った城であるが、天下統一を目前とし、スペインとの同盟、交易も睨み、規模を大幅に拡充する計画である。

 

 商社に勤めていた勝二にとり、荷を運ぶ舟が行き交う淀川の眺めは、京都で何がどのくらい必要とされているのかを推し量る重要な情報であった。

 今はそこまで京都は重要ではないが、そういった勘を鈍らせない為にも、毎朝の観察を日課としていた。


 「という事で、京では何をどのくらい消費しているのか、おおよその予想を立てられます。また、何を必要としているのか見る事によって、今後の町の動きもある程度は察する事が可能です」

 「まぁ! そんな事が出来るのですわね!」


 日々の観察で得られた事を、お市に分かり易く説明してあげた。

 市場の動向をいち早く掴む事は、商社マンの生命線とも言えるので、その嗅覚は普通の人よりも鋭いつもりである。

 お市はそんな夫を喜んだ。

 

 「兄様がその才能を見込み、越後まで出迎えに行かれた訳ですわね」

 「ええっ?!」


 妻の言葉に耳を疑った。

 あの信長がそんな事をするのかという驚きである。

 そして、自分の発言にお市は慌てた。

 

 「いえ、違いますわ! わらわが言いたかった事は違うのです!」

 「と申しますと?」


 そう言ってオタオタとしている。

 意味が分からないので、とりあえずどういう事か尋ねた。


 「兄様の掲げていらっしゃる天下布武の実現には、優れた能力を持った方が何人も必要で、貴方もそのお一人であったというだけのお話ですわ!」

 「はぁ……」


 同じ意味ではないかと思った。

 お市もそれに気づいたようで、今度は顔を赤くして必死に否定する。


 「違います! そうではないのです! 貴方様は黙って兄様の為に働けば良いのです!」

 「まあ、言われずともそうする予定ですが……」  

 

 勝二の表情にお市はハッとした。

 違うのですと、独り言のように言う。

 そんなお市に言った。


 「お市様は信長様の事が本当にお好きなのですね」

 「い、いえ、違いますわ!」


 その言葉に今度は狼狽うろたえた。

 前の夫の事もあり、兄と夫を比較せぬよう、兄の為にと言わぬよう心に誓っていたのだが、やはり癖というものは中々思うようにはいかず、つい口を出てしまったのだろう。

 また自分のせいで夫を裏切りへと走らせてしまうと、自分の軽はずみに絶望し、ブルブルと震えるように違う違うと繰り返す。


 「何をお悩みかは分かりませんが、偉大な兄を尊敬するのは自然な事ですよ」

 「え?」


 熱病に罹ったかのような妻の様子にただならぬ気配を感じた勝二は、安心させようと笑顔を向けた。

 流石に抱きしめるなんて事は恥ずかしいから出来ない。

 そんな夫の台詞にお市は思わず顔を上げる。

 血の気を失ったような妻に、心配する事はないと優しく声を掛けた。


 「そんな無理に意地を張らなくても、お市様は信長様がお好きという事で良いではありませんか」

 「そ、そんな風に言われたのは初めてですわ……」


 これまでお市は、事あるごとに兄信長の成してきた事を吹聴してきた。

 相手が男であれ女であれ、夫であろうが構わなかった。

 度が過ぎて陰口を叩かれ、頭がおかしいとわらわれた事もある。

 長政の裏切り後は出来るだけ自重していたが、このように肯定された事はない。


 「乱世を終結に導きつつあるのが信長様です。肉親なのですから、お市様が誇らしい気持ちになるのは当然ですよ」

 「そ、そうですわよね!」


 お市は初めて自分の味方を得られた気がした。

 ホッと安堵の息が漏れる。

 そんな自分を優しく見つめる夫の視線に気づき、何故か頬が赤くなった。

 誤魔化すように早口でまくし立てる。 


 「それはそうと夫婦めおとになったのですからお市様は止めて下さいまし!」


 無理してキッとした目で睨む。

 勝二は途端にアタフタした。


 「あ、いや、その、く、癖になってまして……」


 丁寧な物言いは長年に渡って染みついている。

 同僚から紹介された女性とデートした際も、最初から最後まで尊敬語で接して呆れられたくらいだ。


 「癖は直せば宜しいのではありませんか?」

 「お、仰る通り……」


 ぐうの音も出ない。 

 しかしここで思い出す。 


 「ですが、そういうお市様も様付けなのでは?」

 「妻たるもの、夫を立てるのは当たり前ですわ!」

 「そ、そういう事を言われると……」

 

 勝ち誇った顔のお市に、それ以上の事は言えなかった。


 「市、で結構ですわ!」

 「いや、しかし、たとえ妻であろうが呼び捨てにするのは私の信念に係わると言いますか……」

 「信念、でございますか?」


 言い切る勝二の言葉に、これは面倒な人かもしれないとお市は思った。


 「では、お前、で宜しいのでは?」

 「お前だなんてとんでもない!」


 きっぱりと拒否する夫に、やっぱりかと。

 お市は面倒臭くなった。


 「もう、好きに呼んで下さいまし!」

 「えぇぇぇ?!」

 

 勝手にしろと任せる事にした。

 

 「えーと、では……お市さん? 何か違和感が……。いっそ英語にしてスイートとかハニーとか? いやいや、恥ずかし過ぎる!」


 自分で言って自分で否定している夫に、妻は怪訝な顔を送る。

 しかし少しも気づかない様子で、妻の呼称を考え続けた。 

 ようやく答えを出したようで、改まって妻に向かう。

 

 「決まりました」

 「はい」


 お市は固唾を飲んでそれを待つ。

 自信に満ちた顔で勝二は言った。


 「いっちゃん、です!」

 「え?」


 お市は自分の耳を疑った。

 呆然とする彼女に勝二は続ける。 


 「私の事は、しょーちゃんとお呼び下さい」

 「しょーちゃん?!」


 余りの事に返す言葉を失った。

  

 「市ちゃん」


 自分で考えた妻の呼び方なのに、頬を赤くしてオズオズとした様子で言う夫。


 「市ちゃん」


 期待しつつ、もう一度呼んだ。

 お市は盛大に溜息を漏らし、仕方がないと応じた。


 「しょーちゃん」

 「はい!」


 妻からそう呼ばれて嬉しそうに喜ぶ夫。

 先ほどの事もあり、邪険には扱えなかった。

 しかしケジメは必要である。

 市ちゃん市ちゃんと笑顔で呼び続ける夫に、妻はピシャリと言い放つ。


 「勘違いしては困りますわ! 子供の戯れではないのですから、人前でそのような呼び方をされるのも、する訳にも参りません! 妾は武家の出なのですから!」

 「や、やはり、そう、ですよね……」


 妻の言葉にシュンとする。

 体面を重んじる武士の、行儀の問題ではあろう。

 落ち込む夫を見かね、妻は居心地が悪いのか、ボソッと言った。


 「二人きりの時にはそうお呼び致します!」

 「はい!」


 これにて一件落着である。




 「この大坂や京を押さえ、尾張や美濃までも……。織田の力、恐るべし……」


 尾張や京都を視察してからやって来た、兼続が呆然として言った。

 目の前には城の周りに広がる大坂の街並みがある。

 越後など比較にならない大きさであった。 

 

 「百聞は一見に如かずとは、良く言ったものだ……」


 このような勢力と戦をしようとしていたとは、今となっては考えられない浅慮である。

 両者が持つ力の差は、支配地域を見れば一目瞭然であった。 


 「戦をするにも金が要る。越後では民百姓から搾り取らねば十分には集まらないが、織田ならば労せずに莫大な量が集まるだろう……」


 そう確信する程に、人々の生活に余裕を見た。

  

 「民の暮らしが豊かになれば、自ずと国の力は上がる、か……」


 兼続は勝二の言った事を思い出した。

 正直実感が湧かない言葉であったが、大坂に来てそれが理解出来た。

 豊かな生活を送っている大坂の民の表情は、皆晴れやである。

 活気に包まれた市場は、多種多様な産物に溢れていた。

 そこで取引されている金銭が、一体どれ程になるのかを考えれば、借金をしても取引を増やした方が良いとの説明が、痛い程身に染み入った。


 「この大坂と馬関(下関)、博多、越後、蝦夷を結び、更には南蛮諸国とも交易をするというのか……」


 その気宇壮大な計画に頭がクラクラする。

 日本の外の世界に想像が膨らんだ。


 「信長公には、私を招いて下さった事を感謝せねばな……」


 そうでなければ知りようがなかったかもしれない。

 話に聞くだけでは想像にも限界がある。


 「他の者にもこの光景を見せねば!」


 出来るだけ多くを連れてこようと決意した。




 「叔父上、どうして織田と和睦したのですか?」


 毛利の頭領、輝元(26)が叔父である隆景に尋ねた。

 父隆元が早くに亡くなり、隆景と元春が輝元の教育係となっている。

 元就の頃、織田との関係は悪くなかったが、元就が死去し、本願寺が信長に敵対してからは状況が一変、毛利家も信長包囲網に加わるに至った。

 緒戦は織田に対して優位に立っていたが、九鬼水軍の鉄甲船に敗れてからは劣勢が続いている。

 しかし、本格的な反攻までには至っておらず、戦力を温存したままの和睦という形に見える。


 「問題は大友よ」

 「確かに大友は毛利の宿敵ですが……」


 本格的に織田を攻めるにしても、背後の大友家が厄介だった。

 大友と毛利の確執は長く、交えた戦の数は多い。

 なので隆景が大友を問題視するのは理解出来るが、それを以て織田と和睦するのかと不思議に思った。 


 「大友が島津を攻めたのは知っておろう」

 「はい」


 耳川で島津に敗れた大友は、挽回を固く誓っていたと聞く。

 昨年、ついにそれを実行し、瞬く間に失地を回復したそうだ。

 その隙を突き、博多への侵攻をという意見も家臣からはあったが、大陸を失った博多に旨味はないと隆景に却下されている。


 「問題は、それに南蛮の大筒が使われたという事だ。それどころか南蛮の船が海上を封鎖したとも聞く」

 「確かに」


 一時期、城下はその噂で持ち切りとなった。

 輝元は直接知らないが、門司城の戦で南蛮船の威力は凄かったらしい。


 「大友が織田と手を組み、南蛮の力を使って我が毛利を挟撃したら何とする!」

 「それは?!」


 輝元も信長が乗って来た南蛮船を見ている。

 その大きさも大砲も桁違いで、瀬戸内を暴れられたら厄介だと思った。

 九鬼水軍の鉄甲船にも歯が立たなかったのに、物流を担う海の道が閉ざされてしまうだろう。

 

 「大友はポルトガル、織田が同盟を組むのはスペインだそうだ。同じ南蛮同士、何を企んでいるのか知れぬ」

 「ムム……」


 その辺りは良く分からない。


 「兎も角、信長めが直々に乗り込んできてくれたお陰で、秀吉だけには下らぬと言っておった元春兄の面目も立った」

 「それは確かに……」


 秀吉には徹底抗戦を唱えていた伯父も、信長の所業には毒気を抜かれたらしい。

 寧ろその度胸に感心していたくらいであった。


 「流下式製塩法を教えてもらった恩もある。それに蝦夷との交易は、塩を売りたい毛利に多大な利益をもたらすだろう。それに、石見の銀をさばくには人の多い大坂を頼るしかない。我らに織田と敵対する理由はなくなったという訳だ」

 「成る程……」


 納得のいく説明だった。


 「我らは織田と手を結び、大友に備えねばならぬ!」

 「分かりました」


 輝元は頷いた。




 「約束と違いますよね?」

 「仕方なかろう」


 信長は大坂城で元の持ち主と対峙していた。

 その主の澄ました顔には、悪戯めいた笑顔が見える。

 今の持ち主は不機嫌そうだった。


 「勝二は南蛮との交渉に必要だ」

 「それは理解しますが……」


 来客に対して吐き捨てるように言う。


 「では条件を変更し、私も大坂の寺に戻らせて頂きますが、構いませんか?」

 「……構わぬ」


 加賀の統治に勝二を充てるという約束を破った手前、拒否する事も出来ない。

 こうして顕如は大坂に舞い戻った。

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