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第35話 お市の事情

 「毛利がですか?!」


 お市は素っ頓狂な声を上げた。

 たった今、毛利と和睦したとの報を安土城から伝えられたのだ。

 兄である信長が南蛮船に乗り込み、越後に向けて出発した事は聞いている。

 その途上で毛利領に乗りつけ、船の威容を見せ付けたそうだ。

 大砲の威力に驚き、慌てて頭を下げてきたという。


 「不味いですわね……」


 お市は焦りを感じた。

 中国地方を支配する毛利家は強大で、かつ莫大な富を生み出す石見銀山も押さえている。

 兄が京より追い出した将軍義昭を匿い、織田包囲網を構成していた一大勢力であった。

 和睦したからとて油断は出来ない。


 「北条とも同盟関係を結びそうな勢いですし、毛利と和睦したのでしたら残る上杉も……」


 本願寺は既に下り、毛利と手を結んだ今、上杉単体での反攻はないだろう。

 丹波周辺の平定も間近と聞いているし、兄の目指す天下布武に近づく事自体は喜ばしいのだが、お市の懸念はその後の事だ。


 「越後の上杉はないにしましても、関東を押さえる北条、中国の毛利の可能性はありますわね……」


 お市が深刻そうな顔で心配しているのは自身の再婚の事だ。

 最早織田家の勢いを止められる者はいない筈だが、北条、毛利の裏切りは尚も危険である。

 それを防ぐのに一番手っ取り早いのは、やはり政略結婚であろう。

 姻戚関係となって付き合いを深くし、離反を予め食い止めるのだ。


 「妾を見つめる兄様の目が険しくなってきておりますし、危ないですわね……」


 政略結婚の第一候補は自分である。

 近頃、何かにつけ兄より手紙が届き、今後の事を問うてきている。

 再婚を促す空気をヒシヒシと感じていた。


 「冗談ではありませんわ!」


 お市は一人吐き捨てた。

 政略結婚は、武家の娘として果たすべき役割の一つだと十分理解していたが、個人的な理由で二度と御免である。

 敬愛する兄の近くで、子供達と気ままに遊んでいたいというのもその一つであったが、それよりも寧ろ裏切りを恐れていた。

 自分の夫が兄を裏切る事を、である。 

 そうされたら困る相手、だからこそ浅井長政の下に嫁いでいったのに、大事な所で兄を裏切り、窮地に陥れたのが夫長政であった。


 「もしもまた裏切ったら……」


 お市はそれを心配していた。

 それくらい長政の行為に懲りていた。


 「今度は兄様のお命に……」


 あの時は辛くも逃れる事が出来たが、次も大丈夫とは限らない。

 夫となる者の選択によって兄が命を失う、それを極度に恐れていた。

 

 「妾のせいで兄様に何かあったら……」


 もしもそんな事になったら、悔やんでも悔やみきれない。

 

 「兄様の同盟者として自覚を持たせようとしただけですのに、まさか裏切りなんて……」


 お市はあの時の事を思い出して背筋が冷えた。

 兄への協力を強く進言したのに、何を思ったのか攻撃の矛先を、あろう事か兄信長の軍勢に向けた夫。

 自分が招いた裏切りなのかもしれないと、誰にも言えない苦悶を抱えてこれまで過ごしてきた。

 その夫の自害から6年、新しい嫁ぎ先を何度か打診されたが、その度に断り続けてきた。

 兄も自分の心情を察してくれたのか、嫌だと口にすればそれ以上は求められなかったが、それも最早限界そうである。


 「兄様も力で押し切れば宜しかったのに!」


 お市は憤りを込めて口にした。

 毛利と和睦などせず、攻め滅ぼしてしまえば良かったのだ。

 そうすれば自分が嫁に行く可能性も生じなかっただろう。

 

 「そう進んでいた筈ですのに!」


 中国方面軍である秀吉は、着々と毛利家の切り崩しを行っていた。

 備前を治める宇喜多直家が毛利から離反し、備中へ侵攻する計画も練られていたと聞いている。

 そのまま物事が進展していれば、自分がこうやって悩む事もなかった筈だ。


 「どうして?」


 お市は自問した。

 何が原因なのだろうかと。

 どこで流れが変わったのだろうと。

 そして思い至る。


 「あの男が現れたせい?」


 石山城の本願寺顕如が下ったと聞き、お祝いを言おうと訪れた安土城で出会った、随分と抜けているように見えた五代勝二を思い出す。

 ボーっとして自分を見つめる反応はありふれたものだったが、口を挟むなと叱りつけた後は間抜けその物だった。

 明智光秀や羽柴秀吉、柴田勝家といった、有能で野心溢れる者にはおよそあり得ない、そこらの下男と同じに見えた。

 しかし、その間抜けの成した功績が恐ろしい。

 お市は勝二が現れてからの事を思った。


 その男の噂は、尾張で悠々自適な毎日を送っていたお市の耳にも届いていた。

 伴天連の宣教師と共に現れ、天変地異の理由を兄信長に説明し、いたく気に入られたという。

 その後、兄に重用されて北条家へ向かい、休む間もなく本願寺顕如との交渉を担当、見事石山城からの退去を実現させたそうだ。

 次には加賀の統治を命じられ、硝石の大量生産への道を切り拓いたと聞く。

 その報告に兄は小躍りして喜んだそうで、自分も随分と嫉妬したモノだ。 

 その後、毛利家に赴いており、今は上杉に派遣されている。

 お市はある事に気づいた。


 「あの者の行く先全てが味方になっているのですか?!」


 偶然であろうか、北条、本願寺、毛利と、あの男が向かった先の相手と手を組む事になっている。

 そしてそれはお市も耳にしていた、その男の提言通りであった。 


 「あの者が日頃から口にしておりました、平和裏に日ノ本が一つになるべきというのを、言葉通りに実現させていっているのですか?!」


 自分で言ってまさかと思った。

 兄の掲げた天下布武は、その兄が圧倒的な軍事力で実現するモノと思っていたからだ。

 交渉の末に和睦する事もあるが、それは軍事力で敵わない状況が判明したからこそであり、戦いもしないうちに降参する勢力はいない。

 地の利があれば少数でも多数を破れるのであるし、戦うからこそ交渉において譲歩を引き出す事も出来る。

 これ以上戦いを続けるよりも、ここで手を打った方が損害が少ないと思わせる事が出来れば良いのだから。


 「しかし、毛利は和睦してしまいましたわね……」


 中国地方を治める大大名が、本格的な戦一つせずに織田家に従う事を決意した。

 自分の知らない世界があるのかもしれないと、お市は少しだけ思った。


 「これで上杉が和睦を選ぶのでしたら、あの者の実力を認めなければなりませんわね……」


 自分の方こそ見る目がなかったという事だ。

 

 「頭は切れるにしても、あんなお人好しが有能だなんて……」


 光秀や秀吉など、兄の配下で有能な者は大抵油断ならない雰囲気を持っていた。

 おどけて見えても、どこか醒めた目をしているのだ。

 宴会や祝いの場において、一見すれば明るく振舞ってはいても、用心深く周りを伺う空気があった。

 それは気性の激しい兄信長に仕えているから、かもしれない。

 機嫌を損ねてどんな不利益を被るのか分からないので、どんな場でも細心の注意を払っているのだろう。

 逆に、そうでなければ織田家の中で出世出来なかったのだ。

 お市にとって有能な者とは、そういう者の事であった。

 しかし、である。

 

 「あの方は全く違いましたわね」

 

 弥助という黒い肌をした者を見物している時だった。

 質問すれば丁寧に回答してくれるし、言葉のやり取りにも裏を感じない。

 近く接していれば、その性根の真面目さ、誠実さが見て取れた。 

 

 「ああいう方であれば裏切りなどはしないのでしょうが……」


 夫となる者が兄を裏切る事を恐れていたお市であるが、心配なのはそれだけではない。

 

 「妾の今の生活は維持して下さらないと、とてもとても」


 兄信長の経済力あってこその今の気ままな暮らしであるので、次の夫にも当然それは求めたい。

 そういう意味で石見銀山を持つ毛利は及第点だが、それだけではない。


 「人より獣の方が多いような田舎は嫌ですわ」


 遠く離れた西国など、京見物にも気軽に行けないではないか。

 だからお市は悩ましい。


 「兄様を裏切る心配がなく、妾を遊ばせて下さる懐の余裕を持ち、かつ京に近い領地を持つお方であれば喜んで嫁ぐのですが……」


 今の所は全く叶いそうにない。

 だから今のままで具合が良いのだが、残念ながら残された時間は多くなさそうである。 


 「モタモタしている間に、兄様が嫁ぎ先を決めてしまいかねませんわね」


 それを恐れた。

 いくら自分の我儘を許してくれている兄であっても、物事には限度がある。

 織田家の頭領として決定されてしまったら、最早逆らう事は出来ない。


 「どうすれば宜しいのでしょう?」


 それを考えた。




 「上杉が?!」


 上杉とも和睦との報が飛び込んで来た。

 そして甥信忠の軍勢が武田勝頼を討ち取ったとも。

 あれよあれよという間に世の中が動くのを感じた。

 兄信長の追い求める世界に近づいていると。


 「兄様があの方を重用した理由が分かりますわ」


 お市は自分の負けだと思った。

 自分の知らない方法論で、世の中を動かす事も出来るのだと。

 だからこそ兄も、危険を冒して自ら越後まで出向いたのだろう。 


 「もしや……」


 お市は、ある考えを思いついた。 


 「もしもそれが実現すれば妾は兄様のお近くに住む事が出来ますし、大坂であれば京に一番近いですわね」


 妙案に思える。


 「あの方は堺の商人とも親しいと聞きますし、そうであればお金の工面に困らないのでは?」


 気ままに暮らす計画が立った気がした。

 

 「妾に見惚れていたあの方であれば問題なく言い含められますでしょうし、後は兄様を説得するだけですわね」


 幸い、織田家を取り巻く状況はすこぶる良い。

 兄の機嫌を損ねず、同意を得られそうな予感がした。


 「勝負は新年でございますわね」


 お市の顔には、自身の将来への決意が漲っていた。

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