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第173話 戦の足音

 ところは長州の赤間(現在の下関)。

 海の向こうに九州が見える地にて、水田のあぜに女が一人、立っていた。

 年の頃は10代半ば過ぎ、菅笠すげがさから覗く目には意志の強さが見て取れる。

 その衣装が一風変わっていた。

 上衣じょうい襦袢じゅばんのようだがそでが細く長く、手首までスッポリと覆っている。

 下衣したごろもはかまに似ているが全体的に細め、足首でひもを結び、すそが広がらないように工夫されている。

 “もんぺ”と呼ばれる女性用の作業着だった。


 武田信玄の娘で織田信忠の正室松姫と、織田信長の妹お市が考案したそれは、袖や裾が作業の邪魔にならない点や、大きさが規格化され、同じ物を大量に作る事で価格を抑える事が可能となり、全国的に人気を集めている。

 結果、全国各地でそれぞれの地域に合ったもんぺ作りが始まっていた。

 毛利領はもんぺの広がりが最も早かった地であるが、それは熱心な旗振り役の存在抜きには語れない。

 自らがもんぺを着用し、武家に嫁いできた身でありながらも田畑に入ってその作業性の高さを実証し、型紙の作り方と共に製法を農村に広めて普及を図ったのである。

 そんな広告塔がお付の娘に声を掛けた。


 「それでは始めましょう」

 「はい、茶々様」 


 茶々の前には実りを待つ稲穂が風に揺れている。

 彼女は真剣な面持ちで稲を一株、根本から刈り取った。

 そして後ろの娘に手渡す。

 娘は刈り取られた稲を素早く紐で縛り、丁寧な手つきでそっと箱の中にしまい込んだ。

 二人を見守る村人達の顔も真剣そのものだ。

 彼らの生活が懸かっているとも言えるその箱には、大きく数字が記されている。

 茶々らは場所を変え、次々と稲を収穫して箱に入れていった。

 十回繰り返したところで別の水田へと移り、箱も変えて同じ作業を繰り返す。

 

 「終わりましたね」

 「はい」

  

 ようやくその作業を終えたのはお昼前だった。


 「早速持ち帰って調べましょう」

 「分かりました」


 茶々は不安げな村人に声を掛ける。


 「急ぐのでこれで帰りますが、結果が出たら直ちにお報せします」

 「なにとぞ、おねげぇします」


 天変地異に動揺し、右往左往するしかなかった武家や民衆を鎮め、戦国の日本を平定した尾張のうつけもの、織田信長。

 その姪で、遠路はるばる毛利家に嫁いできた娘、茶々。

 彼女が来てからというもの、毛利領内はみるみる変わっていった。

 山間部にある吉田郡山から交通の便に優れた広島に拠点が移り、伯耆ほうき、赤間、広島、福山が船で結ばれ領内の物流が促進し、貧しい山あいの村にも嗜好品や娯楽の品が出回るようになった。

 ついには大坂との間にも定期船が運行するようになり、華やいだ都の物品に女達が目を輝かせる光景も普通である。


 また、夫に従い赤間に居を構えた茶々は、甘味処と呼ばれる茶屋を街道沿いに作らせた。

 スペインとの交易で砂糖が比較的安く手に入るようになり、甘い煎餅やみたらし団子を庶民も気軽に楽しめるようになっている。

 百姓にとってはトマトやジャガイモ、サツマイモ、トウガラシやトウモロコシといった新しい作物を毛利にもたらしたさきがけであり、窒素・燐・加里・苦土くど・石灰の五大肥料論という経典を伝え広めた人でもある。

 五大肥料論は肥料成分が不足しても過分でも、作物の成長を阻害するという理論で、各要素が欠乏・過分した時の特徴と、それを補う資材をまとめた実践の書だ。

 窒素は尿、燐は骨、加里は草木灰、苦土は海藻、石灰は貝殻に多く含まれているが、過分の場合は消し去る事が難しい。

 資材と労力の無駄を省く為にも与え過ぎない事が肝要で、それには観察眼を養うべしと説いている。

 その茶々が血相を変えた。


 「早馬を!」


 村から持ち帰った稲穂を調べ始めて直ぐの事だった。




 「一大事ですぞ、殿!」

 「何事だ?」

 

 毛利の頭領、輝元が問うた。


 「これを!」


 差し出された手紙に素早く目を通す。


 「米の不作だと?!」


 赤間から届いた報せは広島城を揺らす。


 「信忠殿に早馬を出せ!」


 輝元は即座に命令した。




 『大変だよ!』

 『どうしました?』


 顔色を変えて駆け込んできたイーファ。

 嫌な予感を覚えつつも勝二が尋ねる。 


 『イングランドの女王がメアリーを処刑しちまったのさ!』

 『何ですって?!』

  

 予感の的中に冷や汗が流れる。

 史実と同じ歴史が起きてしまった今、近いうちにアルマダの海戦も起きる可能性が高い。

 覇権国家スペインが、新興国イングランドに手痛い敗北を喫するこの海戦は、史実通りならこのアイルランド沖で繰り広げられる。

 アイルランドの独立を強固なものにしたいなら、スペインに呼応してイングランドを攻めるのが筋だろう。

 少なくとも攻める気配を漂わせてイングランドを守りに入らせ、スペイン海軍の負担を減らすよう動くべきだ。

 そう考えた勝二は早速行動を開始する。


 『ダブリンに行ってきます!』


 ベルファストの復興に尽力していた勝二は、アイルランドの指導者となったネイルのいる首都に向けて馬に飛び乗った。

 



 一方、マドリードからリスボンへと宮殿を移したフェリペ2世は、歓喜に満ちた毎日を送っていた。


 『この光景こそ、太陽の沈まぬ国という称号に相応しい……』


 今日もまた、恍惚とした表情を浮かべて呟く。

 目の前にはおびただしい数の金細工と、技巧を凝らした工芸品が山となっている。

 全て新大陸と日本から運ばれてきた品々だった。

 財政上の危機は変わらず続いているが、そんな頭の痛い問題も、宮殿の宝物庫を見ればたちまち消え失せてしまう。

 それくらいにその光景は圧倒的で、スペインの繁栄は永遠であると確信させた。


 『陛下!』


 妄想を打ち破るような声にフェリペは苛つく。


 『どうした?』

 『メアリー様がイングランド王に処刑されてしまいました!』

 『何ぃ!?』


 先ほどまでの夢心地はどこへやら、感情のままに吐き捨てる。


 『忌々しい新教徒共め!』


 スコットランドの元女王は、息子のジェームズがカトリックに復帰しない場合、イングランドの王位継承権をフェリペに譲ると伝えている。

 そのメアリーがよりによってイングランド王位の簒奪者、エリザベスに殺されたのであるから、フェリペの怒りは相当なものだった。

  

 『イングランドの新教徒共に罰を与えよ!』


 スペインの力を疑う事のない、無邪気ささえ感じる宣言だった。

 ここで王は思いつく。

 ネーデルラントで活躍した勢力の利用を。


 『日本に使者を出せ』




 「信忠様、スペイン王の使者が参っております」

 「それどころではないというのに……」


 安土城内は今、てんてこ舞いだった。

 毛利や上杉、越前などで米の不作が発生し、その対応に忙殺されていたのである。

 夏の開花期、それぞれで低温と少雨が続いた事は報告で聞いていた。

 畿内でも降雨の減少を実感していた信忠だったが、冷夏までも起こるとは思わなかった。

 もしもこれが普通になるとしたら恐ろしい。

 幸い、少雨に備えて麦や芋の作付けをどこの領地でも奨励していた為、飢饉とまではいかない程度で事態を抑えられそうだ。

 それとて織田家の兵糧を融通し、余裕のあるところからは買い付け、足りないところに配る事が前提で、どこにどれだけ米を送るか、どれだけ買えそうか、領内の調整や他国との交渉に当たっていた。

 そんな折、使者の来訪に信忠は顔をしかめる。

 とはいえ会わない訳にもいかない。

 信忠はその場を離れた。




 「イングランドを攻めるので兵を出して欲しいそうです」


 通訳の言葉に内心、唖然とする。

 カトリックの元女王がプロテスタントの女王に処刑された為、その制裁で攻めるそうだ。

 理由もそうだが海を越えて戦を仕掛けに行く、その発想に驚いてしまう。

 城を攻めるには、守る側の何倍もの兵が必要だと理解している。

 当然、彼らに食わせる兵糧も送らねばならない。

 戦の規模にもよるがその量は膨大になりがちで、滞りなく物資を届けるだけでも大変な作業だ。

 陸続きですらそうであるし、大坂から九州の距離を船で運んだ大友征伐でさえ、二度とやりたくないと口にする者は多い。

 それなのに、遥か遠く海を越えて他国に攻め込む場合、どれだけの人員と物資が必要になり、目的地までどうやって無事に送り届けるのか見当もつかない。

 それになにより、今は緊急事態のさなかである。


 「どうなさるのですか?」


 伝える事を伝え、使者と通訳のイエズス会士は既に帰った。

 家臣に問われた信忠は考える。

 それどころではないと一蹴する内容であるが、はたと思い出す。

 危機に陥った時こそ冷静になり、あり得ないと思った選択をこそ、採用が可能かどうかを考えてみよとの、父の言葉だ。

 その助言に従い考える。

 スペイン王の求めに応じて兵を出したらどうなるかと。


 「これは案外吉報やもしれぬ」


 そこまで悪くない話かもしれない。

 信忠は家臣に命じる。


 「使者にはこう返事をせよ。海を渡る船と、道中及び現地での兵糧をそちらで用意するなら兵を出す、とな」

 

 予想もしなかったのか、目を白黒させている家臣に言葉を重ねる。


 「これで兵に食わせる分だけでも米を節約出来よう」


 それで納得がいったらしい。

 

 「織田家から兵を出すのですか?」

 「面目を保つ程度にはな」


 和議が成立したとはいえ、織田家の周りは敵だらけだ。

 潜在的な敵勢力は、あらゆる機会を使って弱体化させる事こそ正義であろう。

 

 「毛利や上杉には大いに参加してもらいたいところだ」


 信忠はニヤリと笑った。

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