第171話 老将の死
アイルランド解放軍と英国軍は、なだらかな起伏が続く丘陵地帯で相対した。
背の高い山はどこにも見当たらず、見渡す限りに緑の大地が広がっている。
隣との境であろうか、直線に並んだ木立が土地を区切り、人の営みが作り上げた光景である事を示す。
その持ち主は戦争の匂いを敏感に感じ取ったのか、遠く離れた場所に家族や村人達と避難していた。
彼らが固唾を呑んで見守る先には、雌雄を決すべく集まった両軍がそれぞれ丘の上に整列し、その時が来るのをじっと待っているようだった。
馬のいななき以外には音がしないような、奇妙な静寂が兵士達の立つ丘を包んでいた。
不退転の決意を固めた表情の者がいれば、己の死を意識でもしたのか、顔から血の気の失せた者もいる。
高まる緊張感の中、不意に英国軍から一人の騎兵が進み出た。
白く輝く毛並みの美しい馬に跨り、白銀の鎧を身に纏った騎士だった。
動揺を誘う意味もあり、戦いの前には降伏を呼び掛けるのが常である。
しかし、近づく騎士のその姿にアイルランド側は混乱した。
胸あてを覆う陣羽織の紋章が、王家に縁する者である事を示していたからだ。
どのような男か確かめようにも兜は深く、その顔までは分からない。
『まさか貴族が自ら?!』
解放軍の統率者であるネイルは我が目を疑った。
こちらから手の届く距離ではないとはいえ、彼の味方からも離れた場所である事は間違いないだろう。
捕らえれば高い身代金となる当の貴族が、わざわざその危険を冒してまでこちらに近づく理由もない。
中身が別人という可能性もあるが、その目的に思いあぐねた。
それは他の者も同じようで、皆一様に戸惑った顔をしている。
捕縛の兵を出すべきかネイルが迷っているうちに、白馬の騎士が解放軍に向かって呼び掛けた。
『勇敢なるアイルランドの戦士達よ!』
訛の強い英語であるが、良く響く声だった。
『汝らは立派に戦った! 聞き及ぶここまでの戦い、実に見事である!』
自軍よりも数が多い解放軍を前にし、まずは褒めた。
憎き敵から褒められ、愛の戦士は満更でもない顔をする。
けれどもそれは一瞬だった。
『しかしそれも終わりだ! ここらでその矛を収めよ! さもなくば避けられぬ滅びが汝らに待っていよう!』
滅ぶと言われて誰もが怒りを露わにする。
発言者はそれを知ってか知らずか、変わらぬ調子で続けた。
『これは、情け深い我らが女王陛下による最後の温情である! 今すぐ武器を捨て、大人しく己の村へと帰るが良い! そうすれば命だけは助けてやろう!』
最後通牒であった。
とはいえ、それで手の中の武器を捨ててしまう者は一人もいない。
それどころか思いを新たに迫りくる戦いへの決意を固めた。
『その言葉、そっくりそのままお返ししよう! 今すぐ退却し、船でブリテン島へと逃げ帰れば追ってまでは殺さない!』
皆の思いを代弁してネイルが叫ぶ。
それに続く形で一斉に帰れコールが起きた。
地鳴りのように罵声が響く。
しかし馬上の騎士はいささかも怯まない。
動揺など微塵も感じさせない声で告げる。
『ならば戦場にて決着を付けるのみ!』
そう言い残し、馬の鼻先を自陣に向けた。
『望むところ!』
去り行く騎士の背中に向かってネイルが言った。
解放軍と英国軍との戦いは正午前に始まった。
兵士、鉄砲の数共に優る解放軍は中央に兵の大部分を集め、正面から英国軍を叩き潰すべく部隊を進める。
軍師役の戸次道雪は中央にあってネイルを補佐し、指示を出す。
周囲の地形を考えれば伏兵を配置する事が出来ない代わり、敵の伏兵にも警戒する必要がない。
島津豊久の率いる部隊は左翼に、高橋宗茂は右翼に陣取った。
いつもはどちらかが奇襲を仕掛ける段取りだが、今回は両者共に軍の最前線にてそれぞれの部隊を指揮している。
小細工の出来ない総力戦であった。
『撃てぇ!』
鉄砲頭の号令と共に両軍の火縄銃が一斉に火を噴く。
ロンドンを覆う霧の如く、辺り一面が白い靄に包まれた。
ツンとした臭いがオシーンの鼻を突き、煙が目に染みるがグッと耐える。
宗茂の相撲に破れた彼は決心して豊久の部隊に入り、ここまでの死線を潜り抜けてきた。
血気盛んな豊久に同類の匂いを感じ取ったからだが、彼が想像していたよりもその日本人は過激だった。
命を捨てているかのように戦うその姿は、ケルト神話の大英雄クー・フーリンを思わせる。
事実、たった四人の助っ人が現れた事により、あれだけ威張り散らしていたイングランド人は尻尾を巻いて逃げ出し、遂にベルファストを残すのみとなった。
それはまさにクー・フーリンの伝説を彷彿とさせるものであり、自分もその中にいるのだとしてオシーンを感動させるのだった。
『出るぞ!』
『お、おう!』
物思いに耽る間など与えないとでも言うのか、部隊長の豊久が突撃の号令を出し、抜刀しつつ走り出す。
考えるよりも早くオシーンの体が反応し、秘かにゲイ・ボルグと名付けた日本の槍を握りしめて後を追った。
「何だ?」
豊久が違和感を抱いたのは開戦から暫くしての事だった。
戦況はこちらに優勢で、敵をジリジリと押し返している。
しかし流石は王国軍であるのか、戦線を崩しもせずに良く持ちこたえていた。
敵として不足なし。
そう内心で歓喜していると、自軍の中央がやけに前へと出ている事に気づいた。
自身が率いる左翼、宗茂の率いる右翼を取り残し、真ん中だけが敵の中へと突き進んでいるように見える。
先を越されたのか?!
戦功を持っていかれると一瞬焦ったが、どうも様子がおかしい。
敵を蹴散らして進んでいるにしては倒れている兵の数が少なすぎる。
むしろ皆無と言った方が良い。
その違和感は直ぐに確信へと変わる。
幼い頃より父家久から教わった事だった。
『おい!』
オシーンに命じて本陣へと走らせようとしたまさにその時。
『奴ら、逃げていくぞ!』
『追え!』
『皆殺しだ!』
背を向けた敵に興奮し、中央の部隊が我を忘れたかのように突進を始めた。
これまでの勝利にイングランド人を侮り、積もりに積もった恨みを晴らそうとしたのであろう。
しかし豊久は見逃さない。
撤退にしては足並みが揃い過ぎており、武器を放り出して逃げる者もいない。
意図的な退却なのは明らかだった。
「まさか釣り野伏か?!」
島津の得意とした釣り野伏だが、似た戦術としてハンニバルの包囲陣がある。
豊久が驚愕したのと同じ頃、軍師役の道雪は焦っていた。
「止めよ!」
中央部の突出を危惧し、兵を諫めるよう急ぎ通達を出していたのだが、その予感が現実となった。
雪崩れ込むように敵陣へと進んだ中央の部隊が、あれよあれよと言う間に敵に飲まれていく。
憎き仇への復讐に我を忘れていたアイルランド兵が、ハッと気づいた時には遅かった。
『敵だらけだぞ!?』
『囲まれてやがる?!』
濁流の迫った中州に取り残されたかの如く、その顔は恐怖に引き攣っていた。
「糞!」
包囲された味方を助けるべく豊久は自分の部隊に指示を出したが、敵もそれを見越していたのか思うように動けない。
「宗茂は?」
あの男がこの事態に気づいていない筈がないと思ったが、この位置から右翼の様子は分かりかねる。
と、行く手を阻むように英国軍兵士が立ち塞がった。
「邪魔だ!」
豊久は即座に刀を振り上げる。
しかし敵は直ぐに距離を取った。
「時間を稼いでやがるな?」
救援には行かせないという事だろう。
「こいつら手強いじゃねぇか!」
半ば忌々し気に、半ば嬉しそうに豊久が言った。
「中央後続の兵を左右に分け、前線が崩れたと見せかけてこちらを誘い込み、味方と十分に引き離したところで左右の兵を使って挟み討つ」
敵の中に孤立した部隊は浮足立ち、防戦もままならずに次々と斃れていく。
周りの部隊に助けるよう指示を出したが敵の妨害が激しく、辿り着く頃にはどれだけの被害を出すのか知れない。
「敵ながら天晴な用兵術じゃ!」
道雪は英国軍の指揮ぶりを褒めた。
それが開戦前に口上を述べた武者その人による物かは分からないが、してやられたという悔しさよりも素直な驚嘆の方が大きい。
「それはそうと、この混乱を利用して仕掛けるとしたら……」
感心するのも僅かな時間で、直ぐに頭を切り替える。
次に敵がどう動くのか、考えを巡らせていると報告が入る。
『大変です! 敵の騎兵が数騎、こちらに迫っています!』
「やはり本陣を狙いに来たか!」
狙うは大将の首ただ一つという訳だろう。
人質にして後の交渉を有利に進めようなどとは考えてもいない、そんな心意気が好ましい。
『ネイルよ、今は退け!』
『敵は私の顔を知らないのではありませんか?』
道雪の言葉にネイルが問い返す。
貴族のように高価な鎧を身につけている訳ではないので、誰が誰か分からない筈だ。
『戦いの前、敵に姿を見せたではないか!』
『あっ!』
その指摘に息を呑む。
言われてみればその通りである。
『まさか、これを見越してあんな事をやったと?』
『敵の真意は分からぬが、その方の顔を覚えられたのは確かだ』
ネイルは背筋が凍る思いがした。
『さあ、早く行け!』
『わ、分かりました!』
道雪に促されて戦場を後にした。
残った道雪は愛刀雷切を抜いて立つ。
「老いたとはいえこの道雪、むざむざ大将の首は取らせんぞ!」
解放軍はネイルを失っても支障が出ないようになっている。
勝二の訴えでそのような組織となったのだが、道雪にとって大将は大将である。
目の前で討ち取られる事などあってはならない。
「行かせるか!」
本陣に雪崩れ込んで来た騎兵は3騎だった。
中の一人にあの鎧武者がいる。
逃げるネイルに気づき、その後を追おうとするのを道雪が遮る。
「ふんっ!」
馬上から振り下ろされる鎧武者の槍を雷切でいなす。
「うっ?!」
しかし次の攻撃で大きく体勢を崩した。
鎧武者はそれを見逃さず、致命の一撃を繰り出す。
「ぐあっ!」
ドッと地面に倒れた道雪の胸から鮮血が噴いた。
道雪は己の死を悟る。
それにしても実に巧みな馬捌と槍捌きであった。
日頃の研鑽なくしては身につけられない技である。
最期の相手としては真に申し分ない。
伝わらないと思いつつも賞賛が口をつく。
「見事じゃ」
「何!?」
倒した相手からの思わぬ声だった。
内容もさる事ながら、懐かしささえ感じる日本の言葉で呼び掛けられた事こそ驚いた。
景綱は急いで馬から降り、血に染まった武人の傍らに膝をついて顔を覗き込む。
白い顎髭を生やした年老いた男だった。
焦点の定まらない目でこちらを見ている。
「貴殿は日ノ本の出なのか?」
「お主、こそ」
景綱の質問に翁は途切れ途切れ答える。
更に疑問がわいた。
「どうしてこの戦いに?」
「主の、命に、決まっておる」
「某と同じか」
その答えに深く深く頷く。
聞きたい事は尽きないが、景綱の思いを遮るように翁が言った。
「そ、そうじゃ。この儂を、討ち取った、ほ、褒美に、この、ら、雷切を、くれてやろう」
「雷切だと?!」
その名に驚きつつも、震える手で差し出す翁の刀を受け取った。
「貴殿、もしやあの戸次道雪殿なのか?」
問いかけるが返事はない。
絶命したようだ。
『サー』
下馬した景綱を不思議に思った部下が声を掛ける。
『首謀者が逃げて行きますが追いますか?』
『もう遅い。引き上げるぞ』
『イエス、サー!』
聞きたい事は山ほどあったがこれ以上の長居は出来ない。
景綱は再び馬に跨り、自陣に向けて馬を走らせた。
この日、戦神と称えられた戸次道雪が敵の刃に斃れた。
騎馬兵を正面から受け止めた末の、壮絶なる討死である。
そして解放軍は敗北し、アントリムに撤退した。




