第166話 伯爵、囚われる
後世の歴史家をして「神が用意した勝利」と言わしめた、北アイルランドの解放へとつながるダブリン城の戦いは、黒く暗い雲が厚く空を覆う朝に始まった。
攻撃側はいつ雨が降り出すのかと内心では焦りながら、防御側は火計への心配が多少は減る事を期待しながらである。
城に集まってきた民衆によって持ち寄られた、アイルランドの伝統楽器イリアン・パイプやハープが至るところで故郷のメロディーを奏でている。
勇敢な戦士が恋人に別れを告げ、迫りくる敵国に立ち向かう曲が反乱軍の士気を高め、激戦の模様を表現した旋律が戦意を高揚させた。
それぞれの城門を突破しようと、門の前に大きな人だかりが3つ出来ている。
山から切り出した丸太に持ち手をつけて破城槌とし、門にぶつけて壊すようだ。
その人員を弓や鉄砲から守る為、大きな板を持って立っている者がいる。
開門と同時に突入しようというのか、丸太の後ろで控えている男もいた。
また、城の守備隊を攻撃しようというのか、一際大きな弓を手にした男が見える。
そして城から少し離れた場所に、反乱軍の本陣であろうか、銃らしき武器を数多く装備した部隊が控えていた。
『攻撃開始!』
本陣らしきところで大声が上り、すぐさま大きな鐘の音が響く。
『おぉぉぉ!!』
鐘に呼応し、それぞれで城門の破壊が始まった。
『城門を開ければ敵の真っ只中だ! 一瞬たりとも油断するな!』
東の城門を守る兵士達が慌ただしく立ち働いている足元で、武勇を誇る男達が門の前に集結していた。
『俺達を騙しやがって!』
『八つ裂きにしてやる!』
男達はさも憎々し気に吐き捨てた。
その顔付きは獰猛な肉食獣を思わせ、哀れな獲物が目の前にいれば即座に嚙み付きそうである。
それもその筈、反乱軍が鉄砲を持っているとのありもしない噂に翻弄され続け、まともに戦う事が出来ずにイライラが募っていたのだ。
そんな彼らをまとめる男が言う。
『敵の本陣はこの門を出て、そのまま真っ直ぐ突き進んだ場所だ! 途中に敵はいない! 速度が肝心なので門の前の奴らには構うな! 盾で攻撃を防ぎながら駆け抜けろ!』
『おぉ!』
そして、そんな彼らを不安そうに見守る伯爵に向き直る。
『我らが城門を出たら即座に閉門して下さい』
『分かっておる!』
伯爵は怒鳴るように応えた。
反攻策に戦力の多くをつぎ込み、城には最低限しか残らない。
これに失敗すれば、後は本国に逃げ帰る事しか出来ないだろう。
主人の苦境を理解している男は踵を返し、待たせていた愛馬に跨った。
敵の猛攻に耐えている門の前まで進んで立ち止まり、静かに十字を切る。
神の栄光を讃えて勝利を祈った。
そしてその時が来た。
『開門!』
男が城門の守備隊に告げ、門は開かれた。
『行くぞ!』
言うなり男は愛馬に鞭を入れ、突然開いた門に呆然としている敵の間を駆け抜ける。
仲間もそれに続く。
盾の鱗に覆われた巨大な生き物の如く、その集団の勢いは止められない。
反乱軍は手をこまねき、黙って見ているしかなかった。
『急いで閉めよ!』
伯爵の慌てた声だけが辺りに響いた。
『銃声!?』
戦果はまだかと心待ちにしていた伯爵を、突如轟いた銃声が跳びあがらせる。
城を守る守備隊から放たれた音ではない。
ある程度の距離を感じた。
戦場に銃声が鳴っても不思議はないのだが、今回は別だ。
『何という数……』
驚いたのはその数である。
『伯爵、十や二十ではありませんぞ!』
ジェームズも顔色を変えている。
おおよそだが数百はしていると思った。
守備隊も銃を持っているが、そこまで銃声が重なる事はない。
数百もの連続した射撃音となると、撃った銃の総数はどれくらいになるのか。
『まさか?!』
伯爵は嫌な予感がし、急いで城壁へと出る階段を駆け昇る。
目に飛び込んできた景色に我が目を疑った。
『霧か?』
辺り一面、まるで霧に包まれたロンドンのように、城を覆いつくすくらいの白煙が立ち込めていたのだ。
『これは硫黄の臭い!?』
鼻を刺激する臭いがする。
伯爵とて全くの素人ではない。
その煙が黒色火薬の燃焼による物だと理解した。
『そんな、まさか……』
大量の火薬が使用された、その意味するところを恐怖する。
嘘であってくれ、そう思いながら煙が晴れるのを待つ。
ややあって一陣の風が吹き、戦場を隠していた闇を払っていった。
『全滅した?!』
現れた光景に衝撃を受けた。
逆転を賭け、城から打って出た部隊はその多くが地に倒れ、残った者は見えない。
『おのれぇぇぇ!』
腰が砕けそうになるのを止めたのは、心の奥から湧き上がる強い怒りだった。
『未開人如きが私を罠に嵌めたなぁぁぁ!』
顔を真っ赤に染めて怒り狂う。
後ろに控えるジェームズは触らぬ神になんとやら、数歩下がって見守っている。
と、階下で大きな音がした。
事態に気づいたジェームズが罵倒を覚悟して報告する。
『伯爵、正門が破られました!』
『何ぃ?』
案の定、その怒りが自分に降りかかりそうだった。
いつもは言われるままにしているが、今はそのような時ではない。
『ここは危険です! おさがり下さい!』
『おのれ蛮族め!』
伯爵も状況を理解しているのか、それ以上は言わずに大人しく階段を下りる。
破られた正門はここから少しだけ距離があるが、城を守る兵は僅かなので敵の接近は直ぐだろう。
『城内が混乱している内に脱出して下さい!』
『やむを得ん……』
伯爵は苦虫を嚙み潰したように呟いた。
このような事もあろうかと、ジェームズの独断で準備はあらかた出来ている。
『さぁ、お乗りください』
『この屈辱、忘れぬぞ!』
伯爵がその重い体を馬に乗せようとした、まさにその時だ。
「大将が逃げるつもりか?」
『何だ?』
聞き覚えのない言葉が後ろからした。
振り向くとそこには鎧らしき防具を身につけた、一人の若い男が立っている。
その手には抜き身の剣が一振り、握られていた。
反った片刃の刀身から赤い滴がポタリポタリと垂れている。
その足元には伯爵の兵士が数名、物も言わずに倒れていた。
『伯爵!』
『敵か?!』
言葉は二人同時であった。
ジェームズが彼の主人を逃がそうと、現れた男との間に立ち塞がる。
けれども男は眉一つ動かさず、目にも止まらぬ早さでその剣を振り下ろす。
断末魔すら発する事なく、ジェームズはその場に崩れ落ちた。
「見上げた忠義者だ」
男が何やら呟くが、伯爵は何を言っているのか分からない。
それよりもと慌てて乗馬しようとするものの、逆に体勢を崩してしまった。
『ヒィ!』
蛙が潰れたような悲鳴を上げ、伯爵は背中から地面へと落下した。
激突のショックで息が出来ずに取り乱し、急いで起き上がろうと顔を上げ瞬間、その動きがピタリと止まる。
「見苦しい男だぜ」
喉元に剣を突き付けられ、冷酷な視線を送る男と目が合った。
『降参する!』
堪らず伯爵は叫んだ。
死んでは元も子もない。
「負け戦のケジメも取らねぇつもりか……」
男の目が、まるで汚物にたかる虫を見るようだった。
伯爵は恐怖し、必死に言い募る。
『私はイングランド王国の伯爵だ! 人質とすれば身代金が得られるぞ!』
戦場で捕らえた貴族はお金に代わるので、そこまで無碍に扱われる事はないだろう。
女王への借りが更に増えるだろうが、命には代えられない。
しかし男の表情は変わらなかった。
『私を殺せば女王陛下が黙っていないぞ!』
それも嘘ではない。
民衆の反乱によって貴族が殺されたにも関わらず、女王が何の報復措置も取らなければ、次からどこの貴族が彼女の命令を聞くだろう。
使う捨てにされる事など誰も望まない。
ようやく通じたのか、男の口元が動いた。
「連れてけ!」
気づけば周りは人垣になっていた。
伯爵が薄汚い蛮族として唾棄する、酷い格好をしたアイルランド人農夫達である。
『やめろ!』
数人から手足を乱暴に捕まれ、強引に地面の上を引きづられた。
背中が擦れ、痛みに顔が歪む。
『やめてくれ!』
苦痛に耐えきれず泣き叫ぶが、全く聞き入れられない。
『助けてくれ!』
伯爵の命乞いが虚しく城内にこだました。




