第153話 大坂へと帰る
『何と大きな町……』
「噂に違わぬ賑わいぶりじゃな……」
大坂に着いた二人は呆然とした顔で、通りを行き交う人々を眺めた。
町を貫くその通りは、まるで流れる川のように人が絶える事はなく、どこまでもどこまでも続いているように思えた。
人の多さもさる事ながら、通りに沿って建つ店にも驚愕である。
『あれは何ですか?』
『煎餅です。蒸した米を潰し、丸めて乾かした物を焼いた菓子ですよ』
『ワッフルのようですね』
『見た目はそうですが、砂糖や卵は使いません』
ネイルは目に映る不思議な物を尋ねた。
その気持ちが痛い程分かる勝二であったが、早く家へと帰りたい一心で足を止めない。
『では、あれは?』
『団子です。粘り気のある米、もち米と言いますが、それを搗いて丸めた物に、色々な味付けを施した食べ物です』
その店の軒先には腰かけられる椅子が置かれ、一人の男が座って団子とやらをムシャムシャと頬張っている。
あっという間に食べ終わると満足気な笑みを浮かべ、微かな湯気を上げているコップの湯を飲んだ。
それを見たネイルは思わず唾を飲み込む。
とても美味しそうである。
『私の家はここから近いです。そこには団子も煎餅もありますから、今暫く我慢して下さい』
珍しい物に好奇心一杯のネイルには悪いと思ったが、兎にも角にも家路を急ぐ勝二だった。
「帰りましたよ!」
店へと入ってきた男の顔に店番をしていた者達は驚き、そして直ぐに歓声へと変わる。
「旦那様が帰られました!」
気の利いた者が家の中へと報せに走った。
間をおかず、トコトコとした足音が近づいてくる。
父親を見つけ、たちまち笑顔となった。
「父上ぇ!」
そう言いながら駆け寄り、膝をついた父の胸へと飛び込んだ。
勝二も息子を抱きかかえる。
その顔は喜びで溶けてしまいそうだ。
「元気にしてたかい?」
「はい!」
親子でそんな会話をしていると、息せき切ってお市が現れた。
夫の姿にホッと息をつく。
「ご無事で何よりでした」
「ただいま帰りました」
夫婦は短く言葉を交わす。
「お父様、お帰りなさいませ」
「お帰りなさい」
「ただいま」
初と江も父親を出迎えた。
幸せそうな家族の様子に道雪が呟く。
「跡取りがおるのは幸せな事じゃな」
婿養子を取った道雪であったが、その顔はどこか寂し気だった。
『通りに並ぶ店を見ただけで、日本の繁栄ぶりが分かりました!』
みたらし団子を食べ、熱いお茶で乾いた喉を潤しながらネイルが語る。
荷を満載した船がそこら中に停泊していた敦賀の港も感嘆したが、大坂の町はそれ以上だった。
これだけ多くの人が集まる町など見た事がないし、軒を連ねる店の数もその種類も桁違いである。
ダブリンでさえ比較にならない。
気づいたのは店だけでなく、訪れていた客もそうだ。
『この町に住む人々の多くが庶民なのですよね?』
『そうなります』
予め聞いてはいたが、やはり凄いと思う。
『庶民にも関わらず、砂糖を使った菓子を普通に買う事が出来るのですね』
故郷でも砂糖を使った菓子は売っていた。
しかしそれは贅沢品で、庶民であったネイルの家では、クリスマスなど特別な日に奮発して買うような品物だった。
しかし大坂の町は違う。
普通の身なりをした老若男女が普通に買っていくのだ。
時に子供だけで店を訪れ、お金を出して買っていく事さえあった。
祭りでもあるのかと尋ねると、そうではなく普段の事だと言う。
それはつまり、庶民でさえ菓子を買う金銭的な余裕があるのだろう。
イングランドに課された重税に苦しむ故郷の事を考えると、ネイルは信じられない思いであった。
そんなネイルの心中を察しつつも、勝二は将来の事について考える方向へ話を持って行く事にした。
地形、気候、植生が違う両国を比較しても大して意味がないからだ。
それよりも、どうやったらアイルランドが豊かで強い国となれるのか、その事について心を砕くべきである。
『アイルランドの国力を増やすのに、まずは人の数を増やす必要があります』
『人の数、ですか?』
『そうです。数こそ力です』
『数こそ力……』
火器の性能で人的不利を覆せるのは、もう暫く先の話だ。
今はまだ、数の差が戦況を大きく左右する。
そしてそれは戦場だけの話ではなく、経済全般にも言えた。
『国の力とは武力だけでなく、食料生産力、輸送力、工業生産力などなど、様々な要因を合わせた総合力です』
『食料生産力?』
聞き慣れない単語にネイルは首を傾げた。
勝二はわかりやすく説明する。
『たとえばアイルランドがイングランドから独立する為、戦争をする事になったとします』
たとえ話にネイルは驚き、勝二の顔をマジマジと見つめた。
故郷を救うにはそれしかないとは思うが、神に仕える修道士としては心苦しい。
失われる命の事を考えるとやりきれない思いであった。
『税が足りないと、冬を越す為の食べ物さえ取り上げられてしまった後で、人々に戦う力は残っているでしょうか?』
『腹が減って満足に動けないでしょうね』
そうなりつつあるのが現実だ。
『食べ物があっても遠い田舎だけで、戦場に運ぶ事が出来ないなら?』
『兵士が飢えてしまいます』
勝二の問いに答えていく。
『集まる兵士の数は多くても、鉄砲を多く備えたイングランド兵に対し、弓矢さえも満足に揃えられなければ?』
『イングランド兵に対抗出来ないでしょう』
事実、各地で反乱が起きても瞬く間に鎮圧されてきた。
悲痛な表情のネイルに勝二が総括する。
『兵士が多くても食べる物が足りなければ満足には戦えず、地方には食べる物があっても戦場の兵士に届かなければやはり戦えず、兵士も兵糧も足りていても、敵より劣った武器しかなければ勝利はおぼつきません』
『だから総合力なのですね』
勝二の説明にネイルは頷いた。
結論を述べる。
『従いましてアイルランドがまずやるべき事とは、ジャガイモを広めつつ牛や羊の飼養数を増やして食料生産量を上げ、庶民のお腹を満たして自然と人口が増えていくようにし、都市に人を集めて産業を興し、様々な品物を製造して工業力を強くしていく事です』
『戦う力を付けるのではないのですか!?』
ネイルは耳を疑った。
戦争の事ばかり言っていたので、武器の扱い方や戦い方など、荒っぽい事しか想像していなかった。
澄ました顔で勝二は言う。
『我が国ではこう申します。腹が減っては戦が出来ぬと』
『腹が減っては戦が出来ぬ……』
つまり内政重視である。
いくら道雪の戦術眼が優れ、卓越した指揮を誇り、日本から送られてくる武器があろうとも、民衆が疲弊しきっていては戦えるものも戦えない。
まずは国民経済を豊かにしていく必要があった。
少なくとも飢えに苦しむ者が出ないようにしたいところだ。
『手始めに』
勝二は脇に置いてある中からそれを取り出す。
畑を任せていた文三に指示し、育ちの良い株や収量の多い株、病気に強い株を選抜してきたのだが、その結晶である種芋だった。
ネイルに手渡す。
『まずはアイルランド中にジャガイモを広める事からです』
『ジャガイモですか……』
手の中の芋は綺麗な楕円形で、土の匂いを感じるような色あいをしている。
これを国中に植えていくのかと思い、知らずに笑みが漏れた。
何とも牧歌的ではないか。
先ほど、屋敷の庭で見た畑を思い浮かべる。
このジャガイモも植えられており、まだ早いがと言われながら一株だけ抜かせてもらった。
ビックリするような数の芋が付いており、小麦よりも収量が多いという勝二の話を裏付けた。
確かにこれを故郷に持ち帰れば、貧しい家が飢えに苦しむ事は少なくなるだろう。
税として取られる小麦とは別に、自給用として畑の片隅にでも植えておけば良いからだ。
痩せた荒れ地に強く、寒冷地に向き、水分が多いので長距離輸送に適さないジャガイモは、イングランド人も奪ってはいかないだろう。
神の御救いの手が差し伸べられたとすら感じる、アイルランドにぴったりな作物だと思った。
一方、敦賀で勝二らと別れた男は毛利へと帰り、交渉の首尾を小早川隆景に伝え、自身の生まれ故郷である博多へと戻った。
明国という最大の交易先を失った博多の商人達は、生き残りを懸けて新たな商売先を探し、中国地方の覇者毛利家は元より、肥前一帯を治める龍造寺家、南九州を我が物とする島津家、豊後の高橋家へと近づいている。
畿内全域を抑え、日本の支配者と目される織田家とも関係を深め、南蛮船の出入りする堺へ人をやり、世の中の動きをいち早く掴んで商機を逃さないよう、必死に努めていた。
そんな中、樺太より戻った一人から交易を許可された事と、博多と縁のある戸次道雪の動向を知る。
「急ぎ高橋の若君に伝えるべきだ!」
道雪の一人娘である誾千代を娶った高橋宗茂は、その若さにも関わらず既に名君との評判が高い。
恩を売るには恰好の機会だった。
「義父殿が異国へ?!」
それを耳にした宗茂は色めき立った。
イングランドとやらに支配されたアイルランドを解放すべく、戦い方を教えに行くという。
アイルランド島は九州を二倍にしたよりも大きいらしい。
山は少なく全体的になだらかで、無数の湖があるそうだ。
宗茂の想像が膨らむ。
「忠義に篤い道雪殿らしい」
父紹運の呟きにハッと我に返った。
それと共に思いつく。
「父上、義父殿が異国へと旅発つ前に、生まれた孫の顔を見せたく思います」
「五つになるまでは知らせぬつもりであったが……」
誾千代との間には嫡男孫次郎が出来ていた。
南蛮へと渡った信長をしきりと羨ましがる宗茂に業を煮やし、跡継ぎもいないのに異国へなぞ行けるものかと紹運に叱りとばされ、ならばと意気込んで励んだ結果である。
それは兎も角、男児に恵まれなかった道雪を喜ばせる事は出来よう。
五つになるまで黙っておく予定だったのは、幼くして亡くなる事が多いので、要らぬ心痛を与えない配慮だった。
しかし今となってはそれも無用だ。
道雪の年齢を考えれば、ここで会わなければ二度とその機会は巡って来ない。
「嫁と共に向かうが良い」
「はい!」
紹運の言葉に宗茂は力強く応じる。
「後の事は宜しく頼みます」
「心配するな」
瞬く間に用意を済ませ、誾千代、孫次郎と共に船に乗り込んだ。
孫次郎は道雪の幼名です。




