第143話 隆景の願い
「ご相談はそのくらいでしょうか?」
勝二が隆景に問うた。
伊達家が近隣諸国に侵攻を開始した今、直ぐ大坂に戻るべきなのではと考えた。
その思考を読んだのか、隆景がにこりともせずに言う。
「いや、もう一つある」
「何でしょう?」
食い気味に尋ねる。
「樺太だ」
「樺太?」
はぐらかすような答えに戸惑った。
隆景が説明する。
「松前から運ばれる産物は値が張ると商人達が申しておる」
「値引きの交渉をして欲しいとお望みでしょうか?」
蝦夷地からもたらされる昆布、塩漬けの鮭、日干しの帆立貝は希少品で、なおかつ人気があるせいで値段が高い。
それは毛利だけでなく、織田でも上杉でも引く手あまたである。
常に需要が供給を大幅に上回っているので、買い付けに行く商人は足元を見られ、法外な値をふっかけられてしまうのだろう。
それをどうにかして欲しいのだろうと考えた。
しかし隆景は否定する。
「そうではなく、樺太からも仕入れを検討する事で、松前と値引き交渉が出来ると申すのだ」
「仕入れ先を複数にし、安い方の値を提示する事で値引きを引き出すのは、交渉手段の一つと言えます」
「商売の理屈は未だに良く分からぬが……」
その辺りは毛利元就の長男隆元が通じていたが、父と比べて己の非力さを嘆き過ぎて心身を損なったのか、若くして亡くなっている。
いなくなって初めて彼の果たしていた、地味に見える役回りの大きさに気付いた毛利家であった。
それからは商人との付き合い方に気を付け、彼らの言い分にも十分に耳を傾けるよう努めている。
この話も商人達が訴えてきた事であった。
しかしそれを任せられるような者がおらず、勝二に白羽の矢が立ったのである。
隆景が苦々し気に声を絞り出す。
「しかし樺太は……」
消えた言葉を勝二が引き継ぐ。
「毛利家と長年争ってきた大友公が支配する地、でございますか?」
「そういう事だ」
博多を支配せんと手を伸ばす毛利家に対し、大友宗麟は戸次道雪を当ててその野望を阻止し続けてきた。
織田信長による九州征伐の後、その二人が揃って流されたのが樺太である。
蝦夷地の産物を安く買う為とはいえ、負け続けた相手に頭を下げに行くのはプライドが許さないのかもしれない。
「その方は雷神と面識があろう?」
「ええ、まあ。樺太への移住に当たり、アイヌに関するおおよその事を戸次様にお伝え致しました」
隆景は勝二の返答にホッとし、願いを口にする。
「その縁を頼りたいのだ。樺太に出向き、その産物を仕入れたいと打診してもらいたい」
しかしと勝二は考える。
「伊達家が侵攻を始めた今、大坂に戻るべきかと思うのですが……」
「織田が軍を出すとは聞いておらぬし、仮に出すとしても、その方が戦に出るのか?」
「それは……」
尤もな意見であった。
仮に行軍に参加するとしても、物資の調達や管理など、裏方の仕事しか出来ない。
「織田は伊達の事をもっと早くに知っておろうが、大坂に戻れと早馬が来てもおらぬ。慌てて戻る必要はあるまい」
「それはそうかもしれませんが……」
何となく気がかりである。
煮え切らない勝二に言う。
「早馬を出し、どうすべきか信忠公に尋ねておくので、ここから山陰へ抜けて伯耆の港に行って欲しい。そこに蝦夷地に向かう商人がおるので、その者の船で海路、敦賀に向かえば良かろう。敦賀で大坂に戻るべきかの返答を受け取れるよう、段取りをつけておく」
「な、成る程」
帰らなくても良いとなれば、そのまま樺太へ向かうという訳だ。
「頼めるか?」
ここまでされれば頷かない訳にもいくまい。
「分かりました」
勝二は隆景の頼みを引き受けた。
そして茶々に別れを告げ、中国山地を縦断して伯耆の国に向かい、現在の境港へと辿り着く。
「新潟に向かった時には意識しませんでしたが、この海の先にアメリカ大陸があるのですね……」
目の前には茫洋とした大海が広がっている。
「そう言えば、この海はもう日本海ではない?」
移転する前であれば日本海だが、大西洋に来てしまった今、そう呼ぶべきではないのかもしれない。
それとも、日本列島が区切っているので同じ日本海なのだろうか。
勝二は、はたと思い悩んだ。
「まあ、名乗った勝ちでしょうか」
何事も先んじた方が優先される。
海図を作っている今、山陰側の海は日本海としてしまえば良いのだろう。
「まあ、海の名称など今はどうでも良い事ですね」
伊達家の軍事行動は勿論気になるが、元商社マンとしては樺太の方にこそ関心がある。
この時代に来る前でも、その森林資源には定評があったし、水産物資源はどうなっているのか好奇心が湧く。
「これからいくつもの大型船を作っていくのならば、森林資源はどれだけあっても困りませんからね」
樺太はその筆頭である。
「将来的には造船所も欲しいところですね」
この時代の船では海を越えて木材を運ぶ事は難しい。
現地で調達、現地で生産とするのが一番効率的であろう。
手をつけるべき事業はいくつもあった。
「尤も、大坂に戻れとなれば従わざるを得ませんが……」
勝二は言葉を飲み込んだ。
勤め人の性か、上司の命令には背いた事がない。
まだ見ぬ樺太の姿を思い描き、勝二は商人の屋敷を訪ねた。
「五代様でございますね、待っておりました」
そしてその日は商人の屋敷で体を休め、次の日には船へと乗り込んだ。
荒波に揺られて敦賀に向かい、戻る必要なしとの連絡を受ける。
けれども織田として兵を向けると聞いた。
「私なんて戦には不要ですしね」
喜んでいいのか分かりかねた。
期待されていないとすれば悲しい。
「いえいえ、私どもは大いに期待しておりますぞ!」
同乗している商人が口にした。
北方の産物は出来るだけ多く手に入れたい。
「期待に応えられるよう善処します」
その思いが痛い程分かる勝二であった。




