第140話 織田家の当主信忠
「元は異動の多い職場でしたが、気心の知れた人が丸ごといなくなるというのは心細いものですね」
安土城への途上、勝二は誰に言うでもなく呟いた。
織田家の現当主信忠に呼ばれ、お市、息子龍太郎と共に向かっている。
「淡島島などすぐ近くではありませんか」
はしゃいでいる息子に目を細めつつ、妻が励ますように言う。
計画通りではあるが、信親はサラに付き添い淡路島へと渡り、サラを一人には出来ないとしてノエリアも同行した。
幸村は、信長の下で軍師役を勤める父昌幸を補佐する。
お市とて可愛がっていた者達が一気にいなくなったのは寂しい。
「地図で見ると確かに近くではありますが、現地に行くとなると意外と遠い場所ですよ」
明石海峡大橋が架かっている訳でもなく、高速鉄道がある訳でもない。
街道の整備は進んでいるが、歩きやすくなった程度だった。
「大坂から船で向かえば宜しいのでは?」
「そういえばそうですね」
琵琶湖を進む小舟の上、妻の言葉にハッと思いつく。
「速度重視の船を作ってもらえば……」
先に出発した新型船は、速度と共に積載量も重視した。
しかしそうではなく、移動する速さだけを追求した船があれば良い。
出来れば自分専用で、必要な時にいつでも使えるようなら申し分ない。
「プライベート・ジェットならぬプライベート・ヨットですかね」
「ぷらいべいと? 異国の言葉ですか?」
「個人の、というような意味です」
妻に説明した。
「父上、お魚が!」
と、湖を眺めていた龍太郎が叫ぶ。
見ると黒い影が湖面を揺らし、大きな波紋を広げた。
「父上、あれは何のお魚ですか?」
「一瞬だったので何とも……」
我が子の期待に応えられない事がもどかしい。
「鯰ですぜ、旦那」
そんな勝二に船頭が助け船を出した。
これ幸いとばかり息子に言う。
「鯰ですよ」
「鯰!」
龍太郎は喜び、再び一心不乱に湖面を見つめる。
そんな愛息子に夫婦は微笑んだ。
「子供といえば、お腹の大きくなったお陽さんを置いて、弥助さんもネーデルランドに連れていかれるとは思いませんでした」
「腕試しだそうですね。兄様らしいです」
鉄砲隊を率いる重秀は当然として、弥助もマサイ族のモランも、信長の命令で船へと乗せられた。
身重の妻を残していく事に弥助は嘆き悲しんだが、従えないなら追放という選択肢を突き付けられれば、大人しく首を縦に振るしかない。
こうして、インドのゴアから接してきた弥助もいなくなった。
生きていればまた会えると分かっていても、戦場へ向かう彼らに絶対はない。
どうか無事にと祈らずにはいられなかった。
「五代勝二、参上仕りました」
懐かしい安土の町に到着し、早々に城へと向かう。
待ちかねたとでも言うように織田家の当主は待っていた。
「そう畏まる必要はない」
「ははっ」
気を抜けばいつ雷が落ちるとも知れない主君と違い、その息子信忠の表情は温和であった。
身につけている衣装は控え目な色や柄で、信長が贅を尽くしてしつらえた城の主としては若干浮いているように見える。
その優し気な目を勝二の脇に控えるお市に向けた。
「叔母上も龍太郎も元気そうで何よりです」
「当主様からの何とお優しいお言葉! このお市、感激致しました!」
芝居がかった仕草でお市は涙を拭う振りをする。
信忠は苦笑を浮かべた。
「いえ、叔母上。いつもの調子で構いませんぞ」
「そう? なら止めます」
ケロッとした顔でお市は言ってのける。
勝二は呆気に取られて声も出ない。
そんな勝二に気付き、織田家の棟梁は頭を掻きつつ言った。
「昔から叔母上には頭が上がらぬのでな」
その顔に、日本をまとめつつある武家の威厳は見えなかった。
「それはそうと一体どうしました?」
話が進まないと、じれったそうにお市が口を出す。
言われて思い出したのか信忠が理由を説明する。
「いえ、松が礼を述べたいと申しておる故、呼んだ次第です」
「松様が?」
武田信玄の娘にして信忠の婚約者だった松姫。
徳川と武田が衝突した事により、織田と武田の同盟関係は破棄され、当然二人の婚約も解消された。
その後、他家への輿入れ話が何度も出たが頑なに拒否し、手紙を通じて深めた元婚約者への想いを貫いた。
信玄が病に斃れ、家督を継いだ勝頼が信忠軍によって討ち滅ぼされた後、逃げ込んでいた山寺から信忠自らによって救出され、三顧の礼を以て正室に迎え入れられた娘である。
「松にございます」
部屋へと現れた松姫はお淑やかの見本と言えるような人物であった。
その夫と同様、ボロとまでは言えないが、権勢を誇る織田家当主の正室とは思えない質素な衣服を身にまとっている。
しかし、礼儀作法から躾の行き届いた育ちの良さが見て取れた。
その表情には芯の強さが感じられる。
噂通りの人なのだな。
心の中で勝二はそう思った。
贅沢をしないのは、仕官出来なかった武田の家臣達を思っての事だと聞いている。
生活に困窮している家庭の女達を少しでも助ける為、安土城にあって自ら裁縫の針を持ち、勝二が依頼した、西洋へ輸出する女性用の下着を作っているのだ。
また、勝頼と運命を共にした、兄・仁科盛信らの遺児達までもその手で育てていると耳にしている。
一途な愛を守り抜き、仕える主君を失った者らの心を慰撫し、親を亡くした子らの親代わりとなってその身を尽くす。
宣教師が聞きつければ、聖女として讃える事間違いなしの人物であろう。
「五代様には直接お礼を申し上げたいと思っておりました」
そんな松姫が勝二に向かい、深々と頭を下げた。
考え事をしていた勝二は慌て、狼狽える。
「頭をお上げ下さい! そのように感謝される事はしておりません!」
そう言うのがやっとだった。
顔を上げ、真っ直ぐに勝二を見つめる松姫の表情はにこやかである。
「何を仰いますやら。甲斐の宿業という恐怖、諦めから人々を開放して下さり、新たな生活の糧までもお示し下さり、あまつさえ軌道に乗るまでの資金援助、販路の確保まで取り図って頂けたのですから」
「統治に必要であったから行っただけの事です!」
勝二は松姫の言葉を否定する。
「仰るように統治の為であったとして、その身を危険に晒してまで病の原因を究明なさる必要があったのですか?」
「それは儂も気になっていた」
妻の問いに信忠も口を開く。
「どうしてそのような事が出来た? 伴天連が説く自己犠牲か?」
キリスト教の教えは信忠も何となく知っている。
無償の愛を説き、神への帰依を重視しているようだ。
「決して自己犠牲などではありません!」
勝二は強めに断言する。
「では何だ?」
重ねて問うがその表情は険しくない。
信長であれば、同じ問いを繰り返さねばならない事に腹を立てているか、相手を愚鈍だと見下しているところだろう。
勝二はその辺りの説明をする。
「住血吸虫症は長期間に渡る繰り返しの感染が危険で、初めて感染するような場合には重症化する事が稀なのです」
「稀という事は全くない訳ではないのだろう?」
「それはその通りでございますが……」
そう言われると反論のしようがない。
水の飲みすぎにさえリスクは存在し、過度にリスクを恐れれば何も出来なくなってしまう。
「危険は承知でしたが、統治を円滑に進める上で有益だと判断しました。全ては打算による行動であり、自己犠牲の精神とは無縁です」
「たとえ統治の為であろうと、結果としてあの病に苦しむ者が減った事は紛れもない事実です。武田の家に生まれた者として、五代様にはどれだけ感謝しても足りません」
甲斐の国がある甲府盆地は扇状地が多く、水を多く必要とする水稲には不向きな土地柄だった。
なので水の溜まる低地までもが水田として積極的に利用され、水はけの悪さからから膝まで埋まるような湿田となっていた。
住血吸虫はそのような場において多発している。
住民達も薄々その関連性には気付いていたが、当時は度重なる戦乱によって重税につぐ重税で、年貢として納める米以外を育てる道はない。
しかも、病気の危険がある低湿地など誰も欲しがらず、耕すのはそこしか買えない貧乏人であった。
貧乏であるが故に具合が悪くなっても休めず、薬も買えず、栄養のある物を食べる事も出来ずに日々の作業に追われ、徒に感染を続けて症状だけを重くしていった。
気づいた時には立ち上がる事も出来ない、苦しんで死ぬのを待つだけの病人達の出来上がりである。
松姫は悲惨な住血吸虫被害を武田家の責任と捉えていた。
たとえその原因は分からなくとも、特定の地域でしか発生しない病気である事は広く知れ渡っており、そうであれば何らかのやりようがあった筈だ。
しかし年貢米に拘り、貧しい農民達に過大な負担と苦しみを強いた。
全ては勝二の言った事と同じ、甲斐の統治の為である。
父信玄は石高の低い甲斐を治めるのに苦労し、豊かな土地を求めて外征を繰り返した。
豊かさを目指して戦を続け、その負担が領民に押し付けられていたとは皮肉である。
その武田家が滅んだ今、異国に売る物を自らが作る事により、かつての家臣達の生活までも助ける事が出来ている。
父は戦などする必要がなかったのではないか、松姫は最近、そう思うようになっていた。
米が作れなくとも別の手段でお金を稼ぎ、税とすれば良いのだと。
けれども松姫は知らない。
現物納付は貨幣制度が整わない中では合理的である事を。
日本が大西洋に移動し、明国に輸出していた銀貨が国内に流通するようになった事で初めて、貨幣での税納付が可能になった状況を。
それは一方でインフレを招き、市場に大きな混乱を生んでいる事を。




