第133話 勝二夫妻
「長かったですわね」
「疲れました」
諸侯による会談が終わり、勝二夫妻は屋敷へと戻っていた。
間髪入れず、店の者が茶と菓子を持ってくる。
甘い団子を頬張り、熱い茶をすすった。
「家でお茶を飲むとホッとします」
「お寛ぎ下さい」
お市は我が子を抱え、子守歌を口ずさむ。
龍太郎は二人が帰ってくる直前まで泣いていたようで、その小さな顔を母親の胸に埋め、静かな寝息を立てていた。
慈愛に満ちた顔でお市が言う。
「一人だけ留守番で寂しかったのでしょうね」
姉妹が城に呼ばれた際、一緒に行くと駄々をこねたそうだ。
一人残された後でひとしきり泣き、疲れて眠ったという。
勝二は息子の寝顔に、チクリとした胸の痛みを覚えた。
思い出されるのは子供の頃の記憶である。
兄を溺愛していた母は、文化祭や運動会といった行事でも兄しか見ていなかった。
徒競走で一番になろうが、自由研究で県の賞を取ろうが見向きもされない。
常に兄だけが大事であり、自分の事は目に入らなかったようだ。
出掛ける時も自分だけ人数に入っていないかのようで、悲しみから自発的に留守番をする事も多々あった。
泣き腫らした顔の息子に幼い頃の自分が重なる。
出来る限り寂しい思いはさせたくない。
「暫くはこの家にいる事が出来ると思います」
「龍太郎も喜びますわ」
夫の言葉に妻も頷いたが、そういえばと思い出す。
「地図作りはどうされるのです? あれだけ兄様が力説していたのですし、お急ぎなのではありませんか?」
「確かに急ぐ必要はありますが、私が出歩いて作る訳ではありませんよ」
夫の答えに驚く。
地図を作る方法は理解している。
それを任されたのが夫であるので、全国津々浦々を歩く必要があるとばかり思っていた。
呆気に取られた妻に説明する。
「それどころではなくなったのが正直なところです。ネーデルランドに行かずに済んだ半面、西洋に負けない地図、船、大砲を作る事を、信長様より仰せつかりました」
「そうでしたの……」
夫の身を思って国に留まれるよう尽力したお市だったが、かえって厄介な仕事を引き寄せてしまったのかもしれない。
「考えもなく出しゃばってしまったようですわね。申し訳ありません」
お市は謝った。
目に入れても痛くない程に可愛がっていた龍太郎と、少しでも長くいられるようにしたつもりだった。
「謝る必要はこれっぽちもありませんよ。私がそれらの事業を統括するというだけの話ですから」
「でも、兄様の事ですから、上手くいかなければ必ずその責任を追求しますわ」
優しく微笑む夫を案じた。
不安げな妻が安心するよう、自信を込めて言う。
「その辺りはご心配なく。ある程度の成功は予め見込んでいます」
「そうなのですか!?」
普段は憶測で物を語らない夫である。
その彼が成功を見込んでいるというのだから、余程自信があるのかもしれない。
「地図は根気と几帳面さがあれば、誰でも一定程度の物は作れます。今現在でも琉球まで行ける船を作っているのですから、船大工の持つ腕は確かです。大砲は私も扱った事がないので若干不安ですが、スペイン人が驚く鉄砲を作れているのですから、大砲とて問題はない筈です」
「そうなのですわね」
お市は勝二の説明に頷いたが、やはり心配は尽きない。
「地図作りは誰にでも出来る事として、一体全体誰に頼むのです?」
実際問題、それが一番重要ではなかろうか。
根気さと几帳面さを持った人材は少なくないだろうが、兄の満足する仕事をこなせるとは限らない。
「その方には既に頼み、主君共々了承を得ております」
いつの間に、お市はそう思った。
「それはどなたです?」
「羽柴秀吉様の配下、石田三成殿です」
聞いた名である。
大友征伐で九州へと渡った際、物資の輸送で大いに助けてもらったと夫が語っていた。
「でも、織田家の者が毛利様や徳川様のご領地に?」
真面目さ、几帳面さで群を抜くと聞くが、それとは別の問題があるのではと思いついた。
「お市さんは鋭いですね」
「褒めても何も出てきませんわ」
夫の言葉に機嫌が良くなる。
つい力が入り、腕の中の龍太郎がビクンと体を震わせた。
お市はハッと我に返り、子供を起こさなかったか確かめた。
寝息にホッと安心する。
そんな母子の様子に、微笑ましい光景だと勝二は目尻を下げた。
我が子を起こさないよう、小声となって言う。
「地図ですが、我々は織田家の領地分しか作りません」
「それはつまり……」
「ご想像の通りです。領地内を余所者に歩き回られて平気な領主はおりませんので、それぞれで地図を作って頂く事になりました」
「納得出来ましたわ」
いくら同盟を結んだ相手とはいえ、隠しておきたい場所はお互いにあるモノだ。
そんな場所を勝手に歩き回り、不審者として捕縛されてはたまらない。
その点、自分達でやるとなれば安心である。
お市はふと思った。
「どの地図が優れているか、後で比べたら良いのですわ」
「面白そうですね。信長様にお伝えしましょう」
理屈で言えば隣り合う領地の境は、地図の上でもピタリと合う筈である。
「その準備として、地図作りの練習を合同で行う事になっています」
楽し気に子守歌を口ずさむ妻に夫は伝えた。
地図作りの練習会に、毛利からは穂井田元清が来ていた。
「お久しぶりです」
「お元気そうで何より」
甲斐路を共にして以来である。
「毛利での住血吸虫はどうなっていますか?」
「川の水に触らないよう徹底したところ、目に見えて病人が減りました」
「それは良かった!」
住血吸虫の被害は旧武田領だけではなかった。
毛利領、龍造寺領の一部でも確認されている。
水に棲む小さな虫が犯人と信じられなくとも、川に浸からないようにする事で確かに病気の発生が減り、それまでは天に祈るしかなかった村人達に希望を与えた。
恐ろしい病になる事を知りながらも、尚も米を作る事を強いる領主がいなかった事も幸いしていよう。
その他、徳川からは本多正信、上杉からは直江兼続が参加していた。
『それはそうと、ノエリアの方は大丈夫ですの?』
折を見つけ、イサベルが尋ねた。
最近は寺社仏閣に興味を持ち、京の都にも足を延ばしているようだ。
サラと信親の問題には一応の決着を見たので、もう片方はどうなっているのか確かめたかったのだろう。
ノエリアは茶々らに行儀振舞いを教わっている。
『幸村君が言うには問題ないと……』
『心許ないお返事ですわね。家まで遠いのですから仕方ありませんが、なるべく早めに確証を得て頂きたいですわ』
『善処します』
諸侯の集まりに幸村の父昌幸は来ていない。
「お父上には一度、大坂に来て頂かないといけませんね……」
旧武田家臣である昌幸は、滝川一益の配下として信濃にある。
「今度行われる軍事教練に軍師役で参加してもらい、西洋の戦術を破る策を考案してもらえば……」
勝二は一つの案を思いついた。




