第120話 マサイの戦士モラン
モランは誇り高きマサイ族の戦士である。
幼い時分から兄達に負けないくらい足が速く、大きくなる頃には誰よりも高く跳び上がれるようになっていた。
マサイにおいて高くジャンプ出来る能力は大変に重要である。
一番高く跳べる者が村人の尊敬を集め、嫁選びで優位に立てるのだ。
また、マサイには猛獣と戦う為の格闘技がある。
相撲に似たそれは、彼らにとっての財産である牛や山羊を、腹をすかせたライオン達から守る大事な大事な技術だった。
モランはそれを熱心に学び、村には敵う者がいないくらいに強くなった。
空が明るくなると起き上がり、家畜を草原へと連れて行き、暗くなる前に村へと連れ戻し、飯を食べて眠りに就く。
聞くだけなら単調な暮らしに思えるだろう。
しかし、見渡す限りのサバンナには沢山の危険が潜んでいる。
家畜を襲おうと、猛獣が茂みに隠れて近づいてくる事もあるのだ。
目の良いマサイ族であるが、茂みの中の獣はその体毛が保護色となり、外からは容易に判別出来ない。
なので、草を求めて茂みに近づく家畜が襲われる事も多々あった。
そのような時には真っ先に槍を持ち、救いに走るのである。
また、気候の影響で草が育たず、牛に食べさせる事が難しい年もある。
そのような時には遠くまで家畜を移動させる事になるが、餌場が近隣の村と重なる状況も発生する。
基本的には早い者勝ちだが、時には争いに発展しかねない。
モランら戦士の出番であった。
そして病気などで家畜が多く死に、その数が足りなくなった時も、戦士にとっては活躍の場たり得た。
他部族を襲撃し、持っている牛を奪うのである。
足の速い彼の貢献度は高かった。
その日、村の長老に呼ばれたモランがその家へと向かう。
丁度、家の壁を修理していたところで、長老の妻と美しい娘達、小さな息子達がその作業に当たっていた。
モランを見つけた娘達が嬌声を上げる。
彼の人気は高い。
はしゃぐ娘達を軽くたしなめ、夫人は子供達が集めてきた牛糞を土と混ぜ合わせ、水を注いでしっかりとこねていく。
十分にこねたところでその土を手に取り、壁に塗り付けていった。
成人した男の仕事は牛の放牧と猛獣との戦いであり、それ以外には一切手を出さない。
妻や子供達が忙しそうに働いていても、夫たる長老は家の中だった。
モランは躊躇わず家の中へと入る。
マサイの家はそこまで大きくないので、長老も直ぐに気がついた。
『来たかモラン』
『俺に用があるとか』
『ま、座れ』
やけに機嫌が良いなとモランは思った。
普段は無口で、滅多な事では笑わない男である。
そんな男が今日は愛想良く、手招きしてモランを横に座らせ、サトウキビの絞り汁とソーセージの木で作った酒をふるまった。
モランは有難くそれを頂く。
飲むのを見届け、長老が口を開いた。
『お前を呼んだのは他でもない。儂の義弟の手助けをして欲しいのだ』
『長老の? 確かナイロビの村でしたか?』
『そうだ』
マサイの言葉で冷たい水を意味するナイロビ。
ひんやりとした水が豊富に湧き出る地域であった。
長老の夫人はその周辺を拠点にする部族の出身で、モランの住む集落に嫁いできていた。
夫人の弟に当たる人物が村の長を務めており、モランを寄越して欲しいと連絡があったそうだ。
『一体どうして?』
モランは皆目見当がつかない。
そこまで行った事がないので勘が働かなかった。
『詳しい事は儂も知らんが、力のある者を多く必要としているようだ』
『それで俺ですか』
長老の言葉に頷いた。
理由が不明でも行けば分かるだろう。
と、長老が驚く事を言う。
『見返りは牛が3頭だぞ』
『3頭も?!』
だから機嫌が良いのかと合点した。
手伝いくらいで得られる数ではない。
『2頭は儂、1頭はお前だ』
『俺ももらえるのですか!?』
モランは喜んだ。
何もしない長老が2頭も取るとは考えない。
話を自分に持ってきてくれたからこそであり、嫌なら他の者が行こう。
もらえるだけでも有難かった。
牛はマサイにとっての貨幣であり、日々の糧を分け与えてくれる貴重な存在である。
また、嫁を取る際には結納金にもなった。
1頭でも多く持ちたいと誰もが思っている。
『行くかモランよ?』
『はい!』
長老の問いに力強く答えた。
『どうしてこうなった……』
鎖に繋がれたモランは檻の中で呟いた。
あの時断っておけばとの後悔の念が強い。
牛をくれると誘われ、ホイホイついて行った結果がこうである。
自分の浅慮を思い知った。
ナイロビでの手伝いは狩りで、それは何の問題もなく終わったのだが、モランの足に目をつけた他の村の者が声を掛けてきたである。
もっと牛を手に入れないかと。
報酬である牛をもらったモランはつい欲を出し、その誘いに乗ってしまった。
長老を介さないので、全て自分の物になると思ったのだ。
それは、東に行った先にある、大きな村を襲うという計画だったのが、火を噴く
槍を持った男達によって返り討ちに遭ってしまった。
ライオンの咆哮など比較にならない大きな音を出し、白い煙をまき散らし、手も触れずに仲間をバタバタと倒していくそれ。
モランは訳が分からず恐怖に怯え、ついに捕まってしまった。
それからの事ははっきりとは覚えていない。
ただ、手足に縄を巻かれ、列になって長い距離を歩かされた事だけは確かである。
足を止めようモノなら容赦なく殴られ、無理やりにでも先へと進む事を強制された。
やがて、モランの村近くの池とは比較にならない大きさの湖に辿り着き、縄から鎖に換えられた。
同じような者が多数、一カ所に集められていた。
『ここはどこだ?』
隣の男に話し掛けたが返事がない。
聞こえていないのかともう一度尋ねたところ、モランには聞き取れない言葉でまくし立てられた。
『他の部族なのか?』
益々状況が掴めない。
そうこうしているうち、湖に浮かべた木の塊の中に入れられた。
見上げるような大きさの木の塊で、長い棒が3本、天に向かって伸びている。
白く大きな布がその棒には巻きつけてあった。
木の塊の中は薄暗く、自分と同じような男達でギュウギュウ詰めだ。
やがて木の塊が揺れ出し、足元が覚束なくなった。
気分が悪くなり、腹の中の物を床に吐き出す始末。
周りも同じで、そこらじゅうが吐しゃ物で溢れかえった。
地獄のような旅をし、降ろされたのはゴアと呼ばれる町だった。
生まれて初めて目にする大きな町で、ヌーの群れのように多くの人がいた。
そこからまた船で運ばれ、ホムルズの町に降ろされた。
そこでアラブ人の商人に買われ、コンスタンティノープルへと連れて来られて今に至る。
コンスタンティノープルはゴア以上に大きな町で、どうして自分がこんなところにいるのかまるで分からなかった。
あの時断ってさえいればと思う。
そんな時だ。
変な男達が現れたのは。
その男達は上等な衣服を身に纏い、小ざっぱりとした姿をしていた。
対して自分達の服はボロボロ、髭も生え放題で体も満足に洗えず、すえた臭いをまき散らしている。
漂う悪臭にその者達は鼻を摘まみ、不平らしき事を口にしていた。
場違いに見える男達に檻の中は大きくざわめいた。
そこまで興味のないモランはいつものように考え事を始める。
遠い故郷の、どこまでも広がる広い草原を駆けた、楽しい記憶を呼び起こす。
そうやって現実から逃避する事で精神を保っていた。
『こんにちは』
その故郷で、毎日のように使った言葉が耳に届いた。
ギクリとし、聞き間違いかと思い、声の主を探す。
それはあの場違いな者達のうちの一人で、こちらをじっと見ている。
慌てて口を開こうとしたが上手く出来ない。
長い間誰とも話さずにいたので、どうやって話すのか忘れてしまったらしい。
そんなモランに再び懐かしい言葉を使う。
『あなたはマサイではありませんか?』
『何で?!』
そう問い返すのが精一杯だった。
これがモランと信長の出会いで、この出会いがアフリカに黒人国家をもたらす事につながっていく。
マサイ語では戦士の事をモランというようです。
マサイ族の名前が分からないので採用しました。
ナイロビから東南方向に向かうとモンバサ、マリンディというポルトガルの交易拠点があり、そこからインドに向かっていたようです。
ホムルズもポルトガルの交易拠点です。




